ブラック・ジャック 20


*海のストレンジャー

 大雨の中、呼び出されたブラック・ジャックは、一発殴られて気絶させられた上で、小さな船に運び込まれる。気が付けば海上。ここで診察しろというのだ。現金輸送車強盗の犯人たちだ。ボスとその弟と子分ひとり、都合3人。重傷を負っているのは、ボスの弟だ。輸血も出来ずに、無茶な話だが、嵐の海上でブラック・ジャックの手術は続く。

 嵐は収まり手術も終わったが、患者の衰弱がひどい。羅針盤が壊れた船も、航路を失った。食料もない。子分はイルカを撃つが、(食中たりを起こすので)食えるわけが無い。甲板にうっちゃられていた、怪我をしたイルカを治療する、ブラック・ジャック。

 遭難船の放浪。水も食料も無くなった。そんな中で弟よりも先に、イルカの傷が、ほぼ治ったので、静かに浮いていろ、と海に戻してやるが..そのイルカが、血を流しながら泳ぎ始める。彼らを陸地の方向へ案内しているのだ。

 無事に陸上に戻れて、抱き合って喜ぶ強盗たちを出迎えたのは、警察。素直に縛につくふたりと、病院送りになる弟。海岸には、イルカの死体..

 動物美談だが、無理は多い。数日間にわたってベッドに寝かされていたイルカだが、水に入っていなくて、死ななかったのか? おとなしく浮いていろ、と、海に戻すのも問題で、鮫などの敵から、逃げられないではないか。そうでなくても、血の臭いをプンプンさせているのに。

 海上での犯罪者の手術とイルカの手術、という、取り合わせの意外さを別にすると、特に印象的なエピソードとは言えない。

*執念

 医師国家試験を受験する山之辺は、試験中に倒れてしまう。ベッドで寝ている間に試験が終わってしまった山之辺を、また来年、受験しなさい、と励ます医師たち。山之辺は、家族全員を癌で失っていた。その供養に、一刻も早く医師になって、癌患者をひとりでもふたりでも治してやりたい、というのだが..しかし、山之辺自身、既に癌に冒されているのだった。手塚医師から山之辺のカルテを見せられたブラック・ジャックも、一年ももたんだろう、と、見放す。

 試験結果の発表の日。途中で退場したにも関わらず、山之辺は見事に合格していた。しかし、「慢性腹膜炎」で腹水が溜まっていて入院しているような医者に、病人を診察できるだろうか? ブラック・ジャックも、やめておけ、と諭すが、山之辺は聞かない。

 (ならば、気が済むように、という)ブラック・ジャックの進言で患者を受け持たされた、山之辺。しかし彼自身の容態は、日々悪化していく。山之辺も、知っていたのだ。自分の病気は慢性腹膜炎などではなく、膵体部の癌で、多分、今年いっぱいもたない、ということを。自分の家族は癌で全滅する。その前に、たった一度でもいいから、手遅れにならない癌患者をなおしたい。無理を重ねる山之辺は、ついに患者の手術に踏み切る。サポートにブラック・ジャックが付き、見事に手術を成功させたが..山之辺は、手術終了と同時に、倒れて死んだ..いや、実は手術中に、既に死んでいたのだ。死んでからも、気力だけで手術をやり終えたのである..

 死んでしまったら、もう“気力”なんかないぞ、と、不謹慎にも突っ込んでしまった [;^J^]。死者による治療(手術)という、逆説的な設定は、面白い。

*命のきずな

 パリの空港で大事故が発生! 飛行機の爆発である。ブラック・ジャックは、バリン氏が踏み倒している手術代を取り立てに来ていたのだが、バリン氏も病院に収容された。彼が死んだら一大事、(金を取りはぐれる、)とばかりにA病院に駆けつけたブラック・ジャックは、医者が足りなかったところだ!、と、瀕死の大火傷を負った、別の女性の手術をさせられる。その間、バリン氏は夫婦共々死亡。彼の子どもが別の病院で危篤状態、という知らせが届く。息子だけでも助かれば、手術代が支払われる可能性は残る、と、ブラック・ジャックは、その病院にかけつける。

 バリン氏の息子は、まだ赤ん坊だった。やはり大火傷で、その病院の医師たちは、ほとんど諦めていたのだが、ブラック・ジャックの懸命の手術で息を吹き返す。A病院から電話。例の婦人が危篤に。主人と赤ちゃんを失った彼女は、生きる気力を失っているのだ。ブラック・ジャックは一計を案じて、彼女の赤ちゃんは生きていて、別の病院で治療を受けている最中だ、という嘘を、A病院の医師につかせる。患者の気力をつなぐためだ。彼女は、虫の息ながらも気力を取り戻す..

 二週間後、二人とも奇跡的に快復した。ブラック・ジャックは、婦人に、そろそろ赤ちゃんに会わせてあげられるが、顔に植皮をしたから人相は変わっているかも知れんよ、と、防衛線を張っていたが、彼女は、そんなことは気にしない、あの子が生きているだけでいい、あの青い瞳で私に抱きついてくれれば、と..

 ..あの(身代わりの)赤ちゃんはの瞳は、鳶色だった! やはり騙しきることはできなかったか..しかし、彼女のカルテを見たら..なんと、色盲だったのだ。彼女は、鳶色の瞳の赤ん坊を、自分の子どもと信じて抱きしめた..

 例によって、穴というか、突っ込みどころが多いエピソード。大体、いつかは必ずばれる嘘である。この子の瞳は青いわよね?と、彼女が誰かに尋ねたら終わりではないか。(しかしまぁ、気力と体力が完全に快復するまでの期間だけ、嘘を信じ続けられたらいい、ということも知れない..自分の赤ちゃんが死んだ、という事実を受け入れられるようになるまでは..他人の赤ちゃんでも自分の子として育てられる気持ちになるまでは..)それよりも、色盲なのに、どうして、赤ん坊の「青い瞳」にこだわったのかが、気になる..

 とはいえ、それなりに爽快なエピソードである。この「親子縁組み」のトリガーになったのが、ブラック・ジャックの「手術代金取り立て」(それも、親が払わずに死んだのならば、息子からでも取り立てたる!、という、えげつない取り立て)であるからだ。ドライさとウェットネスの、ウェルバランスなメリハリ。

*アヴィナの島

 南洋の島の神聖な儀式。目も眩むような断崖から海に飛び込み、海底の貝殻を拾って戻ってこれた若者は、自分の好きな娘と結婚出来るのだが..ほとんど成功例が無い。(王の娘)アヴィナと相思相愛の、貧しいクナも、このダイビングに挑んで、失敗する。二度と飛び込めない大怪我をしてしまった。若い二人の絶望。

 アヴィナはブラック・ジャックに治療を依頼するが、金を用意できていない。父王には相談していないのだ。秘密なのである。自分の島を提供すると申し出るが、それは本当に小さな島。しかし、花園のある、天国のような秘密の庭園。島などいらんというブラック・ジャックも、彼女の涙にほだされて、クナの傷を診るだけ診るが..

 ..酷い手当てをされていた。手当てしたのは、島の大僧官である。彼は、医師免許も持っていると主張するが、そんなものは金で買えるさ、と、ブラック・ジャックは相手にしない。行きがかり上、ブラック・ジャックがクナの治療をすることになった。完全に治れば、大僧官が治療代を払う。治らなければ、ブラック・ジャックの舌が抜かれる。

 大僧官は、王の意を受けていたのだ。娘のアヴィナが貧しいクナに心を寄せるのを快く思わない父王が、わざと杜撰な治療をさせたのである。ブラック・ジャックは見事に治したが、二度とこんな馬鹿なダイビングをするな、という彼の忠告をクナは聞かない。だって、神聖な行事なのだから。これをやり遂げないと、アヴィナとは結ばれないのだから。

 全快したクナは儀式の日に、再びダイビングを試みる。彼が決して勝ち名乗りをあげないように、大僧官が手を回していた。クナが飛び込む直前に、海中に鮫を放せ、と..

 しかし、クナが飛び込む直前に、海底でクナに貝殻を手渡そうと、アヴィナが、こっそり海に潜っていたのだ! 鮫がアヴィナを襲う! クナが救出に飛び込む! ブラック・ジャックの麻酔弾で鮫はしとめられたが、クナもアヴィナも、浮かび上がっては来なかった..父王の悔恨..

 ..あの、楽園の島に、ふたりの死体は流れ着いていた..ブラック・ジャックは花畑の中に、ふたりを埋葬する。

 このエピソードに於いては、ブラック・ジャックがブラック・ジャックである必要は無く、ほとんど傍観者に等しい。大した作品では無いと思うが、箱庭のような、小さな楽園の島と、そこに辿り着く悲恋物語が、不思議に印象に残る。

*戦争はなおも続く

 イル国とイラヌ国との、泥沼の全面戦争。ブラック・ジャックに全財産を託して、息子の診察を依頼する母。重傷だ。このままでは一生立てなくなるだろう。椎間板ヘルニアを、長期間放置していたからだ。しかし今は、入院しようにも病院は兵士で一杯で、民間人はとても..

 一日も早く息子を治して、戦場に送り返してやりたい、という母の言葉を聞いて、ブラック・ジャックは、激昂する。患者をなおす商売だ! 母は、主人は戦争に反対して死刑になった。だからせめて息子だけは、戦場の勇士としてお国のためにつくさせてやりたいのだ、と言うが..ブラック・ジャックは、奥さんは忠実な国民かもしれんが、母親としてはサイテイだよ!と、吐き捨てる。

 医者が帰ったのち、母は、近所の人はみんな戦争に行ったというのに、恥っさらしな! と、息子に無理をさせる。早く動けるようになるように、無理矢理立たせ、歩かせる。苦しみのたうち、母を罵る息子。

 翌日、治療をしたブラック・ジャックは、すぐに異状に気づく。絶対安静だと言っておいたのに、なぜ無茶をさせた! こともあろうに歩く練習など..逆に病気を重くさせているのがわからないのか!(日本にも、戦時中はこんな母親がいたが..)しかしブラック・ジャックが目を離した隙に、またしても、母は息子に、無理矢理運動をさせてしてしまう。怒るブラック・ジャック。ここまで悪化してしまっては、もう、手術をするしかない..

 その一方で、ブラック・ジャックはホテルの従業員から、彼女(母親)の夫が戦争に反対して警察に捕まって以来、彼女の家が、ずっと監視されていることを知ったのだった。

 手術は成功した。息子が治るということを、複雑な表情で喜ぶ母親の目の前で、ブラック・ジャックは、壁の中から隠しマイクを掘り出して見せる。それを見て、母親はようやく、心おきなく泣く。もう、心にもなく愛国者ぶる必要は無い。戦場に送り返されるのを妨げるために、無理矢理息子を歩かせて、快復を長引かせる必要もない。ブラック・ジャックは、彼女の息子のために、当分(=戦争が終わる日まで)絶対安静を必要とする、という診断書を書いて、去っていったが..

 一年後、息子は無理矢理戦場に引っぱり出され、三日目にあっけなく死んだ。ブラック・ジャックが手術をして、ようやく治した傷跡の箇所に、銃弾を受けて..

 戦中婦人の「偽りの気丈さ」を描いた作品は、他にもいくつかあるが、息子の命を助けるために、当の息子を痛めつける、という、地獄のような状況を描いた作品は、(他にもあったかも知れないが、)今は思い出せない。私には想像することしか出来ないのだが、恐らく、日本の現実の戦中時代にも、こういう事例はあったのだろうし、今現在、戦時下にある世界各国でも、現実に起こっていることなのだろう..

*刻印

 4年前の「」の改作である。

 ロックに呼び出されたブラック・ジャック。今や暗黒街の顔役でありインターポールから追われる身であるロックは、ブラック・ジャックの旧友であった。手も足もほとんど動かない黒男(ブラック・ジャック)と、嘘つき少年で友だちのいない間久部(ロック)は、なぜか気が合ったのだ。それに間久部は黒男には、ただの一度も嘘をついたり騙したりしたことは、無かったのだ。

 逃亡の身であるロックは、指紋を変えてくれと依頼する。指紋だけを変えるのは無理であり、指ごと取り替えることになるのだが、ロックと部下の、指のすげ替え手術を施して帰るブラック・ジャックの車は、爆発する。その間、ロックは、指をすげ替えた部下ごとアジトを焼き捨て、証拠を隠滅する。

 後日、警察に捕まったロック。容疑は数えきれぬほどだが、指紋すら変えてしまったロックを、警部は追求しきれない。小学生時代のロックの顔写真も入手したのだが..しかし、やむを得ずロックを釈放しかけた警察に、ブラック・ジャックからの情報が入る。私がロックの指を付け替えた。その証拠に、手術の時に友情を記念して、指の骨にB・Jのサインをマジックで書いておいた、と。警察病院での切開手術に回されるロック。かくしてロックは破滅した。

 死刑囚・ロックに面会したブラック・ジャックは、彼を爆殺しようとしたのは、ロックの部下の独断であったことを知る。ロックは一度だって、ブラック・ジャックに嘘を付いたことは、無かったのだ..

 原作の「」と読み比べると、「指」で「まずい」と判断された(のであろう)要素が、綺麗にそぎ落とされていることが、良く判る。「多指症患者」という設定自体の消去。そして「指」では、ロックのブラック・ジャックに対する裏切りも、ひとつの読みどころだったのであるが、本作では、ロックは変わらぬ友情をブラック・ジャックに抱き続けていた(従って、ロックが裏切ったと誤解して、彼を死刑台に追いやったブラック・ジャックの復讐は、行き過ぎであった)ことにされた。前者はともかく、後者の変更は、個人的には、やや物足りない。「旧友すら裏切る、暗黒の貴公子」、という暗い輝きが、薄まったように思えるのである..

 (なお、瑕瑾には違いないが、リライトの過程で、論理的なミスが発生した。ロックの小学生時代の写真を入手した警部は、(今のロックと同じ顔の写真を、ロックに突きつけて)「おまえは当局の目をくらますために、何度も整形手術をして別人になろうとした。… だから … きっと … 指紋も変えたんだ!!」..今のロックと昔のロックが同じ顔をしているんだから、主張の前半が、全然成り立っていないってば。[;^J^])

*過ぎさりし一瞬

 ブラック・ジャックを乗せたタクシー運転手は、バックミラーで彼の顔を見て、思わず運転を誤りかける。運転手の顔には、ブラック・ジャックそっくりの傷跡(の形の“みみず腫れ”)が浮き上がっていた。

 彼の名は、今村健平。タクシー運転手として働くかたわら定時制高校に通う苦学生だが、他人の傷をみると、同じような傷跡のようなみみず腫れが発生し、痛みまで感じる、というアレルギー体質の持ち主だったのだ..

 ..悪夢。見覚えのある村。ブナの木。その向こうの白い壁の生家。その壁に、弾の痕! 彼は、そこで撃たれたのだ! そして教会。破壊!..うなされて起きて、洗面所で顔を洗った今村は、鏡の中の自分の顔が、女性になっているのを見た。悲鳴..!

 心配する経営者。タクシーの運転手が、幻聴・幻覚とは。事故を起こしたら、ことだ。休職したらどうだ? やけを起こした今村は、偶然、街中でブラック・ジャックに会って、逆恨みの八つ当たりを起こして暴れる。

 ブラック・ジャックに取り押さえられた今村は、場末のメシ屋で事情を話し、ブラック・ジャックに体を見せる。なんと、弾痕が..! しかしこれは、痣なのだ。撃たれたことは、無いのだ。ブラック・ジャックは、彼を自宅に入院させせ、ピノコに今村の寝言を録音させる。

 ある夜、今村は、教会で銃撃される夢を観て悲鳴を上げ、そのとき同時に、弾痕から血がにじみ出してきた。驚いたブラック・ジャックは、手術を始める。一見、皮膚の表面から血がにじみ出しただけのことなのだが、ブラック・ジャックは、深く切開して症状を調べる。そして、異状を発見する度に、写真に収めつつ、手術を進める。

 ショックを受けたブラック・ジャックは、寝言のテープを調べる。その中には、「アニタ、お母さん、逃げろ!」という言葉が何度も現れるのだが、今村は、アニタという名前には記憶が無い。ブラック・ジャックは、今村の銃創様の痣は「本物」である、という、驚くべき診断結果を告げる。それも、赤ん坊の頃に受けた銃創だ。確かに撃たれて治療を受けている。切開してわかったことだが、皮下組織や血管や肋骨を、誰かがいじくっていたのだ。そして、皮膚割線にそって切開する、という、高度な技術で手術されたが故に、手術の跡が、全く残っていないのだ。だから、内臓を覗くまでは、それが判らなかったのだった。

 他人の傷を見てノイローゼになったり、みみずばれが浮かび上がったりするのは、赤ん坊の頃の恐怖が原因になっているのかも知れない..

 ブラック・ジャック自身は、何にショックを受けたのか。それは、赤ん坊にそれほど高度な手術をして傷跡も残さなかった医者が、芸術家がいる、ということだったのだ。自分は、世界一の天才だと思っていたが..この、謎の医者は、自分と同等か、それ以上だ。彼こそが、ライバルだ! 彼が誰だか、知りたい!(今村に銃創を負わせた人間が誰なのか、などということには、興味は無いのだ。)

 ..今村の悪夢は続く。雷雨。戦車。教会への逃亡。そして目が醒めて窓の外を見たら、ガラスに写っているのは、自分の顔ではなく、少女の顔!

 寝言のなかに「サンメリーダ」という地名が、初めてあらわれた。ブラック・ジャックは各国大使館に問い合わせて、それがエルサルバドルの村の名だということを突き止めた。今村は、国外に出たことなど無いのだが..

 今村を連れ、ピノコと3人でエルサルバドルに乗り込んだブラック・ジャック。タクシーの運転手にサンメリーダ村に案内させる。この国では、20年前に内戦があった。道沿いの建物の壁には、弾痕..その運転手も、当時はゲリラの兵士だったのだ。政府軍は、ゲリラを狩り出すために、非戦闘員の女子どもまで殺戮して回ったという..その頃、今村は、思い出しかけていた..

 ..夢の中の光景と同じだ! 彼はタクシーを止めさせると、教会に飛び込む。彼は、教会の中の光景を、天井が崩れてきた場所を、はっきりとおぼえていた。しかし..赤ん坊の頃、ここにいたとしても、そこまではわからないはずだ。ブラック・ジャックの疑念。今村よ、おまえは、一体、誰だ..?

 彼らは、この教会の神父を尋ねる。20年前にいたのは、先代のファスナー神父で、既に隠居していた。(今村は、マリア像を見て、なぜか泣いていた。)

 神父宅にタクシーを進める途中、今村の記憶はどんどん蘇ってくる。夢の中の光景と同じなのだ。ブナの木も、白い壁も。懐かしい..懐かしい? 日本から出たことも無いのに? 今村にも判らない。なぜだか判らないが、20年前、絶対にここに住んでいたのだ。記憶は蘇り続ける..そして、壁の弾痕を見て..ついに、自分が撃たれたことをも、思い出したのだ..

 ファスナー神父の家についた一同は、今村を手術したのは、ファスナー神父自身であったということを知った。ブラック・ジャックの驚愕。あなたの技術は世界一だと確信する。しかし、ファスナーに言わせると、自分の技量は、本当に恥ずかしいほどのものなのだ。なぜ、あんな手術が出来たのかと言うと..

 当時、ファスナーは、医科大出身だったのにも関わらず、神父になったのだ。そして、貧しい人は治療も受けられないほどの貧富の差と不平等に怒りを感じて、ゲリラ組織に身を投じたのだった。大地主側の政府軍は掃討戦を繰り広げ、この村でも、激しい戦いがあった。そしてこの教会にも、犠牲者や負傷者が何十人も運び込まれたのだが..罪もない村人たちが大勢、政府軍に殺されたり、大怪我をしたりしたのだ。マリアも、そのひとりだ。彼女は母も妹も殺された。時を同じくして、日本人の報道特派員の一家も砲撃を受け、赤ん坊だけが生き残った。脳をやられ、背中に2発も銃弾を浴びたこの子は、手術しても無駄だろう..

 瀕死のマリアは、神様のお告げだと言って、自分の血と肉を、その赤ん坊に分けてやってくれ、と、神父に頼み、絶命した。そんな技術は無い、と絶望する神父に、マリア像から励ましの声が。そして神父は、無我夢中で大手術を始めたのである。マリアの脳細胞を、赤ん坊にスプーンで移し、脳室の脳脊髄液も、スポイトで移したのだ。奇跡的な手術は成功した。

 その赤ん坊は、やがて別の報道特派員が引き取って日本に連れていったが、神父は、奇跡の記念のために、背中の弾痕だけは、わざと残しておいたのだ。

 ショックを受ける今村。彼の体の半分くらいはマリアのものだったのだ。彼の夢は、マリアの記憶なのだ。いずれマリアの記憶は薄れて消えてしまうだろう、と、神父は今村を慰めるが..ブラック・ジャックは、納得しない。神の奇跡の力で手術をしたって? そんな逃げ口上は認めない。私は神様なんかに興味はない、あなたの技術を見るために、はるばる日本からやってきたんだ。さぁ、いっしょに国立病院にいきましょう、そこであなたの天才の秘密を、たっぷりと見せてもらいますよ..

 そこに、警察の急襲。いまだにゲリラの一味として指名手配されていたファスナーを、捕らえにきたのだ。(だからこそ、教会をやめて、隠居暮らしをしていたのだ。)無抵抗で降伏したファスナーに浴びせられる銃撃! 警察側の指揮官も驚いた。もののはずみで、部下が勘違いをして撃ってしまったのだ。

 虫の息だ。ファスナーの家の中に運び込むと、ブラック・ジャックの手当てが始まる。懸賞金目当てで通報したのは、タクシーの運転手だった。指揮官は、なんとか命は助けてやってくれ、と。なぜなら(元)神父は、ゲリラ組織の本部と主要メンバーの名前を知っているからだ。そんなこたぁ、ブラック・ジャックの知ったこっちゃない。手術をして欲しいなら、50万ドル払いな!

 払えるわけがない、と難色を示す指揮官に強談判(というか、ほとんど脅迫)をして、50万ドルの約束を取り付けると、全員を家の外に追い出して、ブラック・ジャック(とピノコ)のみによる、手術が始まる。この人の手術の腕を見るためにこの国に来たのに、あべこべにこの人の手術をするとは..せめて、彼くらいの見事な手術が出来れば..以前、恩師の本間先生の手術をして、死なせたことがある。この人は、断じて死なせん。俺の意地だ..しかし、ファスナーの右の指が二本、ちぎれているのに、いまごろになって気が付いた。ブラック・ジャックの絶望..

 それでも、懸命に手術をやり終えたブラック・ジャックは、密告したタクシー運転手に脅迫される。(証人となるべき)神父の命が危うくなる、という事態に、警察が密告者に補償金を払うどころの事態ではなくなったからだ。無論、あっさり金を払うブラック・ジャックではなく、運転手を叩きのめして気絶させると、一計を案ずる。

 神父は一命をとりとめ、意識も戻った。タクシー運転手を地下室に押し込めて、食事はさせずに睡眠薬を打つように手配。今村には、例のマリア像を教会から運び込ませる。

 神父は、弱音を吐く。命が助かったとしても、いずれ警察の拷問だ。それには私は耐えられない。今、ここで死なせてくれ。無論、ブラック・ジャックは応じない。また、自分の20年前の手術は神様からもらった奇跡で、自分の技術ではない、という言葉もまた、ブラック・ジャックは相手にしない。その奇跡の技術は、あなた自身のものだ。「あなたの手術はまさに世界の最高だった…。もう…確かめる方法もありませんがね」…。

 一ヶ月後、快復した神父を、警察が連行しに来た。ブラック・ジャックは、監禁してやせ衰えた運転手に、神父そっくりの整形手術を施すと、警察に引き渡した。卑劣な密告者に残されたのは、拷問の日々だ..本物の神父は、マリア像の中に隠れていた。彼は無事に、地下組織の仲間の手引きで国境までゆけることになるが..しかし、ブラック・ジャックは、彼に二度と会うことはないだろう。神父の右手の指が、ちぎれてしまったのだから..もう、彼の、奇跡の手術を見ることは出来ないのだから..今村とピノコの対話。


「先生は、どうしてさみしそうなのかな」
「先生はね、お友らちがほちいの。先生みたいに手術うまい人さがちてゆ。れもね。けっきょく先生はひとりぼっちなの…」

 「コルシカの兄弟」のようなオカルトネタとしてスタートした中編だが、その真相は、脳髄の混ぜ合わせによる記憶の混交、というものすごいものであった。リアリティは全く無いが、特に前半の不気味なムードは、忘れがたい。


*手塚治虫漫画全集 367

(文中、引用は本書より)


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Dec 16 1999 
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