*1996年08月05日:フライトシミュレーター考
*1996年08月06日:表紙の写真について
*1996年08月07日:「大マシン」頌
*1996年08月08日:スクリーンセーバーを使わない理由
*1996年08月09日:例のメールが、またしても
*1996年08月10日:例外処理について
*1996年08月11日:「三つ目がとおる」調査
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*1996年08月05日:フライトシミュレーター考


 フライトシミュレーターといっても、こんにちのPCの主要アプリケーションのひとつである、あの、華麗な画面のゲームではない。10年以上前の8ビットパソコンで動いていた、今の目から見ると、信じがたいほどチープな画面のゲームたちである。

 今の若い人たちには、10年前の8ビットパソコンが、どれほど遅かったか、想像もつくまい。しかしそれでも、フライトシミュレーターという“スピード命”のゲームは作られ、人々を楽しませて来たのである。

 (以下、昔話。さすがに細部の記憶違いは、多々あろう。軽く読み流していただければ幸いである。)

 まず思い出すのが、MZ−80B用の“着陸”ゲームである。(ゲームの名称は失念した。)谷間を抜けた先にある空港に、着陸するというだけのゲーム。無論、地上の滑走路はワイヤーフレーム、谷間を構成する“山”も、唯の三角形の線画である。(もしかして、今や“ワイヤーフレーム”も死語だろうか? 3D図形の“面”の動きを計算して描画するのは大変なので、3D図形を、その“外骨格”を構成する直線だけで表し、この直線群の動きだけを計算して描画するのである。“面”を動かすよりも、計算量は遥かに少なくなる。)

 そして、このチェス盤のようなワイヤーフレームの滑走路への接近を、リアルタイムで描画することが出来なかった。毎秒30フレームどころか、2秒に1回位のコマ落としである。1秒間(静止画像を)表示して、次の1秒間は、真っ暗。(この間に、さっきの画面を消して、次の画面を大急ぎで描いているのである。)これの繰り返し。これでも結構、手に汗を握ることが出来たのだ。MZ−80Bは、確か4MHzか6MHzのZ−80マシンだが、同程度のCPUを使っていたPC−8801が、大画面(640×200dot)に多色(8色)を描画していたのに対し、小画面(320×200dot)に単色描画であった分、画面の描き換えが速かった。88のゲームは綺麗で鈍重、MZのゲームはそっけないが速い、という印象は、確かにあった。

 そして、PC−9801が登場する。これのために作られた「田中のフライトシミュレーター」たるや、実に驚異的なものであった。私は今でも鮮明に覚えているが、このゲームがデータショーのNECのブースでデビューした時、そこにはまさに、黒山の人だかりが出来ていたのである。

 私は全く信じられなかった。ワイヤーフレームのフライトシミュレーター(ドッグファイトタイプ)が、“リアルタイムで”動いていたのである! 今から思うに、描き換えは、恐らく毎秒4回から6回位。ガクガクの動きだったはずだが、上記のMZのゲームにあった“暗転”の時間がなかったことと、何よりも目が慣れていなかったために、完全に“滑らかに”動いているように見えたのだ。ゲームのストーリーは無いに等しく、ワイヤーフレームの陸地と三角形の山で構成されている“領地”に侵入してくる敵機(これも数本の直線で構成されている)を、撃ち落とすだけ。(燃料がなくなったら、滑走路に着陸して補給する。)今では到底通用しない代物だが、あの時代にこれだけの動きを実現した、という意味で、確かに画期的であった。

 しかし、これはハードウェアの能力に頼りきったゲームでもあった。MZと98の違いは、8ビットCPU・Z−80と、16ビットCPU・8086の差だけでは、ない。98には、GDC(グラフィック・ディスプレイ・コントローラー)μPD7220が搭載されており、これは特に、直線の高速描画に、極めて優れた性能を発揮した。すなわち、ワイヤーフレームを高速で動かすのに、最適のハードウェア構成だったのである。

 忘れ得ぬ第三のフライトシミュレーターは、この98版よりもだいぶ古いものだ。それは日立の、ベーシックマスター・レベル3という、確か2MHzか4MHzの6809搭載のパソコンのために作られたものである。

 これもドッグファイトタイプだが、その画面の簡潔さに、最大の特徴があった。ヘッドアップディスプレイというのだろうか。高度計と速度計が、画面の左右で流れるように上下スクロールし、この他に“敵機”の相対位置を示す丸い計器がふたつあった様に記憶する。これだけ。これ以外には、単色画面に動くものはほとんど何もない。

 では、そのディスプレイから見える風景は? ワイヤーフレームの地表か、線分の山か?

 なんと、ただ1本の直線。これだけなのである!

 むろん、地平線なのだ。その直線のどちら側が空でどちら側が陸なのかすら、示されてはいない。無茶な宙返りをしていると、どちらが上なのか、全く判らなくなる。

 この直線は、まさに流れるように滑らかに動いた。1本の線分を描いては消し、少し角度を変えては描いては消し..を、繰り返すだけなのだから。この、完全にリアルタイムに動く“地平線”と、画面の左右を滑らかに上下スクロールする計器のもたらす臨場感たるや、まことに素晴らしいものであった。そして敵機を正面にロックした瞬間、やはりごく簡単な図形の敵機の背面図が、画面中央に現われる。ファイア!

 これ以上、何も必要無かったのである。空の青も陸の緑も、不要な装飾。そのようなものは、全て想像力で補える。その想像力をサポートすべき、必要十分な“物理反応”が、キー操作に即応して(2秒に1コマ、あるいは1秒に4〜6コマではなく)リアルタイムに流れるように動く、外界の風景であると見切り、貧弱なCPUパワーでそれを実現するために、何もかも捨て、ワイヤーフレームの地表図すら諦めて、1本の地平線に全てを賭けた。

 当時から比べると、数百倍あるいは数千倍もの能力のハードウェアをドライブして、華麗な画像を信じ難いほどのスピードで動かす、こんにちのPCのフライトシミュレーターよりも、私は、この、たった1本の線分の方が、遥かに素晴らしいと思う。

 これこそ、まさに、人間の叡智の結晶であったのだから。

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*1996年08月06日:表紙の写真について


MASK

 色気(グラフィックス)の全くない、私のホームページ中、唯一のグラフィカルなアイテムが、表紙の自画像(写真)である。(各ページのフッタのアイコンは、これから加工して作ったものだ。)これが結構、評判がいい。不気味で無意味だからだろう。(右図参照)

 これは昨年末、ニフティサーブのFCLAのオフラインパーティで、M氏にQV−10で撮ってもらった写真である。被っているのは「ビッグバード」の黄色い仮面なのだが、照明のせいか色が白く飛んでしまって、ローファイな仕上がりになった。これがなかなかよろしい。

 そして、これを透過GIFにすべく、輪郭にそって黒く抜いていったのだが、腹のあたりが最初から真っ黒であったので、ここも巻き添えで透明に抜けてしまった。かくして、ほとんど「怪奇大作戦」な合成写真もどきとなったのである。


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*1996年08月07日:「大マシン」頌


 かつて「少年」という、素晴らしい月刊誌があった。これについては、いずれ何度も語ることになろう。昭和43年3月に休刊した、この雑誌を知らない人には、取り敢えず「鉄腕アトム」と「鉄人28号」が連載された雑誌だと、紹介しておこう。

 この雑誌の最後の15ヶ月に連載された(すなわち、昭和42年1月に連載が始まった)いくつかの作品のうち、「大マシン」(泉ゆき雄)に格別の思い入れがある。

 今でいう巨大ロボットもの(合体せず)なのだが、ユニークなのは、一家族全員が「大マシン」に乗り込むことで、両腕、両脚に兄弟が乗り込み、個別に制御する。(大暴れしている時に、なぜ目が回らないのか、子供心に不思議だった。)宇宙から来た敵が繰り出す、それぞれに個性的なロボットは、「ミュー1号」「ミュー2号」などと呼ばれる。砂漠から現われた蟻地獄のような3号、砂鉄の塊である13号。9号から12号までは、縦に長い潜水艦型(太ったタツノオトシゴみたいなもの)であった。

 感動的だったのは、6号から8号までのトリオである。それまでは、敵は単体で攻撃してきたのだが、今度は、3台まとめて攻撃してくる、と、誌上で予告される。(ワクワク [^J^])舞台はゴビ砂漠。砂丘の下から、ドドドドドドッと、騎士型のロボット(即ち、馬に乗っている)が現れる。まず、このスタイルが、当時としては実にモダンでカッコよかった。「おおっ、こんなのが、あと2台も現れるのかっ!」と、手に汗を握ったが、なんと、その騎士の方が6号で、馬の方が7号だということが判る。「えぇっ、じゃぁ、8号は?」、これが素晴らしかった。「大マシン」の操縦室に入り込んで情報を盗みだし、6号、7号との戦いの間中、主人公達を苦しめた、セミ型のスパイロボットが、8号だったのである。これは勿論、発見されると、あっけなく潰される。

 この、超巨大・超強力戦闘兵器と、超小型喋報機器とを、対等にラインナップに加える、という、敵の組織の近代的なセンスに痺れた。今でも、立派に通用すると思う。

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*1996年08月08日:スクリーンセーバーを使わない理由


 私は、画面内で単調な動きを続けるスクリーンセーバーのパターンを、何時間でも、見つめ続けてしまえるタイプの人間なのだ。それだけのことである。

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*1996年08月09日:例のメールが、またしても


 例のメールが、また来た。〆切はさらに5日スライドして8月21日(前回のメールでは、16日ということだった。今日は既に9日である)、募集ホームページ数は、さらに10減って90である。発売予定日は、まだ9月下旬のまま。いよいよ切羽詰まって来たか。なにやら面白くなって来たので、このあとも送って来て欲しい。

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*1996年08月10日:例外処理について


 年に2回しかない土曜日出勤。(前回は、期末棚卸しの振替え出勤日だった。)勤務先の構内放送システム(定時チャイムとか、ラジオ体操とか)は、こういう例外事態に全く対処出来ていない。曜日単位のプログラミングしか出来ないとは考えにくく(“全ての土曜日は休日なので放送はしないが、この日とこの日は除く”という設定が、出来ない訳が無い)、要するに年に2回しかない例外処理なので、わざわざ設定せずに、人間がマニュアルで切り替えているのだろう。(で、当日の朝には、そのことを忘れていて、定時になってもラジオ体操の放送が始まらない、という訳だ。)まぁ人のことは言えないし、この程度の頻度の例外処理ならば、設定する方が煩わしい(あるいは、却ってミスを誘発しかねない)ということも、あろう。しかし、毎年毎年、同じことを繰り返しているのだが。

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*1996年08月11日:「三つ目がとおる」調査


 今日から1週間、盆休み帰省である。例によってハイウェイバス。上り方向であるせいか、ほとんど渋滞はなく、首都高速に入ってからも、まずは流れていた。(但し、富士や御殿場のICの出口では、さすがに列が出来ていた。)霞ヶ関着は、20分程度の遅れ。

 現代マンガ図書館で、「三つ目がとおる」の初出誌調査。例によって再編集と描き直しに、てこずる。単行本未収録エピソードも結構あり、それらのうち「猪鹿中学」「長耳族」に登場した出杉という男が、「イースター島編」(これは収録されている)の最後に、重要な役で登場するのだが、「イースター島編」の方で別人に描き直されて、結局、出杉の出番が、全てカットされてしまっている。出杉というキャラクターに問題がある訳ではなく、単純に前記2短篇が収録されなかったことの余波であろう。そこまでするかぁ、という気持ちと、実に丁寧な編集(ケア)であるなぁ、という気持ちと、半々である。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Aug 11 1996 
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