デッド・エンド(山田正紀,1979


 あなたは、夢想したことはないだろうか? 自分の人生の一切は、無駄ではなかったのだと。自分のしでかした数々の愚行や回り道、忘れてしまいたいことや取り返しのつかないこと、それら全てが、自分にとって、自分の子供たちにとって、世界にとって、未来にとって、実は“意味のある”ことであったのであれば、と、願ったことはないだろうか?

 無論、虚しい夢である。“宇宙”も“時間”も、我々個々の運命や人生には関心を持たない。あまたの行為と生命は、ただちに忘れ去られ、たとえ数年、数十年、あるいは数世代、数十世代、記憶に残ったとしても、同じこと。いずれそれらは最初から存在しなかったかのごとく、この“宇宙”と“時間”から消滅してゆく。あなたの生涯は、“未来”にとって、単に無意味なのである。



 惑星アスガルドに住む、一見して人畜無害な“亡びゆく”種族、オーディン。アスガルドに住みついてオーディンを研究する、民俗学者、ルー。彼女には、幼い娘を事故でうしなったという、痛恨の過去があった。そして、オーディンが実は巨大なパワーを持ち、宇宙にすむ人類全体を危機に陥れるのではないかという疑念を持ち、巡洋宇宙艦<フェンリル号>を差し向けた、汎宇宙友邦機構。<フェンリル号>艦長は、オーディンの害意の証拠を掴んだと確信して、3人の“人間兵器=特殊戦闘員”をアスガルドに送り込む。彼らのコードネームは、“巨人”、“蛇”、“狼”。

 オーディンは、無数の神話を紡いでいるのだった。創造神話、終末神話、そして…。

 “巨人”と“蛇”と“狼”がオーディンを殲滅すべく迫る中、ルーは、オーディンの長、イーグの語る神話のビジョンに触れる。その神話の一挿話は、ルーの物語だった。

 … 子をうしなった女、ルー。彼女は嘆き、絶望し、神々を呪い、憎んだ。彼女は街をさまよい、そして“究極の神”がまどろむ尖塔に辿り付いた。何故“究極の神”が子供を救えなかったのか? そう、“究極の神”は、ルーの子供をみごろしにしたのだ。悲しみと絶望と呪いと憎悪にとらわれたルーは、ナイフを持って尖塔の階段を駆け上がる。そして、最上階の扉をあけ、寝台にかけより、ナイフをふりかざし … その手を途中でとめた。そこでスヤスヤとやすらかな寝息をたてているのが、裸の、ちいさな赤ん坊だったからだ。

 ルーは、赤ん坊を殺せなかった。殺すべき“究極の神”であるにもかかわらず、殺せなかった。…… そのとき、ルーは、これが“神話”であることを、そして、過去を語る神話は時間を越えて未来にも通用することを、すなわち、神話は絶対に古くならないし、滅びることもないことを知ったのだった。


「あれが、わたしの神話なのね……」
 ルーがしずかにきいた。「子供をうしなった女、この世でもっとも不幸な女、かわいそうな女……」
「そう」
 イーグがうなずいて、いった。「だが、赤ん坊は殺せなかった女……あなたはそう語りつたえられることになる。そして、子をうしなった母親の悲しみも、母親にそれほど愛されていた子供も、永遠に忘れられることはない……」

 全てが伝えられて欲しい。何一つ無駄に消え去らないでいて欲しい。ある意味で非常に子供っぽい、このような願いを、“まっすぐに”語れるジャンル。それがSFである。


「だれも滅びないのね……」
 ルーの脳裡を、娘のリザがいかにも嬉しそうに、はしゃぎながら、走りぬけていく。ああ、走りぬけていく……
「どんな命も滅びることはないのね……」
「いちど開花した命は絶対に滅びることはない。この宇宙に無意味な命など存在しえるはずがない……すべての命は、進化のわだちであり、より優れた生命体が誕生するための、鎖の輪なのだから」

 人類は、地球人型知性体は、いずれことごとく滅びる。しかしそれは終末ではなく、地球人型知性体からみれば神にもひとしい、超知性体が誕生するときなのだ。そして、地球人型知性体を含むこの宇宙の全てが神話として残っていなければ、彼らが生まれることはないのだとすれば … 彼はわたしたちの子供ではないか…。


「わたしたちは、じつは、億のオーダーで宇宙にひろがっているのです。ただ、記録者、観察者、という仕事に徹するために、できるだけ人目につかないようにはしていますが……そう、わたしたちは、この宇宙のすべてを神話にし、つたえることができると信じています。それが、わたしたちが生をさずかったときから、さだめられていたおきてなのですから」

 本書に充溢している“明るい寂寥感”は、確かにこの主題に由来するものである。1974年に「神狩り」でデビューした作者の、79年の作品。当時29歳だった作者の若々しさ、ういういしさが、ぎこちないながらも伸びやかな筆致に表われている。

 子供を産むこと。事業を起こすこと。後世に残る何かを作ろうとすること。夢見ることは同じである。例え、いずれ家系はとだえて滅び、事業はついえ、形あるものも形なきものも、一切が灰塵に帰すことが判っていても。 ……



 あなたは、夢想したことはないだろうか? 自分の人生の一切は、無駄ではなかったのだと。自分のしでかした数々の愚行や回り道、忘れてしまいたいことや取り返しのつかないこと、それら全てが、自分にとって、自分の子供たちにとって、世界にとって、未来にとって、実は“意味のある”ことであったのであれば、と、願ったことはないだろうか? ……



*「デッド・エンド」山田正紀 (文春文庫)

(文中、引用は本書より)


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MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Oct 15 1995 
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