*2001年06月04日:忘れてたね ["^J^]凸
*2001年06月05日:「日本幻想文学史」
*2001年06月06日:ジュラシック・パークを廻って
*2001年06月07日:夜の夢想
*2001年06月08日:「まぐろ土佐船」
*2001年06月09日:リンクリストの憂鬱、再び
*2001年06月10日:差別意識について
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*2001年06月04日:忘れてたね ["^J^]凸


 ネット古書店Gから、「マイ・ベストSF」(J・マーグリイズ&O・J・フレンド編、創元推理文庫)が、ようやく届いた。

 そもそも、5/15に先払いの代金を振り込んで以来、一週間経っても送られてこず、痺れを切らして督促・確認FAXを送ったのが、5/24。それからさらに一週間以上経っても返答が無く、そろそろもうひと蹴り入れてやろうか、と、思っていたところだったのだが..

 ..5/31の消印 [;^J^]。

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*2001年06月05日:「日本幻想文学史」


 3ヶ月ほど前に購入した「日本幻想文学史」(須永朝彦、白水社)を読了。新刊かと思って購入したのだが、実は1993年の出版であった。

 タイトルから想像されるような「通史」ではなく、エッセイ集であり、その意味では同じ著者が(東雅夫と共に)編纂した「日本幻想文学全景」(新書館)のような網羅性に欠け、拍子抜けするが..それでも近世までは(ほぼ書き下ろしだったようで)コンパクトな記述ながら、それなりにサーベイ出来るので、便利である。

 現代パートに至ると、個別の作家にフォーカスしたエッセイの寄せ集めとなり、なんとも偏っているのだが..鏡花、潤一郎、春夫らを評した文章自体は、確かに読ませる。

 特に面白かったのは、「驚異のエンターテインメント −− 異端文学十選」というエッセイで、とにかくバランスが滅茶苦茶に悪い。つまり“遠慮”も“気配り”もしていないわけで、だからこそ、ここに著者の本音が顕れていると思えるのである。


* 江戸川乱歩孤島の鬼
* 江戸川乱歩暗黒星
* 三上於菟吉雪之丞変化
* 小栗虫太郎黒死館殺人事件
* 小栗虫太郎人魚謎お岩殺し
* 小栗虫太郎白蟻
* 夢野久作暗黒公使
* 久生十蘭魔都
* 久生十蘭西林図
* 日影丈吉内部の真実

 「孤島の鬼」「黒死館殺人事件」「魔都」、と、指定席の雄編群が並びながら、何故か(指定席の最右翼に位置すべき)「ドグラ・マグラ」ではなく「暗黒公使」が選ばれているのが嬉しい。私は、この作品の“静謐な悪夢”を愛しているのである。

 小栗虫太郎から3編も選んでおきながら、「本当は虫太郎の作品を5・6篇選びたい」と来る [^J^]。また、「黒死館」は当然として、やはり「白蟻」である。澁澤龍彦も「暗黒のメルヘン」ではこれを選んでいる。目利きたちの選択眼は一致しているのだ。必読ですよ、未読のあなた。

 (ちなみに次点は、「大菩薩峠」(中里介山)と「暁の鐘は西北から」(国枝史郎)。)

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*2001年06月06日:ジュラシック・パークを廻って


 私は、書籍を大切にする人間である。傷が付いたり変形したりするのを非常に嫌う..とか書くと、「フェチ」とかなんとか言いがかりをつけられがちで心外であるが、それはさておき..

 そんな私が、これまでの人生でただ一度だけ、(あまりの酷さに逆上して)本を床に叩きつけたことがある。

 それは、映画「ジュラシック・パーク」のノベライズ版であった。(クライトンによる原作ではない。)読書記録も残っていないところをみると最後まで読まなかった可能性が高いのだが、ライターも翻訳者も出版社も憶えていない。文庫本だったのは確かで、恐らく翻訳ものではなかったかと思うのだが、あるいは、日本人が(翻訳を装って)外国人の名前で書いたのかも知れない。まぁ、外国人が書こうと日本人が書こうと、スカはスカ、屑は屑である。

 映画「ジュラシック・パーク」を観た人は、その支離滅裂なストーリーをご存知だろう。原作「ジュラシック・パーク」を読んだ人は、原作は映画に比べて、遙かに筋が通っている、きちんとしたものであることと、しかしやはりそれにしても、ハリウッド的な軽さと甘さは隠しようがないことも、ご存知だろう。

 そして映画も原作も、かように問題含みではあるとしても、いずれもその“導入部”が実に素晴らしいことは、よっくご存知の筈だ。

 原作では、あの「恐怖の島」(あえてこう呼ぼう!)を沖合に臨む海岸で、ある少女が、ニワトリのような可愛い生物に出会うシーンから始まり、そしてその少女は..

 映画では、まさに恐怖映画のイントロに相応しい、地の底からわき上がって来るような不気味な和音が鳴り響いたあと、いきなり、夜のジャングルの中を、何か大きな物がザワザワと移動して来る不吉で不穏な気配..そして、銃を構えたハンターたちが、不安と緊張の中、“それ”の接近を待ちかまえている..

 いずれ劣らぬ、素晴らしい導入部だ! 特に映画版の導入部の“映画的効果”については、さすがはスピルバーグ、としか言い様がない。

 ..しかるに、前記ノベライズ版では、この映画の冒頭のシーンから始まるのだが、緊張感も不安感も焦燥感も何もあったものではなく、あの(ラプトルに襲われる)ゲイトキーパーが仕事を始める前の、一人称の“ボヤキ”(こんな仕事はいい加減に切り上げて、早く帰りて〜)から始まるのである。緊迫感、ゼロ。腰、へなへな。

 理解も想像も絶する、とは、このことだ。映画の情景(シナリオ)を、何も考えずに“なぞれば”、ただそれだけで、素晴らしいイントロになったろうに。(不労所得みたいなものだ。)あるいは潔癖なライターが、それをよしとしなかったのか? 全く、身の程知らずとはこのことだ..

 それにしても、改めて、映画「ジュラシック・パーク」は傑作であったと思う。CGがどうこうではなく、(JPのCG技術など、とっくの昔に乗り越えられてしまった、)「夢」と「恐怖」の絶妙なブレンド、響き合い。子どもたちと共にヘリコプターで島から離脱するエンディング・シーケンスからも明らかなように、これは「夏休み」パターン、「ひと夏の冒険」パターンなのである。あの恐竜島は、夢と希望に満ちあふれたネバーランドなのだ。確かにそれは事実なのだ。檻と塀から解き放たれたティラノとラプトルも、そこには居たのだが..

 続編「ロストワールド」には、この感覚が、全く無い。残ったのは、最低レベルの脚本と、風変わりな“猛獣”たち(それが“恐竜”である必然性は皆無である)だけなのだ。CG技術だけは、ジュラシック・パークの上を行くが、そもそもそれ(CG)は、ジュラシック・パークの本質では無かったのである。

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*2001年06月07日:夜の夢想


 毎晩のように天狗にバスで通っている、ということは、毎晩のように、深夜、バス停から(約10分間)歩いて帰っている、ということである。

 私は、この帰路の10分間が好きである。といっても、別にたいした道ではない。ごくありふれた、どこにでもあるような住宅街の中の道なのであり、実際、夕方の(天狗へ向かう)往路は、さほど好きでは無いのだ。同じ道なのに。

 違うのは、終バスから降りた帰路は、深夜である、ということなのだ。どんなにつまらない道であっても、深夜には、曰く言い難い感興をそそるのである。

 日光の下ではなんとも興醒めな、白茶けた日常風景の細部が、月光(あるいは星の光)の下では、見えないのである。私の想像力が、夜の幻想効果が、それを補うのだ。昼間はいぎたなく寝ている野良猫どもも、夜には、両目を不気味に緑色に光らせて素速く走り回る、黒い“けもの”に変身する..

 未成年の頃から、夜の散歩が好きだった。そして書籍や絵画や映画の中に、“幻想効果”をともなう“夜の散歩”を見つけるのが、何よりも好きだった。

 例えば、荒巻義雄の「神聖代」である。“夜の散歩”という訳ではないが、主人公が、その巡礼の旅で立ち寄った、エッシャー世界の街は、確かに密やかな夜の魅力に満ちあふれていた。(事実は、太陽は出ているのだが、それは“暗黒の太陽”なのである。)

 例えば、ポール・デルヴォーの絵画である。全裸の女たちが、ただ沈黙だけを身にまとって立ちつくす“夜の街”は、私にとって、ほとんどユートピアと同義であった。

 この、ポール・デルヴォーの幻想空間は、ただちにデ・キリコのそれの記憶を呼び覚まし、(彼の緑色の空の下の夜の空間も、デルヴォーのそれほどには“もてなし”は良くないとは言え、素晴らしいものなのであるが、)それはただちに、マグリットの世界に結びつく。

 そしてマグリットには、「孤独な散歩者の夢想」、という絵画作品がある。私は、ジャン=ジャック・ルソーの、この著作のタイトルを、マグリットの絵を通じて知ったのだが、これも実に美しい告白であった。もう15年以上前に読んだ書物なので、細部の記憶はあやふやだが、必ずしも“夜の”散歩では無かったはずだ。植物学を語る散歩、サン・ピエール島の想い出を語る散歩などがあったと想うが、しかしそれはやはり“夜の”散歩であったに違いない..という印象は、マグリットに刷り込まれたものなのであろう..

 深夜の帰路に、私はいつも夢想している。このまま永久に夜が明けなければ、世界はどれほど美しいだろうか、と..

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*2001年06月08日:「まぐろ土佐船」


 ビッグコミック連載中の、「まぐろ土佐船」(青柳祐介、原案 斉藤健次)が、非常に面白い。まだ単行本化はされていないが、雑誌で追いかける値打ちはありますよ > 未読の方々。

 どこが面白いかというと、何よりもまず“情報漫画”としてである。皆さんはどうだか知らないが、私は、まぐろ船の実状について、(それどころかそもそも、近代的なまぐろ漁の方法について、)ほとんど全く無知だったのだ。毎号毎号、驚くことばかりである。

 主人公の設定(コック長)も、絶妙である。普通に考えると、まぐろ船の中では“脇役”でしかあり得ないのだが、しかし彼がただひとり、2年間に及ぶ航海の台所をあずかっているのであり、その意味では、掛け替えのない“戦闘要員”なのである。

 この作者の作品は、しばしば“男臭さ”が鼻につき過ぎることがあるのだが、今のところ、それは気にならない。ほとんど女が出てこない作品だからかも知れない。なんにせよ、お薦め。

 (サルバドール・ダリの「まぐろ漁」という名作(絵画)も想い出したりして。)

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*2001年06月09日:リンクリストの憂鬱、再び


 Google 等で「倉田わたる」や「廃墟通信」を検索して、ヒットしたページを拾い読みしてみる。ほとんどの場合、好意的に書いて下さっているのだが、これは当然である。なぜなら、わざわざ“言及する”、という工数をかけているからである。普通、つまらない(あるいは反感を憶える)ページを読んでも、「ケッ」、と捨て置くだけで、わざわざそれに言及したり、あるいはリンクしたり、という手間はかけない。(そんな値打ちは無いのである。)だから、自分(のページ)に言及している文章の大多数が好意的であるからといって、増長してはいけない。

 ひとつだけ、ちょっと気になる記事があった。私のページの「更新情報」の「更新日(2000/02/23まで)」を見て、「もう長いこと更新が止まっているようだ..」、さらに、リンクリスト(「外宇宙への扉」)を見て、「この人は、マックス・エルンストには興味は無いのかな..」

 切歯扼腕とは、このことである! 「更新情報」のページの冒頭には、「「廃墟通信」は毎週、「手塚」「吾妻」も随時更新している」、と、書いてあるのだが、それはわざわざ「更新情報」のページに潜らなければ判らないことである。私は、「更新情報」へのリンク自体に「(2000/02/23まで)」とコメントしているのだから、初めて「倉田わたるのミクロコスモス」を訪れた人が、「このページ(「倉田わたるのミクロコスモス」)は、長いこと放置されている」と判断するのは、当然である。この日付注記は、外そう。

 しかしこれは、まだいいのだ。「外宇宙への扉」を見て、マックス・エルンストに興味は無いんだろうか? とは..興味が無いどころではない、私にとっては、20世紀最大の芸術家のひとりである! じゃあ、何故リンクしていないのかって?

 かつて、「リンクリストの憂鬱」と題して、その理由については述べた。要するに、メンテしきれないのである。また、必要に迫られていればメンテもするだろうが、サーチエンジンがここまで発達したこんにちでは、必要性も大幅に低下してしまったのである。

 もはやこんな半端なリンクリスト(「外宇宙への扉」)は、私自身すら、使っていないのだ。訪問客に(私の趣味を)見せるためだけに、メンテする? 不毛だ。あまりにも不毛だ。疲れるだけだ。このリンクリスト、もう、閉じようか..あるいは、大幅に縮小しようか.. どうしよう..

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*2001年06月10日:差別意識について


 白状する。私には、度し難い「男女差別意識」が残っている。自分がそんなものを持っていることには、全く気が付いていなかったし、無論、能動的に差別的な言動をすることなど、あり得なかったのだが..

 今夜、そのことに突然気が付いて、愕然としてしまったのだ。そのきっかけは、とある“男性”サラリーマンが携帯で喋っているのを、バス停で隣りで聞いていた(聞かされていた)ことである。

 「携帯の最低なマナー」については、かつては何度か話題にしたはずだが、最近はすっかり諦めきって、全然書いていなかったと思う。その「マナーの悪さ」の本質は、幼児的な言葉遣いでもなければ、大声で喋ることでもない。「人前も憚らずにプライバシーを撒き散らす」ことにある。そんなもん、聞かせんじゃねぇよ、臭えんだよ、蓋しとけよ!

 例えて言えば、電車の中で化粧をしている牝ブ女子高生どものようなものだ。仮に、中年オヤジが電車の中で、ひげ剃り・整髪をしていたとして、彼女らはそれを正視できるだろうか? 反吐が出そうになるのではあるまいか? ほとんど殺意を抱くのではあるまいか? 彼女らがやっていること(化粧)は、本質的に、それと全く同じなのである。それほど見苦しい・みっともない行為なのだ。

 携帯電話を相手にプライバシーをわめき散らす行為は、限りなく、これらに近い。しかし、私は最早諦めている。社会全体として、これほどの規模で堕ちたマナーを「道徳教育」で引き戻すことは、ほとんど不可能である。慣れるしかない..

 しかし今夜、バス停で私の隣にいた、若い“男性”サラリーマンが、携帯で「プライバシーを撒き散らし」始めたとき、私は思わず、カッとなったのである。(心の中で)「そんなもん、聞かせんじゃねぇよ、臭えんだよ、蓋しとけよ!」

 そう、女子高生やOLならば、我慢できるのだ。男だと我慢できないのだ。


「女こどもは仕方がない。しかし“男が”するんじゃねえよ!」


 これが、私の内なる差別意識だったのだ。普段は全く気が付かない、潜在意識の底に眠っていた差別意識だったのだ。その存在に気が付かないから、それに対処することも出来ていなかったのだ。

 今からでも遅くは無い。私も男女差別意識の持ち主だった、という事実を見据えて、これを直していくことにしよう。このきっかけを作ってくれた、例の男性サラリーマンには、感謝せざるを得まいが..あー、しかし、思い出しても腹が立つ。[;^.^]

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jun 13 2001 
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