*1996年09月02日:正順 vs. 逆順
*1996年09月03日:リンクの張り過ぎについて
*1996年09月04日:誕生日
*1996年09月05日:「660万通りの葉書が選ぶだけ!」
*1996年09月06日:「気狂いピエロ」
*1996年09月07日:“お気楽オフ”について
*1996年09月08日:“お気楽総集編”
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*1996年09月02日:正順 vs. 逆順


 さほど多くの日記を読んでいるわけではないが、どうも世間では、逆順に(即ち、最新の日付のものから古いものへと、さかのぼって)配置している人が多いようだ。(多数派とまで言えるかどうかは、知らない。)理由は判る。常に最新の文章を(ファイルの底までスクロールせずとも)読むことが出来るからだ。

 しかし、これは私には、とても読みにくく感じられる。毎日読んでいる人には気にならないのかも知れないが、数日間にわたる事件や話題(旅行やイベントやフレーミングなど)を、まとめて読む時は、結局、ファイルの底から逆スクロールしつつ“スイッチバックして”読まなくてはならない。

 試行錯誤の末にたどり着いたのが、現在のフォーマットである。(といっても、試行錯誤したのは公開前のことであって、公開してからは、全く変更していないのだが。)これを読んでいる人にはお判りのはずなので、重ねて詳述することはしないが、

*上から下へ、時系列(正順)で自然に読めること
*最新の文章へのアクセスが、煩わしくないこと
*ノートブックの640*480の画面で、ストレスを感じないこと
*検索性に優れること(サーベイしやすいこと)

 これらの点に、特に気を配った。“検索性”については、目次ページから主たる文章に直接ジャンプできること、前週/翌週への移動は“ポインティングデバイスを動かさずに、クリックし続けるだけで良い”こと。それなりの完成度で実装したつもりである。いかがなものであろうか?

 年内には、タイトル目次を整備して添付する予定である。

 さらに先の目標としては、検索フォームを作成すること。いまはそれだけの技術力が無いのだが、これが完成したら、吾妻ひでおや手塚治虫のリスト、類別トリック集成や怪談入門のリストにも適用できて、非常に閲覧しやすくなるはずであり、ホームページ全体が、データベースとして1ランクも2ランクもアップする。年内は無理でも、出来れば今年度中に。

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*1996年09月03日:リンクの張り過ぎについて


 やたらとリンクを張っているページがある。フッタ部分にネットスケープやマイクロソフトや内外のサーチエンジンへの、アンカー付きアイコンを並べているのは、よい。特に、「このページはネットスケープ2.0以上じゃないと、まともに読めないよん」と明言しているページであれば、ネットスケープを持たずにそこに迷いこんでしまった読者のために、ネットスケープをダウンロードするための便宜をはかるのは、むしろエチケットであると言えよう。

 気になるのは、文章中の単語に、めったやたらとアンカーを打っている場合だ。他人の文章をさらし者にするのもなんなんで、数日前の自分の文章を例にあげるが、しかし、これはまだ、理にかなっているというか、目的がはっきりしているだけ、ましな方なのである。つまり、ここでリンクを張っている先は、ことごとく自分の(ホームページ内の、別の)文章であって、そちらも読んで下さいな、え、まだこれを読んでいなかったの?という、客引きなのである。まぁ趣味が良いかどうかはともかく、リンクしている理由は判る。

 理解できないのは、例えば「ソニー」という単語が出てきたらソニーに、「IBM」という単語が出てきたらIBMに、「サターン」という単語が出てきたらセガに、リンクする神経である。

 本当に、クリックしてもらいたいのだろうか?

 ハイパーテキストに限らず、脚注の多すぎる文章一般について言えることなのだが、アンカーをクリックしたり、巻末の脚注ページにジャンプしたりする度に、読者の意識の中で、本文の流れが途切れてしまう。それを覚悟の上でアンカーを打つなり脚注を付すなりする分には(本文の流れを犠牲にしてでも参照して欲しいのならば)、全くなんの問題もない。しかし、「ソニー」という単語に「ソニー」という企業のホームページへのアンカーを打つ..一体、ソニーという企業を知らない読者が、何人いると思っているのだろうか?

 確か、30年近く前のテレビドラマだが、不思議なタイミングでCMを挿入していたものがあった。スポンサーは家電メーカーだったと思うが、そのドラマの会話の中に「電気洗濯機」が出てきたところで、洗濯機のコマーシャルが入ったのである。これには驚いた。仰天した。いまでもそのことを覚えているのだから、試聴者に印象を植え付けるという意味では、確かに成功したCMと言えよう。

 特定のキーワードに反応して、ドラマ本来の流れを放り出して、そのキーワードの解説(宣伝)モードに入ってしまう、このテレビドラマは、必要以上にキーワードにリンクを張っている現代のホームページと、驚くほど似ている。そして、覚えているのはCMのことだけなのだ。ドラマの内容は全く覚えていない。「CMのタイミング」の印象が、ドラマに関する記憶を、吹き飛ばしてしまったのである。スポンサーとしては、全く問題なかろう。しかし、ドラマの制作陣営としては、どうだったか。

 「キーワードが出てくる度に、アンカーを打っているページ」を見て思い出すのは、この「なんら印象に残っていない」テレビドラマのことである。一体、自分の文章を読んで欲しいと思っているのだろうか?

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*1996年09月04日:誕生日


 38歳の誕生日である。この歳になると、めでたくもなく、さりとて(まだ)悲しいわけでもない。

 よく、30歳を目前にして“悪あがき”する人がいるが..(突然16進数で数えはじめて、まだ20前だと言い出したり..)ま、30過ぎてしまえば、何をこだわっていたんだろう、と、笑い飛ばせる様になるものだ。楽になるよ。

 ちなみに私は、昭和33年9月4日生れ。“さんざん苦しんで死ぬ”と、覚えておいていただきたい。

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*1996年09月05日:「660万通りの葉書が選ぶだけ!」


 タイトルに引用したのは、先日、秋葉原でみかけたプリンタの看板のコピーである。

 図案や色合いや定型文の組合せで、これだけのバリエーションが得られるというアピールであろうが、私は「660万通りもの可能性の中から、どうやって自分のニーズに最も近いものを選ぶというのだ」と、げっそりしてしまった。

 このコピーの感覚は、古すぎる。今や、どうやって(最短時間で)ベストな解を出力出来るか、そのインターフェースを競う時代であろう。こういう(例えば“検索”の)性能は、判りやすくキャッチーな“一行コピー”には収まりきらない(ので、一目瞭然な“数字争い”をする)、というのが現実ではあろうが。

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*1996年09月06日:「気狂いピエロ」


 今日は、ゴダールの「気狂いピエロ」を観る日である。いまだに観たことがなかったのだが、今年で配給期限切れだという。映画館で観るラストチャンスという訳だ。

 終業後、街中に繰り出して、まずフォルテ8FのビヤホールAで飲み放題。22時の開演には少々早いが、まぁ酔いを醒ましながら文庫本でも読んでいようと、21時に映画館に出向いたら、カマっぽい中年のオヤジが。[;^J^] 「おにぃさん、ゴダールを観るのかい? そりゃいいね、これは名作だからね!」などと擦り寄ってくるので、近くのバーに逃げ込む。[;^J^](初対面で、私の年齢を当てられる人は、まずいない。)

 開演時間に映画館に戻ってみたら、もうあのオヤジはいなかった。

 なるほど、こういう映画であったのか。(予備知識はゼロであった。)前半で数分間、ビールと水割りの酔いが回ってウトウトしてしまったが、その程度のことでストーリーが把握出来なくなるような、ヤワな映画ではなかった。[;^J^] 不思議なイメージの集積である。「黄金時代」に似ているように思う。正直なところ良く判らなかったのだが、いくつかの印象は確実に残っている。数年後に、感性の肥やしになっているだろうか。

 とっくの昔にバスはない。タクシーだと深夜料金で1500円弱。徒歩で45分弱。東京帰りで疲労と荷物を抱えている場合は、問題なくタクシーだが、手ぶらならば問題なく歩き。そして週末に徒歩で帰宅する場合は、帰路の半ばにある「赤ちゃん」という店に寄るのが通例である。ここはお好み焼屋だか居酒屋だか飯屋だか判らない、なんとも雑然とした、えらく居心地のいい、アットホームな店である。数年前は週に何回も通っていた(何しろ徒歩で行ける)のだが、ここ1〜2年は、えらく疎遠になっている。理由は単に、週末に限らず深夜には、ニフティサーブでRT(俗に言うチャット)をしていることが多くなってしまったからだ。それやこれやで、店が開いている時に通りかかる機会があれば、出来るだけ寄るようにしているのだ。

 ビール1本と料理1品(特定のメニューがある訳ではなく、その日に入手出来た旨い素材を調理して出してくれる)で、1時半頃まで。

 結局、映画をはさんで3軒ハシゴした晩であった。

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*1996年09月07日:“お気楽オフ”について


 ニフティサーブFCLA(クラシックフォーラム)のオフラインパーティのひとつに、“お気楽”シリーズというのがある。これは、東京のMさんが主催しているもので、要するに(滅多に演奏に参加する機会がないような)大規模な声楽曲を、(比較的小編成で、それほどリハーサルや練習を重ねることにこだわらずに(しばしば初見で))お気楽に演奏しよう=楽しもう、という趣旨である。

 背景説明が必要だろう。

 FCLAは演奏オフがさかんであるが、実は、器楽奏者と歌い手が共に演奏する機会は、案外少ないのだ。器楽系は器楽系、合唱系は合唱系で、それぞれ別個にオフがもたれているのである。最大のオフである夏オフには、オペラ粋があるし、声楽付きの管弦楽作品も取り上げられるのだが、逆に言うと、これほど大規模なオフでないと、実現しにくいことなのだ。うたオフは例外中の例外、数年ごしの準備の末、ようやく実現した企画なのである。

 別に、歌屋と器楽奏者の仲が悪い訳ではない。[;^J^] レパートリー的に実現しにくいのである。歌が器楽の、あるいは器楽が歌の、添え物にならない、即ち、歌も器楽も存分に楽しめる作品となると、どうしても、かなり大規模な声楽付き管弦楽作品となる。

 まず、人を集めにくい。オーケストラの全パートを(多少の欠落はやむを得ないとしても)まんべんなく。さらに合唱の各パートも、それなりの人数を。この条件をクリアするだけでも、容易なことではない。加えて、何しろ大曲であるから、1回や2回のリハーサルでは、到底まとまらない。それなりに練習を重ねなくてはならない。

 参加者は基本的に、皆、アマチュアであり、つまり、多忙な本業を抱えているのである。さらに、器楽奏者も歌屋も、アマチュアオーケストラやアマチュア合唱団に参加している人が多く、休日は練習や本番で多忙なのである。合唱付き管弦楽作品が、オフで滅多に取り上げられてこなかったのは、必然的であった。

 昨年3月に始まった“お気楽シリーズ”で取り上げられた曲目を、示そう。

*バッハ:カンタータ70番&78番
*バッハ:ロ短調ミサ
*ブルックナー:テ・デウム
*ブラームス:ドイツ・レクイエム
*モーツァルト:ハ短調ミサ

 これらの曲を知っている人であれば、眩暈がするのではないか。途方もない、特にアマチュアの歌屋にとっては、滅多に(というか、下手をすると一生)管弦楽付きで歌う機会がないような、大曲ぞろいである。

*問い:上述の諸問題(大勢を何日間も拘束するのが難しい)を、どうやってクリアしたのか?
*答え:気にしないことにした。[;^J^]

 この、コロンブスの卵としか言いようがない、誰も思い付かなかった、見事な(お気楽な)“解”を呈示し、実現してしまったことこそ、Mさんの(FCLA史上に残る)功績であった。

 揃わないパートは仕方が無い。練習会に来れなくても(逆に、練習会にしか来れなくても)仕方が無い。無いパートは、別の楽器でカバーする。

 実際、合唱は辛うじて全パートが揃うも各パートひとりづつ、ということも何度かあったし、ヴァイオリンが全然いなかったり、チェロ等低音楽器がいなかったり。逆に、どこかのパートが突出して多かったり。

 それでは音楽にならないだろう、曲の本来の姿とは異なるではないか..と、あなたは思うだろうか? 確かに、作曲者が楽譜に書き記した全てが音になるわけではない。しかし、まぎれもなく“音楽”である。奇妙な響きかも知れないが、疑いもなくバッハやブラームスやモーツァルトの音楽なのだ。そもそも、楽譜どおりに正確に再現しなければならない、というドグマは、今世紀に入ってから成立したものであり、例えば、19世紀の半ばに、自作のスコアを抱えてドイツ地方をどさ回りしていたベルリオーズは、10数人の団員しかおらず、しばしばイングリッシュホーンなど持たないオーケストラを指揮して、人々を感動させてきたのである。(この編成で、幻想交響曲が演奏できたのだ。)各パートひとりしかいなくても、立派なオーケストラだ。それは先日のオペラアリアへの誘いでも改めて確認したことだ。

 これまでに、練習会と本番が、合計18回持たれている。“本番”といっても、特別に聴衆を入れたり入場料を取ったりする訳ではない。あくまでも自分たちで演奏して楽しむのが目的であり、その意味では練習会も本番も、差はない。演奏に参加せず聴きに来るだけの人はいるが、もちろん歓迎される。さらに、演奏後の、反省会という名の飲み会にのみ来る人もいるが、これももちろん歓迎される。要するに、音楽の本質である“楽しむこと”を、何よりも大切にしているのだ。演奏する楽しみも、聴く楽しみも、飲んで騒ぐ楽しみも、楽興には違いがない。(ちなみに、演奏しようがしまいが、参加費は同じである。これは、細かいようだが本質的なことだ。)

*95/03/07 (火)バッハ:カンタータ 70 & 78練習会#1
*95/03/19 (日)練習会#2
*95/03/31 (金)練習会#3
*95/04/09 (日)練習会#4
*95/04/15 (土)本番
*95/08/25 (金)バッハ:ロ短調ミサ練習会#1
*95/09/06 (水)練習会#2
*95/09/10 (日)練習会#3
*95/09/21 (木)練習会#4
*95/09/30 (土)本番
95/12/13 (水)ブルックナー:テ・デウム練習会
*95/12/17 (日)本番
*96/01/24 (水)ブラームス:ドイツレクイエム練習会#1
96/02/07 (水)練習会#2
*96/02/17 (土)本番
*96/03/28 (木)モーツァルト:ハ短調ミサ練習会#1
*96/04/08 (月)練習会#2
96/04/14 (日)本番

 上記のうち、私は*で示した15回に出席している。浜松から東京まで出向いてである。(主催のMさんを除けば、恐らく最高の出席率である。)

 明日は、このシリーズの“総集編”があるのである。

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*1996年09月08日:“お気楽総集編”


 “総集編”とは、何か。上述した5回で取り上げた6曲のうち、バッハのカンタータを除く4曲、

*バッハ:ロ短調ミサ
*モーツァルト:ハ短調ミサ
*ブルックナー:テ・デウム
*ブラームス:ドイツ・レクイエム

を、一日(正確には、半日)で、一気に演奏しよう、という無茶というか無謀な企画である。しかも(時期的な問題もあり)練習会は、無し。当日の午前中に(4曲合わせて)2時間弱のリハーサルをして、午後は、10分ほどの休憩をはさみながら、1曲ずつ片付ける。過去の“お気楽”オフに出ている人なら、少しは曲も身に入っているかも知れないが、今回が初参加の人も、多数いるのである。

 これらの曲を御存知の方は、ちょっと想像してみて欲しいのだが、この4曲を半日で“聴く”だけでも、体力的に並大抵のことではない。それを、演奏しようというのである。これほど待ち遠しかったオフも珍しい。

 7時のひかりで、会場(下北沢のタウンホール)に9時過ぎ着。設営をして、10時過ぎからリハ開始。1曲あたり20分位しか時間がないので、ポイントになる合唱の難所を押さえるのみ。リハが終ったころには、早くも、かなりの疲労困憊を伴う充実感が漂ってしまっている。[;^J^]

 1時過ぎから本番。参加者は、最終的に80人越えたのだろうか?

 私は、合唱の他、ロ短調でバスソロ、それと、例によってシンセ(XP−50)の設定である。今回はこれまでとは異なり、鍵盤担当のEさんが、弾き慣れているエレピを持ち込み、これをコントローラーとして、XPはもっぱら音源として使った。テ・デウムで、一番派手なオルガンサウンドを使った他は、ほとんどポジティブ・オルガンの柔らかい音。ブラームスで、一部、ハープも。この時は、1曲の中でオルガンとハープを両方使うので、エレピを弾けばハープに、XPを弾けばオルガンになるように設定した。

 合唱にはバスパートで参加したのだが、なかなか息が続かない。さらに予習(というか復習)が不完全なので、歌詞が乗らず、直撃で視認出来ているメロディーを歌うに歌えず状態。(歌詞を(それでも1〜2秒前後で)解読した頃には、その部分の音楽は終わっていて、先に進んでいるのである。)これはなかなかつらく、欲求不満状態である。

 バスソロの方は、まだまだまだまだ。さらなる勉強の励みと動機付けには、なった。(前向き。)

 4曲通し終ったあとは、会場にケータリングを持ち込んでの宴会タイムで、この時間帯にのみ来られた人も、ちらほら。FCLAの演奏オフの宴会タイムの通例で、各種アンサンブルが(BGMという訳ではないが)同時進行する。

 そして22時頃に会場を引き上げてから、さらに近所の店で、2次会を0時過ぎまで。(人間は遊ぶ時、実力以上の体力を発揮する。)

 タクシーで、新宿パークホテルへ。これは当初からの予定通り。(つまり、明日(月曜日)は、有給休暇取得済み。)一休みしたところで、同宿の連中から、彼らの部屋でもうひと騒ぎ?しないかと、電話がかかってくるが、翌朝は8時始動の予定であるので、これはパスして、ベッドに潜り込む。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Sep 8 1996 
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