*1996年11月18日:車間距離について
*1996年11月19日:「魍魎の匣」読了
*1996年11月20日:喉に骨 [/_;]
*1996年11月21日:勤勉な記憶力は、他人の仕事の邪魔をする
*1996年11月22日:「凄ノ王」超完全完結版、完結
*1996年11月23日:間の悪い休日
*1996年11月24日:ハローモシモシ、調査
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*1996年11月18日:車間距離について


 どうして、車間距離を取らない人が、こうも大勢いるのだろう。

 5メートル、時には3メートル位の距離で前車に密着して、時速60キロ以上で走って行く運転手たち..運転していて、楽しいのだろうか?

 車間距離を取らないことの危険性など、誰もが知っているから、ここでは述べない。私が不思議でならないのは、何故、自ら進んで“面白くない”状況に身を置くのだろう、ということだ。通勤時間といえども、人生の貴重な一部ではないか。楽しまなければ損である。それには、車間距離をたっぷり取って、余裕を持って、おおらかに運転することである。(スピードを出したければ、車間距離を取ってからアクセルを踏み込めばいいのだ。)

 車間距離を取ることの最大のメリットは、高い自由度を手に入れられることである。100メートル先で、前車がブレーキを踏んだ。車間距離を取っているので、何が起こったかは(車間距離が全然無い場合よりは)すぐ判る。(車間距離が無いと、前車のすぐ左前方にいる自転車や歩行者、さらには信号すら見えないことがある。)従って、その事態を分析して(例えば赤信号ならば、その赤信号はいつ頃青信号に変わるかの推理をする。あるいは右折車や左折車が曲るのを待っているのならば、あと何秒後にその待ち状態が解消されるのかを推理するなどして)、自分の取るべきアクションをゆっくり決めることが出来る。いつブレーキを踏むか。どの位踏むか。あるいは踏まずにシフトダウンしてエンジンブレーキでしのぐか。時と場合と気分に応じて、アクションは多彩に取り分けられる。この余裕が、安全と、何よりも運転の“楽しさ”をもたらすのである。

 “車間距離を取らない”ということは“機械の一部になる”ということである。

 そこには“自由意志”の介在する余地は、一切ない。

 前車が離れたらアクセルを踏む。前車のブレーキランプが点灯したら、間髪入れずにブレーキを踏む。ただそれだけである。

 恐らく、自動車の運転が好きではないのだろう。

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*1996年11月19日:「魍魎の匣」読了


 「魍魎の匣」を読み終え、感服。(2年近く前に発表された作品でもあるし、)多分、こんなことは言い尽くされているのだろうが、これは驚くほどストレートな、乱歩へのオマージュである。

 冒頭のシーン。劇中劇というか、小説内小説の一節だが、箱の中に、ある“もの”を入れて旅する男との、電車の中での出会い。誰がどう読んでも、これは「押絵と旅する男」のエコーではないか。

 そして、猟奇的連続殺人事件と、胡乱な「近代医学研究所」。この研究所が実にいい。(これほどの施設を、3人かそこらで維持管理できるはずがない、という、非現実感(というよりはむしろ、いかがわしさ)が素敵だ。)

 おぞましき真相が徐々に明らかになる、という書き方であり、驚くべき犯人がいきなり指摘されるとか、そういうショックは感じずに読み進めていたのだが、646頁で、ついに“まいった”。“やられた”。まさか“あれ”が、そういうことだったとはね..

 乱歩は、恐らくこういう小説を書きたかったのだ。乱歩の夢を京極夏彦が実現した。日本探偵小説界の、黄金時代の到来である。

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*1996年11月20日:喉に骨 [/_;]


 昨夜、居酒屋で「魍魎の匣」を読みながら、喉に鯖(の塩焼き)の骨を刺したのだ。ちょっと深い。しつこい。昨晩はついに違和感が取れなかったが、まぁ寝ている間に抜けるだろうとタカをくくって起きてみたら..

 まだ痛い。[/_;]

 私は過去20年、病気や怪我の類にたいしては、無抵抗主義をつらぬいている。つまり、やせ我慢をしたり己の体力を過信したりせずに、さっさと病院へ行くのである。午前半休をとって、T医院(耳鼻咽喉科)へ行き、ファイバーで覗いてもらったら、骨は無く、深い傷がついていたのだった。抗生物質と鎮痛薬をもらう。ややこしいことにならずに一安心。これからは、真面目に骨を取って食べることにしよう。(鯖の塩焼きの肋骨程度ならば、面倒なのでいちいち取らずに、バリバリと食っていたのである。)

 しかし夕方になっても、喉のチクチクした痛みは取れないので、ボイトレのレッスンは、休む。

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*1996年11月21日:勤勉な記憶力は、他人の仕事の邪魔をする


 異動その他で、内線番号はしばしば変わる。が、いつまでも昔の内線番号に、電話をかけてくる人々がいる。(つまり、古巣あるいは昔の机にかかってしまう訳だ。)

 無精なのではない。むしろ逆だ。彼らに共通している特徴は、記憶力が非常に良く、100や200の電話番号(内線番号)を、苦もなく記憶してのけているということである。従って、(一度覚えた)内線番号表を二度と見ないのだ。既に変更されているというのに。

 変更されることが前提であるような物事を、覚えてはいけないのである。その記憶は早晩無駄になり、むしろ仕事の妨げになる。いちいち最新情報を参照する方が望ましいのだ。記憶力を磨くのではなく“最新情報をアクセスする手間”を最小限にする方法を工夫するべきだ。それが苦にならないシステムが用意されていれば、無駄なことを覚えることもなく、他人の仕事の邪魔もせずにすむのである。

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*1996年11月22日:「凄ノ王」超完全完結版、完結


 永井豪の「凄ノ王」超完全完結版の第6巻(最終巻)を、居酒屋で読了。またしても未完、だろうなこれは。[;^J^](いや、形としては“超完全完結版の最終巻”でありますがね。[;^J^])

 中断癖のある作者であるが、こと「凄ノ王」に関する限り、これは織り込み済みというか、中断することが前提の物語であったという。これは“神話”であり、“神話”を人間が語りきれるはずもない。ある時点で“神々”の物語となり、それは人間の言葉では物語れないものだから、中断するほか無いのだ、と。これは筋の通った言明である。

 「凄ノ王」は、これで都合3回、“中断”したわけだ。

 最初は、少年マガジンに連載された、当初の「凄ノ王」の幕切れであり、ある意味では、これがもっとも鮮烈な印象を与える。宇宙最大の“魔”が地球に向かって飛来してくるは、頼みの英雄神は蘇らず、最悪の魔王となって蘇り、人類文明を破壊し尽くしにかかるは、それにつられてありとあらゆる“魔”が蘇って、地球に暗黒時代が訪れることが強く示唆されるはで、およそ人類にとって、これ以下は無い、という最低最悪の局面で、いきなりブチ切れる。

 第2の中断は、これを(確か「野性時代」で)引き継いだ物語の中絶。「凄ノ王」は「凄ノ王伝説」として仕切り直され、講談社コミックスの全9巻は「凄ノ王伝説」の5巻までにまとめ直され(描き換え、描き足しは、ほとんどない)、そして「野性時代」等の連載分が、2巻追加された。特に、講談社版(というか、少年マガジン版)のすぐあとをフォローする第6巻は、素晴らしい傑作である! 魔の世界と化した地球の荒野で繰り広げられる、生き残りの人間たちのサバイバルストーリー。太陽系宙域で繰り広げられる、超魔神・凄ノ王と、超戦艦・ラン・グーンとの戦い。そして“魔”の空間に落ち込んだ、朱紗一族の冒険。実に“伸びやかな”吹っ切れたSFなのだ。これは是非とも読んでいただきたい。そして第7巻は、英雄神の再生を示唆しつつ、フェイドアウトして行く..

 第3の中断が、今回の「超完全完結版」。これは「凄ノ王伝説」で追加された第6巻と第7巻の、計690頁を225頁にダイジェストして、35頁描き足したもの。数多の伏線を放り出して中断している「凄ノ王伝説」に、これで決着がつけられるわけがない。[;^J^]

 ただし、私は不満を感じていない。“中断の思想”に関しては、永井豪と同意見なのである。「凄ノ王」(少年マガジン版)の鮮烈な“中断”は、稀に見る素晴らしい効果をあげていた。これへの続編(あるいは完結編)を(心ならずも?)2度トライして、2度とも果たせずに“中断”を繰り返したという事実は、とりもなおさず、この最初の“中断”が、いかに“完璧”なものだったかという証左である。

 中断した作品は、つまりは未完成品であり、一般論としては出来の良くないものが多いのだ。しかしごく稀に「凄ノ王」のごとき大傑作が誕生する。中断した超傑作として、もう一例を上げると、国枝史郎の「神州纐纈城」がある。

 「凄ノ王」に続いて、「まんがガウディ」1月号も、ビールを飲みつつ引き裂きながら読了。(「凄ノ王」を引き裂いたわけではない。)雑誌を引き裂くのはいつものことなのである。

 保存している雑誌は「SFマガジン」と「サイエンス」と「インターネットマガジン」だけ。(「インターネットマガジン」は、ただなんとなく残しているだけであり、いずれ売り払うつもりだ。)「まんがガウディ」も「COMIC アレ!」も「レコード芸術」も、引き裂きの刑である。置く場所がないのだ。必要な記事だけ破りとって捨てる。そして、どうせ捨てるものならば、わざわざ自宅に持ち帰るのも体力の無駄使い。帰宅途中に読みながらどんどん破り捨てる。帰宅前になくなってしまえば、“勝ち”なのである。

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*1996年11月23日:間の悪い休日


 今日の午前中は、どうにも間が悪かった。

 ちょっと寝過ごしたおかげで、散髪に入った美容院で、いささか待たされた。(カットするだけだから床屋で十分なのだが、ここは自宅から近いのである。)たいしてうまくもなく(というより、きっぱり下手で)、廉くもなく、ただただ早い(速い)だけが取り柄の店なのだから、これでは全く意味がない。

 図書館に寄ってみれば、休館。今日はただの土曜日ではなく、祝日でもあったか。

 喉がまだチクチクするので、T医院に寄ってみれば、ここも休み。(だから祝日なんだってば。>自分 [;_ _])

 気を取り直して、いつもの喫茶店でちょっと早めの昼食として「ヒレカツ丼と茶そば」を注文したら、これが実に不味い。カツ丼もヒレカツ定食も、特にうまいとは言えないにせよ、世間並みの水準は維持しているのだから、まさか合せ技のこのメニューが、これほど不味いとは思わなかった。やられた。

 という、散々な午前中。しかし秋晴れの空は、あくまでも爽やかに晴れ渡っているのだった。午後からは休日出勤。

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*1996年11月24日:ハローモシモシ、調査


 図書館で朝日新聞の縮刷版調査。「ハローモシモシ カット」である。読売新聞にも掲載されているらしいが、浜松中央図書館には、この時期の読売新聞がないので、未調査。朝日新聞の火曜日の朝刊に、やや不規則だが隔週で掲載された、国際電電の広告のカット。この広告の第26回から第47回を受け持っている。第34回は欠番。連番の振り損ないである。良くあることだ。

 このような断簡零墨を渉猟する前に、やるべきことは多々あるのだが、地元の図書館で調査出来るネタは、多くはないのである。

 今日も午後から休日出勤。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Nov 26 1996 
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