*1996年07月01日:逆光
*1996年07月02日:辞書を筆写する男
*1996年07月03日:剃刀メールの愉しみ
*1996年07月04日:剃刀メール続報
*1996年07月05日::-) vs. (^_^)
*1996年07月06日:ミュージック・フェスティバル
*1996年07月07日:謎の解明:島比売神社
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*1996年07月01日:逆光


 私は今も覚えている。何年前のことだったか、日付もさだかではないが、あの晴れ渡った土曜日の昼下がりの、逆光の中の黒い影を。

 知人の縁戚にあたる、ある若い画家が、浜松で個展を開くから観に行かないか、と、その知人から手紙をもらった。その画家には面識はない。場所はクリエイト浜松という、ちょいと洒落た多目的ビル。各フロアの面積はかなり広く、ほとんどが貸し会議室や貸しホールで占められている、ちょっとしたイベントやセミナーで良く利用されるビルだ。その2階の一室。

 土曜日の午後、そのビルには(私が気がついた限り)全くひとけがなかった。ガラスを多用した明るい階段ホールに響くのは、私の足音だけ。2階には、10メートル四方ほどの貸し会議室が、いくつも並んでいる。手前から三番めの部屋の扉の前に、小さな机が置かれ、この大きなビルの中で私を除けばただ一人の人間が、そこに座っていた。無論、記帳用の机だ。ここが会場なのである。

 会場に入る。屋内には窓がなく、照明も消されていた。背後の戸口から差し込む、昼下がりの陽光にほのかに照らされた、その薄暗い部屋の壁には、しかしただの一枚も、絵は展示されていなかった。

 床の中央に、何かがあった。

 それはガラスとコンクリート状の固形物の破片の集積だった。その中央に、壁のコンセントから電線を引かれた裸電球が置かれ、恐らくは海底をイメージしたのであろう、そのガラクタの中央で照り輝いて、薄暗い部屋の床の上に、トゲトゲしい影を放射状に放っていた。

 光と影による作品だったのだ。

 私は完全に意表をつかれた。もとより現代美術に対して、決して無知ではないのだが、この(それなりに広い)会場を借り切った上で、その壁面を全て捨てて、たったひとつの光と影の彫刻を床の中央に投げ出す、というプランに対する受け入れ体勢は、そのとき整っていなかった。

 背後で、人が動く気配がした。あの机の前に座っていた男だ。間違い無い。彼が作者なのだ。

 この広いビルの中にいるのは、私と彼の、ただふたりだけ。私と対峙する彼は、恐らく声をかけて来ることはしないであろう。しかしその無言の促しは、私になんらかの意見を述べさせずにはおかないであろう。決して優れた作品とは思わなかったが、しかしその創作物に対して“意表を突かれて”“言葉を失った状態にある”私が、今、何かを語れば、必ずや、なんらかの混乱を露呈するであろう。その時は私の負けなのだ。

 私は振り返った。入り口の扉からは、まばゆいばかりの土曜日の午後の陽光。その逆光の中に無言で立ち、私を見つめる青年画家。その黒い影を見つめ返す私..

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*1996年07月02日:辞書を筆写する男


 多分もう一ヶ月以上前のことだと思うが、ネットニュースのどこかのグループに、自分のホームページで、一種のネットニュースを運営しつつあるが、こういうものは投稿者数が命であって、その投稿者数がなかなか増えないので苦心している、是非とも利用していただきたい、という記事があった。

 ネタにされることを目的とした記事としか思えないので、そうさせていただく。

 そもそも、この「ホームページ上のニュースシステム」は、“ネットニュースはWWWに比べて知られてもおらず活用されてもいないので、WWW上でネットニュース相当のシステム作らなければならない”という使命感で作られたものらしいのだが、確かにこの人が、ネットニュースのことを満足に知らないことは、よく判った。

 ネットニュースが、どれほど膨大なコンテンツの流量の上に成り立っているのか、把握しているのだろうか? 世界中のコンピューターがニュースの転送を行なっているのだが、多くのマシンはCPUパワーとストレージの制約から、全部を転送することなど到底出来ない状態であることを、そして、それほど膨大な情報が流れて、はじめて、実際に役に立つものとなりうるのであることを、理解しているのだろうか? 一体、いちプロバイダ上に確保したハードディスクの容量で(それが何メガだか何ギガだかは、知らないが)、どれほどの情報をハンドリング出来ると思っているのだろうか?

 もちろん、ネットワークにおける“ニュース的な”システムが、ネットニュースだけでなければならない、ということは、全くないし、現に他にいくつも存在している。ほとんどは掲示板システムだが、余程大規模で読者数が多ければ、この人が目標としている、ジャンルごとに多数の投稿と読者がある、という状態を実現できよう。例えばニフティサーブが、それだ。これは一面では(少なくとも日本語で得られる情報源としては)、ネットニュース以上に有用である。これほどのコンピューターパワーと回線資源を投入すれば、そういうものを実現することは、確かに出来る。そういう実例だ。プロバイダに間借りしている一個人には、無縁な話だが。

 最後に、呼び掛ける相手が、ネットニュースの読者だという点で、根本的に勘違いをしている。この人の、この記事を読むことが出来た人は、このようなちっぽけな「フェイク・ニュース・システム」を、必要とはしていないのである。実際、私が目にした限りでは、誰ひとり、茶々入れすらしなかった。

 恐らく(取り扱うべきデータの規模の問題を別にすれば)有用なシステムを、大変な努力をして作ったに違いない。その努力に対しては、私は素直に敬意を表する。惜しむらくは、解くべき問題の“量”の見積もりを間違えている(または、見積もることを省略している)ことである。

 量を見積もって、不可能ならば撤退する。その実例をひとつ述べる。

 私が小学生の頃だったが、国語の授業中に、当時読んだばかりの「赤毛連盟」の結末で、ブリタニカを第1頁から筆写させられる羽目になった被害者を、ホームズが「まぁ少なくともあなたは、ブリタニカのAの項目については、オーソリティになったではありませんか」と、慰めるシーンを思い出して、全ての知識のオーソリティになるには、これが一番だと膝を打ち、いきなりノートに明解国語辞典の第1頁から筆写し始めたことがある。(授業は無視して。)そして1頁めを写し終えた時点で(次の授業まで写し続けていたような気がする)、ここまでにかかった時間と、これから写さなければならない頁数を勘案して、投げ出したのであった。(1頁も写してしまったことは、さておき。[;^J^])

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*1996年07月03日:剃刀メールの愉しみ


 いわゆる剃刀メールというやつを、いただいた。剃刀というには“なまくら”もいいところなので、あまり自慢にもならないのだが。

 ニフティサーブの、とあるフォーラムのとある会議室で、ある人があまりにも幼い(というよりは“みっともない”)発言をし、これがその一回限りのことならばともかく、もう二年近くも前に登場して以来、ずっとそういう調子だったこともあるので、ちょっと苦言を呈したのである。

 すると、来たのである。“匿名”メールが。匿名であるというのは、アスキーネットからインターネット経由で、ニフティサーブの私のアカウントに配達されたメールだからだ。発信者がニフティサーブのユーザーであることは、私の発言を引用していること、及びその文章から、私が苦言を呈した相手の“シンパ”であることが明確に読み取れることからも、明らかである。にも関らず、わざわざアスキーネットから発信した。理由はひとつしかない。ニフのIDを知られたくなかったのだ。

 さて、この人は誰なのであろうか? 私が苦言をさし上げた、当の相手であるという可能性は、真っ先に棄却した。このような複雑なことが出来る性格の人では、ないからである。

 また、実は剃刀メールではない、という可能性も、棄却した。実のところ文面はどこか生温く、悪意があるんだかないんだか、イヤミなんだか単に読解力がないんだか、なんとも断言しにくい面もあるので、最大限好意的に解釈すれば、アスキーネット経由でメールを発信したのは、(普段から複数のネットワークを使っているところから生じた)何かの操作ミス、内容が剃刀っぽいことについては、単に私の文意を読み取れない(中学生以下の)国語力の持ち主、ということになる。しかしその可能性を棄却したのは、私がメールを受け取ったのと同じ時刻に、同様に苦言を呈した別の人に、全く同様のメールが(同じ経路で)発送されたことが判明したからである。その人に送られたメールの文面からは、明確に悪意が読み取れた。つまり2通とも、確信犯の剃刀メールであると、断定出来た。

 まぁたいした剃刀でもないので捨て置くのが一番なのだが、折角だから送信者を突き止めたい。ここで問題になるのが、このアスキーネットのメールアドレスは本物か?ということである。実のところ、これ以外に手掛かりはないのだから、これが偽造されたものだとしたら、追求もくそもない。

 しかし、私はこれが“偽造アドレスではない”ことを、一瞬たりとも疑わなかった。それは、その“なまくら剃刀”の内容からの推測(というよりは確信)である。上述したように、妙に防御線が張ってあるというか、剃刀じゃないよ誤解しただけなんだよ、と、言い訳をする余地のある文面なのである。腰が引けているのだ。つまり、自分の名前が“ばれる”可能性を、念頭に置いているのである。

 もしもメールアドレスを偽造したのならば(そういう知識と技術(ろくでもない技術だが)を持っているのならば)、ばれる可能性など、一切、心配する必要はない。もっと思い切った文面に出来るはずなのだ。

 さらに、このアドレスが、アスキーネットの正規のフォーマットに則っていることである。もしも偽造したものだとすれば、このアドレスの正規の持ち主は、送信者とは全く無縁の人だということになり、即ち、当然予想される、私(及びもう一人の剃刀メール受信者)による調査によって、その人に嫌疑がかかることになるのであるが、そういう無辜の他人を巻き添えにする度胸(ろくでもない度胸だが)はない、と、この情けない文面から断言出来る。その人に対して(私に対して抱いたのとは別の)悪意をもっており、無実の罪を着せようとした、というのが、最大限うがった見方だろうが、まず考え過ぎであろう。どのみち、そういうことをすれば、速やかにアドレス偽造(詐称)がばれてしまうのだから。

 以上より、このアスキーネットのアドレスは、正規のものであると結論づけた。さて、ここから追えるかどうか。まともな神経の持ち主ならば、プロフィール情報(ニフで言うところの)は、消去しているであろう。が、そのIDで何か書き込みをしていれば、そこから尻尾を掴めないこともあるまい。私自身はアスキーネットのIDを持っていないが、アスキーネットのIDの持ち主は、何人か知っている。彼らに調査を依頼しよう。

 少しも暇ではないのだが、たまには息抜きも必要だ。この剃刀メールの一件、私は楽しんでいるのである。

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*1996年07月04日:剃刀メール続報


 昨夜のアスキーネットからのメールの送信者は、アスキーネットで、過去6年間、書き込みをしていないということが、判明した。これで、わざわざアスキーネットから発信したのは「(普段から複数のネットワークを使っているところから生じた)何かの操作ミス」である、という、好意的な仮説は棄却されたと考えてよかろう。無論、アスキーネットではROM専門、あるいはメールの送受信のみ、という可能性も、あるにはあるが、彼のメールの文面からは、全く書き込みをしないタイプの人間であるとは考えにくく、すなわち、6年間も黙って読んでいるだけ、というのは異常である。まず確実に、死蔵IDを引っ張りだして来たのだ。ご苦労様としかいいようがない。(というか、ほとんど感謝しているに等しい。日記に書くネタが何もなかった日に、わざわざネタを提供してくれたのだから。[;^J^])

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*1996年07月05日::-) vs. (^_^)


 顔文字について、以前から気になっていたことがある。どうして日本以外の国では横倒し型(その基本型は、:-))、日本では縦形(その基本型は、(^_^))が主流なのであろうか?

 無論、起源は横倒し型である。usenet かどこか、とにかく海外(まず間違いなく USA)で最初に発明されたのは、:-) だったはずだ。日本で (^_^) を発明したのは誰か、という議論を、随分昔に読んだ記憶がある。結論は忘れた。パソコン通信創世紀のアスキーネットの誰かだったかな。以降、日本では圧倒的に縦形が使われている。横倒し型を使うのは、fj などでインターネット文化に触れている人だけだ。

 縦形の表現力は、実に豊かである。大袈裟に言えば、新しい文字文化の体系を作りつつあるのではないかとすら、思える。凄いのは、横倒し型が、表情の表現にとどまりがちであることに対して、縦型は、動作や時間経過をアニメーションで表現できることである。これを読んでいる皆さんは、先刻御承知のことだと思うので、いちいち例をあげることはしないが、私が本当に驚いた例をひとつだけあげると、

        ((((((((((^_^;)

である。これには驚いた。このニュアンスを文字で表現すると、結構な手間である。

 他にも色々な(というか膨大な量の)アニメーションパターンがあるが、これほど便利で有用なものを、どうして海外(インターネット時代に“海外”という表現を使うレトロ感覚が、また風情があるというもの)では使わないのか。気がついたのは、縦形では、口元の表現に制約があるのである。

        (^O^) (^o^) (^v^) (^_^) (^.^) (^ ^) (^^)

などなど、多数あるのだが、横倒し型の :-P に相当する表現が出来ない。下に伸びないからである。(2行使っても不自由であるし、そもそも2行使うのは、顔文字としては邪道と言えよう。)

 口元の表情づけには不便だが、アニメーションの表現は、得意..なんと、これは日本文化そのものではないか。もとより日本語は、ほとんど口元を動かさずに発音できる珍しい言語(その証拠に、日本人は口回りに皺が出来にくい)である。高度に発達した、洗練されたアニメーション感覚については、言うも愚か。上記の
        ((((((((((^_^;)

について言えば、漫画の“効果線”文化を知らなければ、理解しにくいかも知れない。効果線こそは、日本漫画の(もう少し正確に言うと手塚治虫の)偉大な発明なのであった。

 口元の表現の制約が足枷になるであろうが、ジャパニメーションが世界を席捲しつつある現在、縦の顔文字がインターネットを駆け巡る日も、遠くはあるまい。

 (ちなみに、私が知る限り、[^J^] [;^J^] 等などは、私のオリジナルである。これを発明したのは、1990年7月17日のことであった。)

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*1996年07月06日:ミュージック・フェスティバル


 今日は午後から、会社行事のミュージック・フェスティバルである。入場料を取るものではなく、一般入場者がいる訳でもない。社員の福利厚生行事である。社員のバンドが社員及びその家族の前で演奏する、その意味では学芸会なのだが、なかなかどうして、立派な演奏が多い。

 電子楽器を作っているメーカーだから、その手のバンドばかりだろうと思われるかも知れないが、ギターソロあり(これが弾き語りかと思ったら、全然違うのであった。なんというジャンルなのだろう? ニューエイジ..?(死語?))、アカペラあり、フォークあり、無論プログレもテクノもハードロックもあり、大変バラエティに富んでいて、楽しめるものであった。最後のバンドはオルガン+ベース+ドラムで、パンフには「オルガンサウンドを堪能して下さい」とあるので、何をやるのかと思ったら、これがなんと「タルカス」であった。

 夜からは、別のリサイタルのチケットもあったのだが、根性がなくなっていたので、パス。ちょいと食事のうまいパブで、カクテルとパスタ。(照明が暗くて、読書に不適なのが難点である。)

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*1996年07月07日:謎の解明:島比売神社


 神明宮を訪れた。そこそこ大きな神社で、伊勢神宮とつながりがある由。境内にはいくつかの建家があるのだが、いずれも無人。行事のある日だけ、使用されているようである。碑文もあったが、日清・日露の戦勝記念と、戦没者慰霊である。島比売神社との関りを示すものは、何もない。

 再び博物館へ。神明宮については、このあたり一帯で一番大きな神社であり、島比売神社と関りがあるとすれば、合祀によるものではないか、それを言えばこのあたりの小さな神社は、全て神明宮と関りがあると言える、と、学芸員の方。それよりも、先週、私が付近の民家を訪ねまわっても、島比売神社のことを誰も知らなかったと言うのなら、それは聞く相手を間違っている(神社からの距離には関係ない)、土地の古老に聞きなさい、と、浜松市役所と人脈的につながりのある、Sさんを紹介された。地図で調べてみると、私の住まいから、すぐ近くである。

 農業を営むSさんは、もう御老体のはずなのに、かくしゃくとされている。Sさんからは、そもそも島比売神社は、あそこ(台地の上)にはなかった、例の道路工事の予定地にかかっていたので、台地の上に移転したのである、という話を伺った。(それでわかった。10年位前の地図を見ると、神社のマークの位置が微妙に違い、不思議だったのである。)Sさんからは、さらに、島比売神社の移転に直接たずさわった、Nさんを紹介された。この方のすまいも、私のアパートから目と鼻の先の、農家である。

 とうに引退されていると思しきNさんに、島比売神社に関する書類一式を収めたファイルを閲覧させて頂いた。移転の際の土地売買契約書等などが綴じられているのであるが、

島比賣神社
 御祭神  市杵島姫之命
 創立年月日 永禄三年(再建)(寺社時録に依る)神社の棟札は寛文九年再建となっている
   永禄三年は今年より四二九年前)
  明治十二年 新築(村社神明宮より移す)
  昭和三十年 修復(新築と同様)
 島比売神社の基社は広島県宮島の巌島神社である
 巌島神社の御祭神は市杵島姫之命(又は一杵島比賣の神)
向平西ノ谷の弁天様は今は田圃の中にあるが昔は東の山すそが伸びており、周囲を開田する時に弁天様を残してまわりの土を採って島のようになったものと思われる。山裾の水の湧き出るところにあったと考えられる

 島比売とは、いわゆる宗像三女神の一である、イチキシマヒメノミコトのことだったのだ。この神社が土地では弁天様と呼びならわされていたことについては、神道大辞典(臨川書店)によると「神仏習合の結果、弁財天をこの神に当てたのは水の女神というところより生じたものか」、とある。

 この小さな神社は無格社であり、何度か移転・統合されている。明治のはじめ頃に村社神明宮と合祀されたのだが、ほどなくして伝染病が流行し、移したのが原因であるとして、すぐに元に戻したという。また昭和12、3年頃にも、寺社の統廃合があった。さらに終戦直後にも、このあたり一帯の七つほどの無格社が、村社神明宮に移されていたことがある。やがて世の中が落ち着き、島比売神社も元の場所に戻っていたのだが、昭和60年になって、道路工事「植松和地線」の開通に伴い、台地の下の田圃の中から、台地の上の現在の位置へ。これが最後の移転になるのであろうか。

 得心がいった。なんら劇的な展開も発見もなかったが、私なりに謎を解く過程を堪能した。その一方で、解かずに置くことに喜び(と恐れ)を感じられる種類の、謎もある。既に少しだけ述べたことがあるが、私の住処から数十メートルと離れていない場所に“それ”はある。いずれもう少しだけ、詳しく話そう。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 10 1996 
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