*1996年08月26日:読者は最初の項目をクリックする
*1996年08月27日:スナックR:名前の円環
*1996年08月28日:何故、週に一度しか更新しないのか
*1996年08月29日:手塚治虫の、未解決初出データを絞りこむ
*1996年08月30日:免許更新:掃除
*1996年08月31日:「オペラアリアへの誘い」
*1996年09月01日:緻密で完璧な計算について
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*1996年08月26日:読者は最初の項目をクリックする


 そのことに気がついたのは、6月頃だったと思う。

 例えば「新・ベルリオーズ入門講座」の中では、「幻想交響曲」の人気が、飛びぬけて高い。2位グループに5倍から10倍の差をつけて、ぶっちぎりである。これは、ベルリオーズのポピュラリティと幻想交響曲のそれとを考えてあわせてみれば、自然なことに思える。

 「内宇宙への扉」では、「デッド・エンド(山田正紀)」が、やはり2位以下をダブルスコアで引き離している。この作品、作者の作品系列中ではごく地味な部類に属するはずなのだが、「2001年」「ゴジラ」「吾妻ひでお」「手塚治虫」が呼び物の、このホームページ、相対的にSFファンの読者の比率が高いと見て間違いはなく、日本のSFファンならば、山田正紀の名前位は知っていようし、かつ、C・I・ドフォントネー、デイヴィッド・リンゼイ、パウル・シェーアバルトらの名前には親しんでいない、ということは十分考えられるのであって、従って「デッド・エンド」に人気?が集中するのは、無理もない。

 「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」では、「ジャングル大帝 1」が、ダントツである。2位の「ブラック・ジャック 22」の倍以上、3位以下を5倍以上引き離している。これも当然だ。なんといっても「ジャングル大帝」である..

 ..ここで、少々おかしいことに気がついた。「ジャングル大帝」は、全3巻である。第1巻へのアクセスが、2巻、3巻へのアクセスの5倍、あるのだ。何故?

 「“類別トリック集成”読破リスト」のアクセスログを集計して、疑問が氷解した。(ミステリのページに相応しいというべきか。)

 このコーナーでは、さすがにクリスティが強い。「アクロイド殺人事件」「オリエント急行の殺人」「そして誰もいなくなった」が、トップグループを形成している。しかし、これらとほとんど同数のアクセス数を誇っているのが、「江戸川乱歩選『世界短篇傑作集』」なのである。

 確かに、極上の名作短編集だ。しかし、「黄色い部屋の謎」や「Yの悲劇」や「僧正殺人事件」や「獄門島」に、圧倒的な差をつけて、票を集めるのは、不自然ではないか?

 理由は明らかだ。そう、「江戸川乱歩選『世界短篇傑作集』」は、“リストの先頭にある”のであった!

 他を圧するアクセス数を誇っている、「幻想交響曲」、「デッド・エンド(山田正紀)」、「ジャングル大帝 1」も、全て、リストの最初に置かれているのだ。これは盲点だった。

 “試食”とは、そういうものなのであろう。どの程度のものか判らないので、取り敢えず読んでみる。その時、端っこの項目を選ぶというのは、もしかしたら片端から読むことになるかも知れない、と、予感していれば、自然なことであろう。だからこそ、先頭の項目は、入念に用意しなければならないのだ。“掴み”という奴だ。ここで失望させれば、読者は残りをひとつも読まないかも知れない。たまたま、上記の先頭項目群は(『世界短篇傑作集』につけた文章以外は)我ながら気合の入った文章群であったが。

 しかしそれにしても、これらへのアクセスが圧倒的に多いということは、逆に言えば、他を読む必要は無し、と、判定する読者の方が、多数派だということだ。これらをさらに練りあげる必要が、ありそうだ。(実際には、一旦引き上げて、改めて読みに来る(従って、アクセス回数がだぶる)、あるいは、先頭項目を読んで満足して、残りは、ダウンロード用に用意してある、全テキスト圧縮パッケージを持っていく、という読者も、ログを解析すると多数いるので、事態は単純ではないのだが。)

(全く別件だが、この記事は、リンクの張り過ぎで読みにくくなってしまった例である。“リンクの張り過ぎ”の見苦しさについては、いずれ述べる。)

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*1996年08月27日:スナックR:名前の円環


 私は、夕食(夜食)をもっぱら外食に頼っているが、その際に、ノートブックで原稿書きやログ整理などをすることが多い。

 今日はたまたま、馴染みのレストランや居酒屋に、予期せぬ臨時休業その他の事情でことごとく入れず、やけくそ半分で(以前から気になっていた)Rというスナックに入る。気になっていた、というのは、このRは、外から見ると何の店だか全く判らない(もしかすると洒落た作りの事務所かも知れない、とすら思えた)からである。

 時間が早かったので、客は私だけ。さすがの私も、とても若くて美人で陽気で饒舌なホステスと、カウンターで差し向かいになってしまうと、読書も原稿書きも、している場合ではないのだった。このEというホステスの饒舌さは、酒が入った時の私の饒舌さとは、かなり性質の異なるもので、全身を使ってしゃべるというか、動作の表情が豊かなものであり、ほとんど芝居を観ているようで、面白かった。

 例によって、“名前ネタ”を披露する。過去四半世紀以上、私の自己紹介は、これ一本でしのいで来たのだ。「倉田わたる」を、このように円環状に並べると、


 どちら回りに読んでも、「倉田わたる」と読めるのである。サンプラーなどで録音して逆再生すると、実証できる。(この場合、正確には“うらたわたるk”と聞こえる。)

 お定まりのカラオケなどして、深夜に帰宅。料金もリーズナブルである。月に一度くらい、顔を出すことにしよう。

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*1996年08月28日:何故、週に一度しか更新しないのか


 ネタは毎日仕込んでいるし、ドラフトも(ほぼ)毎日書いている。しかし、逐次更新はせずに、一週間分、火曜日前後にまとめて更新している。何故か。

 それは、一週間分の記事(日記)の配分をはかっているからだ。もちろん、事件(イベント)があった日は動かせないし、それはその日の日記に書くのだが、数的にはそれより多い(特定の日には結び付けられていない)エッセイを、事件のなかった日に配分する、そのバランスを取っているのである。

 一昨日書いたように、読者は、最初の項目をクリックする。そして、その項目(文章)が面白いかどうかで、全体を値踏みする。このことに気がついてから、しまった、と、思ったのが、この「廃墟通信」の最初の項目(96/04/01)である「廃墟より」、およびこれを含む、最初の一週間分のファイルに収められた文章群は、状況説明が多くて、たいして面白くはないのではないか、ということだ。

 実際、ログを見ても、この第1週へのアクセスが最も多く、第2週以降は、半分以下に減っているのである。これは私には、第1週の“つまらなさ”が原因であるように思われた。

 そこで、ふたつの対策を打った。

 まずひとつは、“7月1日”に勝負をかけることである。つまり、この日記の目次では、一週間を1行として並べているが、さすがに20行以上も並ぶと見づらくなるので、四半期ごとに(4月〜6月というように)まとめて行く予定であり、従って、最初の3ヶ月がまとめられた時には、7月1日が、第1項目となるのである。(この最初のグルーピングは、8月後半に実施した。)ここに、“あとを引くような”面白い文章を載せること。これがひとつ。(「逆光」が、それである。)

 もうひとつは、一週間づつまとめられているファイルの、最初の記事(すなわち、月曜日)に“掴み”となる文章を配し、中盤の水・木曜日あたりをダレ場として、土・日曜日で“引き”を作ること。無理なく翌週に引っ張ること。

 この計算をするためには、一週間分の材料が揃ってから、エッセイの配置を考えなければならないのだ。無論、不可抗力的に発生する事件と、なによりも私自身の力不足のために、多くの週は、そのような“理想的な”構成にはなっていないのだが。

 現在では、7月以降の各週へのアクセスは、4月第1週と同程度か、それよりも多い。これは日記読者が、あまり過去に遡って読むことはしないからであろう。上述した対策が功を奏しているかどうかは、まだ判らない。

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*1996年08月29日:手塚治虫の、未解決初出データを絞りこむ


 ほとんど三日もかかってしまったが、「手塚治虫漫画全集」「手塚治虫物語」「手塚治虫エンサイクロペディア」「手塚治虫の軌跡」の、4つの資料を照合して、解決できなかった初出データの矛盾を、33項目に絞りこんだ。あとは、

*この33項目を、0を究極の目標として減らしていく
*その他の曖昧な(連載時期の範囲しか判っていない)初出データを、1章(1話)ごとに分離する
*375冊分の解説を書く

 これだけである。(仕事が増える一方のような気がするのは、なぜだろう。)

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*1996年08月30日:免許更新:掃除


 午後半休を取って、免許の更新に行く。(30分で終る優良講習ではなく、2時間の一般講習を受講する件については、詮索無用である。)とはいえ、夜までかかる訳がなく、まだ日も高いうちに終ったので、野暮用をいくつか片付ける。

 例えば、掃除である。前回、いつ掃除をしたのか、全く記憶に無いのだ。1ヶ月や2ヶ月どころではないことは、間違い無い。半年..1年..? 日記で確認しかけたが、そのようなことを今さら知っても仕方が無いので、やめた。(そもそも、掃除をした日は、そのことを日記に書いている−日記に書くに値する、非日常的な事件である−ことを、問題なしとはしない。)とにかく、いまだかつて、これほど膨大な量の埃の中で、長期間にわたって生活を続けていたことはない。いっそ床の上の埃は(絨毯にからんでいるのか)、足を下ろすポジションさえ間違えなければ、舞い上がりもせず、さほどおおごとにもならないのだが、問題は、本棚の埃である。書籍の手前の隙間にも、書籍の上にも、フェルトのような帯状の埃と砂状の埃が降り積もり、1冊取り出すだけでも容易なことではない。

 はたきをかけた、掃除機をかけた。それはもう、戦争状態であった。何しろ、はたきをかけても、埃の主力は舞い上がらず(いやもちろん、煙幕のように舞い上がるのだが、それは主力部隊ではないのだ)、足元に降り積もってもこない。そうではなく、ドカドカと、塊となって落下してくるのである。

 恐れていたような、小動物や節足類の死骸は、発見されなかった。これでまた、半年は持つ。(私は、年末に大掃除をするという習慣を、持たない。)

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*1996年08月31日:「オペラアリアへの誘い」


 アクトシティの中ホールで、3時から「オペラアリアへの誘い」というコンサート。これは、私のヴォイストレーニングの先生であるT先生が主宰されている、「浜松声楽研究会」の第1回公演である。先生に師事している20人が、計30曲のアリアを歌う。アマチュアからプロまで、レベルは玉石混淆だが、中には身を乗り出して聴く水準の歌も。

 伴奏は室内合奏団であり、ヴァイオリン2名のほか、フルート、クラリネット、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノ、各1。この人数でフルオケの伴奏をアレンジしたものを演奏するのだが、音量不足とは、全く思わなかった。これは面白い発見である。実際のオペラでも、もろに歌伴になるところでは、オーケストレーションが薄くなっているし、指揮者はボリュームを落すものなのだ。(例外無数。)

 終ったあと、フォルテというビルの8FのAというビアホールで、飲む。そのあと、スナックRへ。

 Rでは、カウンターで隣に座っていた中年の夫婦連れが持参していた、芸術新潮誌を読ませていただいたことがきっかけで、絵画と音楽の話題に話がはずむ。御夫婦とも、アマチュアの絵描きで、音楽を題材にした絵を、展覧会に出品しているとか。

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*1996年09月01日:緻密で完璧な計算について


 私だって、いつもいつも、居酒屋やスナックで食事をしている訳ではない。自炊だってするのである。(確かに、頻度は減ったが。)味や腕前は、まぁともかくとして、調理の段取りの見事さたるや、我ながらほれぼれするほどのものである。

 とにかく、右腕も左腕も足も、片時も休まない。コンロに火を付けたその手を戻す反動を利用して、冷蔵庫の扉を開け、卵とバターを取り出すと同時に蛇口を捻り、汚れた手を水流にさっと通してタオルをかけてある椅子の背に向かう、その動きを利用して、皿を運び..と、蝶が舞い蜂が刺すとは、このことか。円運動が一瞬も止まらないのである。この、複数の作業が互いに協調して並行して進行するさまは、専門家でないと判らない比喩かも知れないが、DSPのプログラムに似ている、と、いつも思っている。

 この、全く無駄の無い完璧なプログラムは、しかし、脆い。電話の呼出音ひとつで、全てが崩壊するのである。

 そう、中断から回復出来ないのだ。右腕、左腕、下半身が、協調して別々に動く、この“ダンス”は、中途から再開することが不可能なのである。(例えばピアノで、暗譜している曲を、途中から演奏出来ないようなものだ。)ただただ茫然として、火が通り過ぎて固くなってゆく、フライパンの上の卵。無意味に流れ続ける水。それらをどうすればいいか判らずに、眺めているばかり..

 ここまで無駄なく段取りを詰め込む理由は、何か。もちろん、時間短縮のためである。(そのために、元々時間のかかる工程は、先に済ませて冷蔵庫に保存するなどしてある。)それを可能とするために、一挙手一投足に至るまで、プログラミングする。これは、現代のハイテク戦闘機が、コンピューター制御で空を飛ぶのと似ている。そして、完璧に構築されたシステムほど、そのプログラムが壊れた時に、なすすべもないのである。例えばハイテク戦闘機は、コンピューターが止まってしまうと、直ちに墜落してしまう。自然の揚力に身をまかせて飛んでいることすら出来ないほど、高度に最適化された機体だからだ。

 もっとアバウトな、大らかな機体であれば、少なくとも滑空ぐらいはしていられる。もっといい加減な段取りの、適当な調理手順であれば、(必ずや日常的に侵入して来るであろう“邪魔物”であるところの)電話や来客にもびくともせず、何事もなく調理は再開され、(無駄が多く、多少とも長い調理時間の末)無事、食卓に乗るであろう。

 つまりは、そういうことなのだ。4発中3発のエンジンが壊れても、平然と空を飛ぶ、旅客機。電話や来客で邪魔されて、多少焦げたり不細工だったりしても、安定した品質で提供される主婦の料理。それこそが、日常的なプロの世界というものである。ギリギリのチューニングで辛うじて空を飛びつつ最高の性能を発揮するハイテク戦闘機。割り込みを許さぬ芸術的な段取りで最短時間で調理してのける独身貴族の日曜料理。これらは、非日常的な、遊戯の世界に属するものなのである。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Sep 1 1996 
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