*1997年06月30日:「魔獣戦線」とアトムとゴルゴと
*1997年07月01日:あるインデックス魔の半生
*1997年07月02日:「無題」
*1997年07月03日:ASAHI-NET からの連絡
*1997年07月04日:筆算と算盤
*1997年07月05日:吾妻ひでおさんと会う
*1997年07月06日:嵯峨三智子
*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*1997年06月30日:「魔獣戦線」とアトムとゴルゴと


 石川賢の「魔獣戦線」が、加筆の上復刻されていたので、買う。言うまでもなく「デビルマン」の影響下に描かれた作品であるが、それとは独立した価値を持っていることは、言うまでもない。初めて読んだ時には、「神」が“精神的・概念的な悪”ではなく“物理的・肉体暴力的な悪”として描かれていることに、衝撃と爽快感を覚えたものだ。

 今回の加筆では、連載を打ち切られたかのような性急で唐突なエンディングには、ほとんど手が入れられず、拡張されてもいない。(ある“怪物たち”が追加されたが、これはなかなか青臭く、しかも不気味である。)その他数多くの伏線群は、いまだ解決されておらず、その“完成度の低さ”は、永井豪作品にたとえれば「デビルマン」よりは「魔王ダンテ」に近い。

 しかし、若書きの未完成品「魔王ダンテ」に、「デビルマン」とは異なった魅力があると同様、この、ほとんど勢いだけで描かれたような「魔獣戦線」もまた、捨て難い傑作である。

 名古屋地区の古書店組合「伍魅倶楽部」からカタログが届き、カッパコミクス版「鉄腕アトム」全34巻(別巻2冊込みのコンプリートセット)が5万5千円で出ているのを発見して、発注してしまう。カッパコミクス版は、コンプリートセットを狙わずにチョイ汚れ品をバラで買い集めることにする、と、つい先日書いたばかりであるが、これほど廉いのならば、話は別だ。ま、美本じゃあるまい。そもそも当選しないよ、倍率高そうだ。

 ニフのFCLAの深夜RTをしていて、今夜が香港返還の日であることを思い出した。TVがないので、RTで、その瞬間を実況中継してもらう。ゴルゴは何をしている!と、非難轟々であった。[^O^] ターゲットは中国国旗の紐、依頼者はダイアナ(あるいは女王)、というあたりが大方の予想であったが、その瞬間、何も起こらず。真相は、3ヶ月後のビッグコミック誌上で。

*目次へ戻る


*1997年07月01日:あるインデックス魔の半生


 「インデックス魔」とはもちろん私のこと。「半生」と書くと確かに大袈裟だが、しかし「青春」と呼ぶには広すぎるタイムレンジなのだ。

 私の30歳までの人生は、実に、インデックスを作っては壊し、改良してはまた廃棄しの繰り返しだったと言っても過言ではない。

 読書カードを例に取れば、最初にデータベース化を試みたのは9歳の頃だが、

*大学ノートの1頁に1冊分のデータを記入した。これでは順序が固定されてしまうのに気がついて、没。
*単語暗記カードに記入した。順序の入れ換えは自由に出来るようになったが、小さ過ぎて、感想等を十分に書けないのに気がついて、没。
*単語暗記カードの裏にポインタ(ページ番号)を書き、大学ノートに感想を書く事にした。13歳でポインタを「発見」したのは偉かったが、カードとノートの双方をメンテするのは繁雑であることに気がつき、没。
*大版の京大式カードに記入することにした。これでソートと面積の問題は解決したが、検索が出来ないことに気がつき、没。
*父がホールソートカードを、住所録や読書カードに使っているのを発見し、これを採用。複数条件のand検索が出来ることに狂喜したが、若気の至りで、分類番号として国際十進分類法を採用してしまったのが敗因。ご存知の方もいらっしゃると思うが、これ(国際十進分類法)は日本人に取っては、死ぬほど使いにくいのである。折角パンチした膨大な量のカードを、全て破棄。(パンチ穴にパッチを当てることも可能だが、非現実的であった。)
*日本十進分類法でパンチし直して、全部リライト。また、この際、ページ数や価格など、(自分に取っては)必要がないと判明した項目を削除するなどした。しかし勢い余って、初版発行日と版数の項目を削ってしまった(以後、この情報は失われた)のは痛恨の大失敗であった。
*これでほぼ安定したのであるが、世は既にパソコン時代。ホールソートカードを手でちまちまと検索する時代ではなくなっていた。そこでパソコンソフトを見繕い、当時最も筋が良かった「Let’sアイリス」というカード型データベースソフトに、数年がかりで全て入力し直した。このソフトを選ぶ際、タブファイル形式のプレーンテキストを吐き出せることを考慮に入れた事は勿論である。

 このフェーズで安定したのが、7〜8年前であり、その後、DOSからWindowsに移行した時に、ソフトをAccessに変更したが(データはもちろん、タブファイル形式アスキーテキスト経由で、全て移すことが出来た)、のちに、この巨大なスペックのデータベースソフトが提供してくれる機能の大部分は私には必要無く、しかも、このソフトのスペックが巨大であるが故に半ば宿命的に混入しているバグの幾つかは、致命的でないとしても恐ろしく神経を逆なでするが故に、結局Accessは破棄し、全てのデータをプレーンなアスキーテキストとして管理し、jgawk、sed等でメンテすることにした、その次第はかくのごとし。ま、今後どうなるかは、判らないが。

 それにしても、書籍はまだいいのだ、1冊読んでもカードは1枚しか増えないから。画集データベースの場合、図版ごとにカードを発行するので、1冊購入すると、平均100枚増えてしまう。(大学で2留したうちの1年は、これのせいであった。[;^J^])さらに、当時は画像の問題が(容量的に)解決出来なかった。今なお、画集データベースは電子化されていない。2万枚近いカラー画像を管理するのは不可能ではないとしても、もはや私が入力するのは不可能である。アルバイトを雇えるほど、裕福なサラリーマンではないし..

*目次へ戻る


*1997年07月02日:「無題」


 先日の話の続き。

 画集のインデックスを作る時に一番困ることは、美術作品を同定するためのデータが、恐ろしく不備である、ということだ。

 例えば、最も基本的な“データ”は、タイトルだと思うが、これの“原題名”が記載されていない画集が、非常に多い。日本製の画集であれば、普通は(それが独語であろうが仏語であろうが英語であろうが露語であろうが)原題名が、原綴りで記載されているのだが、例えば合衆国の画集など、英訳タイトルしか記されていないのが普通なのである。(オペラだって、英語訳で歌うのが普通の国なのだから、これはむしろ当然か。)そういう画集に限って(という訳でもないが)、制作年やサイズ、画材などのデータも記載されていないか、あるいは極めて杜撰なことが珍しくない。

 日本製の画集は、その誠実な編集態度といい、印刷といい、紙質といい、間違いなく世界最高水準のものなのである。(10年前には、こう断言出来た。その後しばらく“画集ウォッチング”をしていないので、様子が判らなくなってしまっている。今でも状況は変わっていないと想像しているのだが..)

 但し、美術作品の同定が困難であるという問題は、けっして、画集だけの責任ではない。そもそも、同じ年に、同じタイトルで、一見して区別がつかないほど良く似ている作品を、山ほど量産する。これが美術の世界なのである。

 そして、同じタイトルで量産されることが多い美術作品中、もっともありふれている、数多く使いまわされているタイトルは..

 それは、「無題」である。

*目次へ戻る


*1997年07月03日:ASAHI-NET からの連絡


 ASAHI-NET から来た物理メールを読んでいたら..をを、ASAHI-NET の HomePage か NetNews から、会議室が利用出来るようになる(なった)とな。これは朗報。

 ASAHI-NET につながることは数ヶ月前に確認していながら、それ以来全く利用していないのは、ニフとは発想の異なる、新しいコマンド群を覚えるのが面倒だからなのであった。いやはや全く、ものぐさになったものだ。

 ホームページからも、ネットニュースのニュースリーダーからも読み書き出来る由。ちょっとニュースリーダーからのアクセスを、トライしてみよう。

*目次へ戻る


*1997年07月04日:筆算と算盤


 先日の日記で、レンズマンを1950年代前半の作品、と書いてしまったが、それは単行本が出版された時期であり、雑誌連載は1930年代後半から1940年代後半である、と、メールで指摘された。いやはや確かにその通り。資料を見ながら書いていても「あれ、こんなに最近の話だったっけ?」と、妙な違和感は感じていたのだが..

 そのレンズマンにおける、超遠未来を舞台としていることを一瞬忘れさせるような、レトロな描写について、先日は書いたのであるが、超遠未来のフィクションどころか、30年近く昔を舞台としているノンフィクションにおいて、思わず時代を忘れさせるようなレトロな描写に出会ったことがある。

 映画「アポロ13」。時は1970年。

 ここでは、アポロ13の再突入の軌道計算(に付随する、何かの計算)の検算を、管制室で“筆算で”行っていた。もちろん、複数人で行い、結果が合えばGoo!と親指を立てる、まことに爽快なシーンであるが..

 当時の管制室の計算機のサブシステムに、電卓が組み込まれていなかったのは理解できるが、しかし、極めて良く似た状況を描いた、A.C.クラークの短編「時を掃く」(1960)では、小惑星帯?の中で進路を失った宇宙船の乗組員たちが、“まず、(筆算との速度競技で、その速さが実証された)算盤を練習してから”全員で、算盤で(膨大な量の)計算を始めるのである。

 この物語で解こうとしている計算は、地球帰還の航路を求めるという、気の遠くなるほどの膨大な量の計算ではなく、地球と連絡が取れるところまで船を動かす、という、相対的には遥かに少ない計算量の、しかしそれでも、数十人で算盤をはじき続けてもなお、何年もかかりそうな(だから、筆算では論外な量の)計算なのである。この、絶妙なリアリティ。

 かつて「アポロ13」を観て、事実の前にフィクションは色褪せる、と書いたが、どっこい、最高水準のSFは、まだまだ事実の先を行っている(行っていた)ようである。

*目次へ戻る


*1997年07月05日:吾妻ひでおさんと会う


 久しぶりに東名バスで上京する。富士山にも雲がかかっているし、朝のうちは、そんなに暑くなるとは思っていなかったのだが..

 12時過ぎに霞ヶ関で降りた瞬間、熱波に倒れそうになる。あ、暑い!

 地下鉄で一駅移動し、銀座で地上に出て、再度、あ、あ、暑い!

 ヤマハ銀座店でカルミナ・ブラーナのスコアを買い、地下に潜り直して池袋へ。西武デパートの入り口で、I.K氏、I.H氏、O氏、T氏と待ち合わせる。吾妻ひでおのディープなオタクが、計5人。保谷に移動して、喫茶店Swingで15時半頃から、吾妻ひでおさんを囲む会。

 記憶の底から話題の断片を拾い集めると..

 エヴァのこと、谷山浩子のこと、著作権のこと、新潟で開催される展覧会への出品のこと、少年チャンピオンのCD−ROMに付された吾妻ひでおのコメントは編集者によるでっち上げであったが実は吾妻ひでおだけでなく全ての作家のコメントがでっち上げであった編集は何考えてるんだという話、(それから発展して)編集者のメンタリティ(そもそもこういうことを問題だとみなさない世界に住んでいる?)について、少チャン黄金時代について、アジマリストをコミケで売る件、その媒体の件、それに添付されるオリジナルイラストの件(私の希望で“元祖ルーズソックスのミャアちゃん”になる筈)、今の仕事のこと(コミックウィンクル、イカしてソーロウ)、出版社での原稿の管理は実にいい加減であること、ななこのアニメのこと(先生はお気に入り)、二日酔いダンディーで吾妻ひでおに“嵌まった”人が実に多いこと(私は“嵌まって”からこの初期の大傑作を発見して再起不能になった)、二日酔いダンディーの出版予定(希望)があるというのは残念ながら誤報であったこと、「アレ!」が潰れたのは惜しいことをした、等等等等..

 2時間ほどして、さすがに陽も傾いてしのぎ易くなってから、Swingを出て、近くのビアガーデンへ。ここが実に素晴らしい。旅館の庭を、そのままビアガーデンにしたのだろうか、実に風情がある。小さな池のある芝生の庭で、キンカンと虫除けスプレーの貸し出し付き。

 美味いビールを飲みながら続けた話題は..

 吾妻さんは「ふたりと5人」は、編集の指示に従って描いたようなものなので嫌いだということ、哲学的先輩の台詞(ネーム)は実は担当編集者が全部書き換えていたこと、その編集者が異動してから書き換えられなくなったので途中から哲学的先輩の台詞が変わっていること、少年サンデーの編集者には「色っぷる」で(その入稿の遅さに)見捨てられたこと。参加者各自のフェイヴァリット作品について(ちなみに私のそれは「スクラップ学園」「ネムタくん」「翔べ翔べドンキー」)。フェイヴァリット・エピソードとして、私は、「ぶらっとバニー」の「どっちもどっちも未来の巻」と「スクラップ学園」の「コタツ王国の巻」を強く推した。妄想マンガという“新ジャンル”について。アジモフについて。今一番“ナウイ”SF屑論争とは何か?その背景について(これは主として私が解説)。そこから派生して鈴木光司、京極夏彦。TVネタ。「不揃いの林檎たち」。山田太一。M工大(及びその周辺の施設)はTVでネタにされることが多いこと。手塚治虫のほとんど壮烈としか言いようの無い「描き直し」に掛ける熱意と覚悟について。「平成モノ作法」は作者としても自信作であるしあの時期の作品はほとんど一般読者に知られていないので是非どれかの単行本に収録したいこと、等等等等..

 この日、一番面白かったネタは、エヴァ関係のあるエピソードで、実は広く知られているフォークロアなのかも知れないが..

 確か舞台は四国のどこか。そこではエヴァンゲリオンの電波が届くのは、近くの山頂の測候所だけなのである。ある熱心なファンは、毎週毎週、エヴァを観るために、その測候所に登っていた。

 そして、あの最終回が放映された夜。彼は降りてこなかった..

 一同爆笑だが、これは実に見事なショートショートだ。超一級のミステリになりうる素材だ。その山頂で何が起こったのか、1時間以内に20通りの結末を考え出せ、と、創作教室の題材にされてもおかしくない。

 まだ少し明るいうちに、お開き。横浜の実家に直行する。

*目次へ戻る


*1997年07月06日:嵯峨三智子


 クーラーの無い横浜の実家で、あまりの暑さにドロドロと居眠りしつつ、ドロドロと読書をする。

 洋泉社MOOK(映画秘宝)を3冊、「底抜け超大作」「セクシーダイナマイト猛爆撃」「怪獣(秘)大百科」を読了。いずれも興味深かったが、最も強烈な印象を受けたのは、「セクシーダイナマイト猛爆撃」の250頁、名前だけは知っていた“ヤク中”女優、嵯峨三智子の写真。

 異様な美しさである。

 この本を読み返している間、このページにひっかかる度に、つくづく見入ってしまった。こんな女性となら、共に滅びるも悔いはないか..とすら、思わせるところがある。まさに魔性の美と呼ぶべきか。

*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 15 1997 
Copyright (C) 1997 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]