*2014年12月08日:今頃「コスモス」[;^.^]
*2014年12月09日:BDメディアの不良?
*2014年12月10日:「紙つなげ!」
*2014年12月11日:「ピダハン」
*2014年12月12日:「漫画家超残酷物語 青春増補版」
*2014年12月13日:可愛さ余って [;^.^]
*2014年12月14日:浜響定演/ようやくコタツ
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*2014年12月08日:今頃「コスモス」[;^.^]


 先週になって、積読の山の底(というか中低層)から発掘されたのである。コスモス(上、下)」(Carl Sagan、木村繁訳、朝日文庫(現行版は朝日選書)) [;^.^]。さすがに学生時代、下宿の自室にはテレビは無かったとはいえ、誰かの部屋で一部を視たような記憶はあるが、少なくとも書籍版は読んでいなかった..というわけで、この機会に通読してみた。

 1980年に書かれたものであるから、最新の宇宙論や研究成果が反映されていないのは当たり前で、そいうい箇所は(その意味では)古いといえば確かに古い。しかし、全体の印象としては、驚くほど古びていない。特に、科学史を語るパートは実に感動的で、これは今なお、いや、今後もずっと、読むにたえる(というか必読の)名著として残るであろう。

 上巻では2箇所、日本ネタが嬉しい。まず劈頭早々の36頁、人為選択の例としての「平家ガニ」。ちゃんと、平家物語のクライマックス(安徳天皇の入水シーン)から語りだされている。また85頁、占星術に対する洋の東西を問わぬ不信の例として、「徒然草」での記述に言及されている。その他、上巻では「ベリコフスキー(史上最大(かつ、ある意味では最高)のトンデモ本「衝突する宇宙」の著者)事件のよくない点は、彼の仮説が間違っているとか、確立された事実に反しているとかいうことではなく、科学者と自称する人たちが、ベリコフスキーの研究を抑圧しようとしたことだ」(162頁)、というくだりが印象的。まさに我が意を得たりである。

 下巻からも、抜き書きしておこう。

 「科学はイオニアで誕生した」(21頁)。

 「タレスの結論が正しかったかどうかは、あまり重要ではない。大切なのは、彼の考え方である。世界は神によって作られたものではなく、自然のなかの物質的な力によって作られた、という彼の考え方が重要なのだ」(23頁)。

 「商業を大切にする伝統がイオニアの科学を生んだけれども、その伝統は、奴隷経済をも生んだ。(中略)アテネの人たちの民主主義に関する大胆な話は、少数の特権階級の人たちだけにあてはまることだった」(46頁)。

 「「宇宙は知り得るものだ」とピタゴラスとプラトンは認識した。「自然には、数学的な基礎がある」と彼らは考えたが、これは、科学を大いに進歩させた。しかし、都合の悪い事実を抑えたり、「科学はわずかな上流階級の人たちだけのものにすべきだ」と考えたり、実験をきらったり、神秘主義を信じたり、奴隷社会を容易に受け入れたり、といったことで、彼らは、人類の大きな試みだった科学を後退させもした」(49頁)。

 「(テレビ放送が全宇宙に垂れ流されていて、今さら取り返しがつかない(電波に追いついて回収することなどできない)ことについて)ほかの惑星の文明人たちは、私たちのことをどう思うだろうか。(中略)いずれにしろ、このような番組を彼らが理解できないように、と私たちは希望しよう」(224頁)..だいじょぶだいじょぶ、地球的な価値観(良識)に宇宙的な普遍性などないってばさ。[;^.^][;^.^][;^.^]

 「プレスコットは、こう書いている。「子供たちを肉体的にかわいがり、結婚前の性交渉に寛大な社会が暴力的になる確率は2パーセントである。このような関係が偶然にみられる確率は125000分の1にすぎない。成長に関する要因のなかで、これほど高い信頼度で予言できるものを、私はほかには知らない」」(299頁)。

 「アレキサンドリア図書館の歴史を通じて、そこの有名な科学者や学者たちが、そのころの社会の政治的、経済的、宗教的な仮説に真剣に取り組んだ、という記録はどこにもない、ということだ。/星の不変性については研究されたが、奴隷制度が正しいかどうかは研究されなかった。当時、科学と学問とは、特権的な、少数の人たちだけのものだった。アレキサンドリアの数多くの人たちは、図書館のなかで、どのような偉大な発見がなされているかについて、露ほどの知識も持ち合わせていなかった。新しい発見は説明されることも、広く多くの人に知らされることもなかった。/(中略)/そして、ついに暴徒が図書館に焼き打ちをかける日がやってきた。そのとき、彼らを止める者は、だれもいなかった」(306頁)。

 ..というわけで、おおむね実に気分良く読み終えられたのだが..1箇所だけ、翻訳(というより、翻訳者(木村繁))をディスっておこう。上巻の196頁。カール・セーガンが少年の日々、E.R.バローズの「火星シリーズ」に熱中していたという(特にSFファンにとっては)感動的なくだりなのであるが..

 ..とっくの昔に、創元推理文庫版(小西宏訳)が出ていただろうに..どうして、それに訳語を合わせないのかなぁ..バースーム(小西訳ではバルスーム)、タース・ターカース(小西訳ではタルス・タルカス)もどうかと思うが、それよりなにより、「デジャ・トリス」って、誰?..あり得ない..もしかしたら原語の発音は木村訳に近いのかも知れないが、そんなことは「全く」関係ない。敢えて言い切ってしまうが、「原語の発音など、どうでもいい!」のである。「火星のプリンセス」の不滅のヒロインの名前は、ここ日本においては、未来永劫、「デジャー・ソリス」! それが、「翻訳文化」というものだ。

 木村繁がどういう人だか、よく知らないのだが..もちろん、SFなど読んだことはないのだろう。自分の翻訳書(「コスモス」)の著者(カール・セーガン)が熱狂的に読んだと語っている書物の邦訳を捜すどころか、おそらく調べもしていないあたり、「悪い意味で」学究肌の人なのかな..ま、これはこれで、「差別的な思い込み」かも知れませんけどね。

 先述したように、私が読んだのは(古い)朝日文庫版。もしかすると現行の朝日選書版では改訂されているのかも知れないが、そんなの調べている時間など、あるわけない。

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*2014年12月09日:BDメディアの不良?


 BDレコーダーで、某番組をBD−R DL(50G)にダビングしたあと、いつもの習慣で、最初から最後まで早送りしてみた..ひっかかった..その少し前から再生してみたら、途中からノイズが飛び、乱れ、再生が停止してしまった..BD−R DL(というか、BD系のメディア)では、初体験である。念のため、HDDに残っているオリジナルの録画を再生してみたら、なんの問題もない。(「ダビング10」が、初めて、ありがたいと思った [;^.^]。もちろん、ダビング回数の制限など無いほうがいいに決まっているにせよ。)

 メディアの不良だったのならばいいのだが、BDへの録画系の不良(つまり、録画ヘッド(とは言わんのかな [;^J^])の故障で、不良メディアを作りだしてしまった)だとイヤである。BDレコーダーを修理に出さなくてはならない。予備のレコーダーを持っていないので、修理期間中の録画ができない。(DVDレコーダー(RD−X5)は残してあるが、今さら、ハイビジョン画質の番組を標準画質で録画する気にはなれない..世間の多くの人々は、標準画質に不満を感じていないということは、存じ上げているんですけどね。[;^J^])

 念のため、同じメディアに再度録画してみる..(BD−Rなので、メディア上の同じエリアが使われることはない..)やはりダメ。(ダビング可能回数がさらにダウンカウントされて、「8」になった。ダビング10が、初めて(以下略。[;^.^]))そこで今度は、ワーキングのBD−REにダビングしてみた..OK。(あと7回まで。[;^.^])..というわけで、新品のBD−R DLを開封して、それにダビング。OK!

 どうやら、BD−R DLメディアの個体不良だったらしい。不幸中の幸い..というか、時間をロスした以外の実害は、ほぼ無かったのだが..しかし、こんなこともあるんだね。BDにダビングしたあと、必ず、早送り再生で確認するクセがついていて、良かった。(あなたもこの習慣、つけておく方がいいですよ。)しかし、それはそれとして、BDレコーダー本体もいつかは壊れるのだから、ピンチヒッターを手当てしておく必要はあるよなぁ..と、改めて気づかされた次第ではあった。

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*2014年12月10日:「紙つなげ!」


 とにかく忙しくて、ネタがない。先月読んだ本に、うまい具合に廃墟通信で言及し損なっていたので [;^.^]、今夜はこれでお茶を濁す。[;^J^]

 紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場」(佐々涼子、早川書房)である。早川書房の出版広告に載っていたときから気になっていた本なのだが..必読とまでは言わないが、大いにお薦めしたい。

 私は、電子楽器業界の人間でありながら、東日本大震災が発生するまで、東北が日本の半導体生産基地であることを、知らなかった。迂闊であった。そのあとの、半導体ユーザー業界(私の勤務先も含む)の苦境(と、それの克服)は、今なお、記憶に新しいが..実は、それだけではなかったのだ。東北は、日本の「紙」の生産基地でもあったのである。著者は、出版業界に身を置いていながら、そんな基本的なことも知らなかったことを恥じているが、私も、常々「電子書籍など読む気になれない、本は「紙」で読むのが一番!」などと、偉そうに標榜(ひょうぼう)していながら、そのことを「全く」知らなかったのである。恥じなければならない。とことん、恥じるに値する..

 「この工場が死ぬときは、日本の出版が倒れる時だ」とまで言われる、「日本の「紙」の主幹工場」があったのだ。それが、東日本大震災で、壊滅的なダメージを受けた..

 そこから、驚くほどの短期間で復活をとげたドキュメンタリーである。これに感動せずに、何に感動するのだ。とりわけ、「リーダーシップ」について、示唆するところ、大である。「目標が達成できるか否かはリーダー次第。リーダーが二年といえば二年。三年といえば三年。そして半年と言えば半年です。現場の話を物わかりよく聞いていたら、三年あっても復興工事なんて終わらない」(110頁)。

 無論、きれい事ばかりではない。あの大震災では、日本人の「忍耐」や「礼儀」が「内外で」賞讃されたものだが..もちろん、例外もたくさんあったのである。(それは当時から、一部で報道されていたことではあるが..)「金属バット」で、無人のコンビニやファミレスのドアを破る..規模こそ違え、世界各国の大災害現場で「必ず」発生する「略奪」と、どこが違うのか。我々日本人が(心の底では)蔑んでいる「アメリカ人や中国人やその他の国民の、略奪暴行行為」と..それも、分別のないガキどもや、(いわゆる)不良どもや、あるいは大人たちであっても自分の子どもには見られないように、こそこそとやるのなら、まだ良い(ことはないが)..「家族総出で」略奪・窃盗を行っている現場が、本書に書かれている..(正直、二度と読みたくない個所であるが、目を背けるわけにはいかない..)しかも、生活必需品(水や食料など)を盗みに来たのではない。(それなら、一概に否定できる行為ではない..)「ビール」を運びだしているのである。その「一家」の「家父長」は「ニタニタと笑いながら」..「こんな家系は(日本の未来に禍根を残ぬために)「断種」してしまえ!!」..と、思ってはいけないことを「本気で」思ってしまったことを、白状しておく..[;_ _][;_ _][;_ _]

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*2014年12月11日:「ピダハン」


 今夜もネタが無いよ! \[^O^]/ 今夜も、読書DBからのコピペだよ! \[^O^]/ 読書の時系列なんか、関係ないよ! \[^O^]/\[^O^]/\[^O^]/ ..[;^.^]

 ..というわけで、ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観」(Daniel L. Everett、屋代通子訳、みすず書房)である。随分以前に話題になった書籍なので、既にご存知の方も多かろう。

 本書は、いくつものレベルで読める。まず、アマゾン奥地の探検談であり、われわれ(という主語も実は曖昧で問題があるが)がおよそ想像もしなかった「世界認識」をしている民族(極めて人口が少なく、絶滅する可能性が低くない)の物語であり、その世界認識の前に、ある世界観(キリスト教)を失ってしまった宣教師の物語であり、そして何より、「言語理論」の本である。(「教科書」的な厳密なものではなく、一般人に対する「話題の提供」ぐらいのレベルではあるが。)この(相対的には)若い言語学者(にして宣教師..この本を書いている時点では、既に宗教を失っているが)が、チョムスキーの「普遍文法」に、徹底的に異を唱えている。「ピダハン」の言語は、「普遍文法」に対する反例であるとして..

 正直なところ、私は言語学には疎く、チョムスキーの「普遍文法」も、学生時代、「コンピューター言語」の講義の一環として、いわば「一般教養科目的」に教えられたに過ぎず(だからこそ、チョムスキーという名前はノスタルジーの対象でもあるのだが [;^J^])、現時点で、チョムスキーと、本書の著者と、どちらに分があるのかは、わからない(判断のしようがない)。

 というわけで、これ以上の論考は省略して(← 頭、使わんと、惚けが早く来るぞ [;^.^])、例によって、ポストイットしたところの抜き書きでお茶を濁しておこう。

 「最初の大きな驚きは、どうやら物を数えたり、計算したりしない、数がないらしいことだった。初めのうち、世界じゅうのいろいろな場所で見受けられるように、ピダハンには一、二、「たくさん」という数え方があると考えていた。だがやがて、わたしや前任者たちが数と思ったものがたんに相対的な量を示しているだけのものだとわかってくる」(167頁)。

 「人は、自分の夢の目撃者である。ピダハンにとって、夢は作りごとではない。目を覚ましているときに見える世界があり、寝ているときに見える世界があるが、どちらも現実の体験なのだ。/夢は、直接体験されたことだけを語るというイビピーオの法則からはずれていない。実際にはさらなる補強証拠でもある。夢と覚醒のどちらも直接的な体験として扱うことで、ピダハンは、わたしたちにとってはどう見ても空想や宗教の領域でしかない信仰や精霊という存在を、直接体験として扱うことができるわけだ」(186頁)。

 「数や勘定がないこともこれで説明されるだろう。数とか勘定とは、直接体験とは別次元の普遍化のための技能だからだ。数や計算は定義からして抽象的なものだ。対象を一般化して分類するのだから。だが抽象化は実体験を超え、体験の直接性という文化価値を侵すので、これは言語に現れることが禁じられるということだ」(187頁)。

 「ピダハンは仲間内では寛大で平和的だが、自分たちの土地から他者を追い出すとなると、暴力も辞さない」(209頁)。

 「追放はアマゾン地方では究極の刑罰だ。ここでは、身を守り、狩りや食料採取などに互いに協力し合うことが命綱なのである」(210頁)。

 「方向を知ろうとするとき、彼らは全員、わたしたちがやるように右手、左手など自分の体を使うのではなく、地形を用いるようだ」(301頁)。

 「着想のひとつめは、ピダハン語にはリカージョンが起こらないということだ。ふたつ目はリカージョンはさして重要ではないこと――どうやらある言語によってリカージョンを使って言えることはなんであれ、別の言語でリカージョンを使わなくとも言えるようなのである。言語学では長らくリカージョンがひじょうに重要であると考えられていた。だからこそわたしは、ピダハン語から得られる事例がどれもひじょうに重大なものになるだろうと考えた」(317頁)。

 「ピダハン語のすみずみに行きわたっている直接体験の原則(IEP)で、ピダハン語に文中文がない理由が説明できるのではないだろうか」(326頁)。

 「ピダハンは、新規な世界観を受け入れる市場ではなかった。人の手など借りずとも、自分のことは自分で守れるし、守りたい人々だ」(373頁)。

 「直接体験の原則とは、直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど無意味になるということだ。これでは、主として現存する人が誰もじかに目撃していない遠い過去の出来事を頼りに伝道をおこなう立場からすれば、ピダハンの人々は話が通じない相手になる。実証を要求されたら創世神話など成り立たない」(374頁)。

 「しかし同時にわたしは、科学者としての訓練も積んでいた。大事なのは実証であり、ピダハンがいまわたしに実証を求めているように、科学者としてのわたしなら、何らかの主張には実証を求めて当然だった。ピダハンが求める実証を、いまわたしは手にしていなかった。あるのはただ、自分の言葉、自分の感覚という補助的な傍証だけだった」(374頁)。

 「わたしが研究したアマゾン諸語には、いわゆる「赤ちゃん言葉」――幼い子どもを相手にするときの話し言葉が一切見られなかったという事実は興味深い。ピダハン語に赤ちゃん言葉がないのは、ピダハンの大人たちの、社会の構成員はすべて対等であり、子どもも大人と違った扱いを受けるべきではないという信念に基づいているようだ。全員が共同体に対して責任を負い、全員が共同体から世話される」(383頁)。

 ..キリスト教の伝道など不可能だということは、本書のプロローグの時点から自明だったが..[;^J^] しかし、この言語学者兼伝道師が(いわばピダハンに「負けて」)宗教を失い、その結果として、伝道師一家の家庭が崩壊したという結末は、痛ましい..

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*2014年12月12日:「漫画家超残酷物語 青春増補版」


 今夜もネタが無いよ! \[^O^]/ 今夜は漫画で行くよ! \[^O^]/

 ..というわけで、漫画家超残酷物語 青春増補版」(唐沢なをき、ビームコミックス)である。これ、超傑作。これ、超必読。いますぐポチれ。これ、命令。

 もちろん、「青春増補版」になる前のオリジナル版も(何年前のことだか忘れたが)買っていて、再読三読四読五読(きりがない..)を繰り返した超傑作であるが、未読の方は、この機会に増補版を、是非! この題材は著者の「おはこ」のひとつで、のちに、まんが極道シリーズ、まんが家総進撃シリーズへと描き続けられていくのだが、そんなにつきあえない、どれか1冊だけ、というのなら、やはり原点となる本書だ。もちろん、元ネタ(というかインスパイア元)である漫画家残酷物語」(永島慎二)を読むのが先だ、というのが筋論であるが、この漫画史上に燦然と輝く「聖典」を読むのは、あとからでもいい。

 「青春増補版」で追加されたのは、ラストの1篇、「夢をかなえたあと」。なんと言うこともない掌編と思われるかも知れないが..「遊びをせんとや生れけむ、遊びをせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」..日本人なら誰ひとり知らぬものとてない(とまで書くとさすがに言いすぎか [;^J^])、この「梁塵秘抄」中でも最も有名な歌が、単なる「童心の歌」ではない、身を切られるほど切なくやるせなく、そして、取り返しがつかないほど恐ろしい歌だ、と理解すれば(私は高校生時代に、古文の教師に、そのことを教えられた)、この「夢をかなえたあと」の本当の寂しさと、そして「美しさ」が、理解できよう..

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*2014年12月13日:可愛さ余って [;^.^]


 休日出勤 [;_ _]。まぁ、業務は無事に終わりました。

 ここ最近、NHKの土曜日夜の番組「伝えてピカッチ」が、面白い。なぜなら、女性チームのキャプテンの優木まおみが、不調だからである [;^J^]。たとえば今夜は、自チームの他のメンバーの(一種の)パントマイムを見て、それが何であるかを当てる、という問題で、和田アキ子が熱演したのが、他の全ての出演者(と、大多数の視聴者)には「フラメンコ」だと明確にわかったのに、それが出てこなかったり、あるいは、どうように、他のメンバーが「あるものをカタカナを使わずに言葉で描写している」ものは何かを当てるゲームで、「テーブル」とか「ジーンズ」とか、当てられなかったり、なかなかのポンコツぶりを晒しているからである。私の嗜虐性が、いたく満足させられるのである..ケケケケケッ!(← 結婚したことを、いまだに根に持っていますのでね。[;^.^])

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*2014年12月14日:浜響定演/ようやくコタツ


 快晴。9:30頃、車で起動。郵便局で年賀状を買ったのち、投票所へ。もちろん、どこに(誰に)投票したかは、書かない。ヒントだけ書いておくと、数十年前に選挙権を取得して以来の私の投票行動は、常に「消去法」であった。言い換えると「負の選択」である。たとえ「負」であっても、選択すらしないよりは、百万倍マシだ、というのが、私の考えである。別に押しつけるつもりはないし、この考え方の正当性(妥当性)を議論するつもりもないので、悪しからず。

 ブックオフで、いくらか処分。もちろん、焼け石に水である。電子書籍に完全移行してしまえば、こんな苦労もなくなるのだが..なんとも、味気ない話である。(← 皮肉でも反語でもない。本音である。)ついでに書いておくと、私は、「青空文庫」からダウンロードした「ドグラ・マグラ」(夢野久作)「黒死館殺人事件」(小栗虫太郎)を iPhone に常駐させており、たまに拾い読みしている。これは、「電子書籍の便利さとつまらなさを、常に把握し続けるため」の行為なのである。(屈折していると思う?)

 いったん帰宅し、11:30過ぎに今度は徒歩で出る。バスで街中へ。浜松駅ビル(的な)メイワン内の無印良品で、日用品や衣料の買い足し。1Fの土産物店で、帰省時に持参するお菓子を購入。昼食は、久々にアクトシティ地下の印度料理屋クマール。(格別に美味いとも思わなかったが、これは私が選んだランチメニューが外れ(というか、平凡=万人向け)だったからだろうか..)

 久々に、アクトシティ浜松 大ホールで、浜響の定期演奏会(第77回)。開場13:15、開演14:00。実のところホームページも確認せずに出向いたので、当日券を買うまで、曲目も知りませんでした。[;_ _][;^.^]

 指揮:柴田真郁、ピアノ:ケマル・ゲキチで、

グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 作品30
チャイコフスキー:交響曲第4番 へ短調 作品36

 ..アマチュアにはしんどい曲が並んでいるような気がするが [;^J^]。連日の疲労と、常用しているクスリ(カタカナで書くだけで、いい感じのニュアンスが漂いますな [^.^])の副作用で常にうっすらと眠く、演奏会中にときどき寝落ちしてしまったことは白状するが [;_ _]、十分、楽しめた [^J^]。ライブならではの傷(それは、プロのコンサートであっても、避けられないことだ..程度問題と「ごまかし方」の技術の差なのである)は勿論あったが、私は、あら探し的な聴き方はしない人ですのでね。(大雑把に聴いているとも言うが。[;_ _][;^J^])指定席2000円でこの水準のライブが聴けるのならば、プロだろうがアマチュアだろうが、全く、文句はない。

 アンコールは、(ピアノ協奏曲のあとに、ゲキチのソロで)「ハンガリアン・ラプソディ 第11番」(リスト)と、「「雪娘」より「メロドラマ」」(チャイコフスキー)。

 とにかく寒いので、駅前で遊んだりウィンドウショッピングしたりすることもせず(浜松の(駅前の)景気浮揚(あるいは「賑わい」)になんら寄与していないあたり、忸怩たる想いであるが [;_ _])バスで自宅へ直行。17:00、帰宅。

 コタツの周囲を片付け掃除し(逆に言うと、コタツの周囲以外は片付けも掃除もしなかったのだが、それは後日の課題として [;^.^])、コタツ布団を、ついにかけた [^.^]! 何という幸福感! [^.^]

 常々主張していることであるが、世界には2種類の国(文化)しかない。「コタツのある国(文化)」と、「コタツのない国(文化)」である。そして、「コタツのある国(文化)」は「幸福な国(文化)」と、「コタツのない国(文化)」は「幸福ではない国(文化)」と、読み替えることができるのである(..あなたが、突っ込みたくてうずうずしているのは知っているが、面倒だから受け付けない。[^.^][^.^][^.^][;^.^])

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Dec 18 2014
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