*2004年03月01日:眼を閉じて − 幻覚宇宙
*2004年03月02日:たまには仮病
*2004年03月03日:ギリシア・コンプレックス
*2004年03月04日:ただのオフ
*2004年03月05日:「魔人王ガロン」
*2004年03月06日:「オージンの子ら」
*2004年03月07日:「イノセンス」
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*2004年03月01日:眼を閉じて − 幻覚宇宙


 ネタが無いので、3年近く前に読んだ本の話でお茶を濁す。「幻想の地誌学 空想旅行文学渉猟」(谷川渥、ちくま学芸文庫)である。非常に面白いネタがいろいろ載っている本であるが、178頁の記述に目を剥き、思わず読書記録に抜き書きしていたのであった。花田清輝の言葉の引用である。


「眼を閉じ、頭を前に傾けて、網膜の中心に一粒の砂を思い浮べると、砂は片時も元のすがたのまま、じっとしているようなことはなく、たちまち礫となり、石となり、岩となり、峨々たる岩山となって聳えたつが、岩山はまた、一瞬にして微塵となってくだけ去り、しばらくちらちらと雨のようにふりつづけ、まるで二十年前の映画でもみているようだと思っていると、やがてこれが相い集って、泥となってながれはじめ、再転して粘土となり、ついにふたたび元の一粒の砂に還元する。ゲーテもまた、瞑目して、花や模様を想像していると、そのすがたが、まるでカレイドスコープのように変ってゆくのをみたというが、誰にきいてみても、私みたいに、砂の変形してゆくありさまを瞼の裏にあざやかにみることのできるひとはなく、まことに意外なことに、私にもゲーテ並みの、−−いや、ゲーテにもなかった独自の才能があるらしい。もしもかれが私のような才能をめぐまれていたなら、かれの心理にうつる、全地形質形成の基礎としてのこういう砂を、おそらく彼の原植物にならい、原砂とでも名づけたにちがいない」

 ..ゲーテどころか..これは、倉田わたるの(常習的な)体験に他ならない。そうか..他にも、これを「観ている」人は、やはり居たのだな..そしてどうやら、その人数は、少ないらしい..

 上記の花田清輝の文章の中には、2種類の「幻覚」が含まれていると思う。花田自身の、「砂 → 礫 → 石 → 岩 → 岩山 → 泥 → 粘土 → 砂」、という幻覚と、ゲーテの、より具象的な事物のメタモルフォーゼの幻覚と。

 そして私は、この両者とも、「日常的に観ている」のである。(それにしても、花田清輝の描写力の物凄いこと! 私の文章力の水準から隔絶しすぎていて、声もでない。)

 前者に初めて気がついた時期は、恐ろしく古い。幼稚園..あるいはそれ以前?..とにかく、ほとんど「私の最初の記憶」に近いのだ。眼を閉じる。色彩は感じないのだが、感じないながらも「赤で縁取られた緑色のように感じる微小な円(あるいは球)」が、群れをなして、無数に回転し、蠢いている。個々の円(球)の大きさはそれほど変化しないが、その「群れ」の大きさと形状は極めて不安定で、それは極小宇宙の(ミクロコスモスの)中の「星状生命体」、「星雲状生命体」、あるいは「島宇宙状生命体」を、強く想起させる。物心ついたかつかないかぐらいの年齢の私が、そのような高度に複雑な概念に至ったはずはないのだが..しかし、「これは一体、なんなのだろう?」、という想いを、毎晩フトンの中で抱いていたことは、確実である。

 もうひとつの、「具象的な事物のメタモルフォーゼの幻覚」。これに初めて気がついたのは..高校生時分だろうか? 眼を閉じると、視界の真ん中あたりに、ある不定形の「天体」が出現する。それは、片時も止まっていることはなく、絶えず蠢き回転し続け..そして回転しながら、変形し続けるのである。そしてその変形というのが、まさに奇想天外な、幻想的な、超現実的なものであり、変形していくフォルムの連結に、全く意味を見いだせないのである。

 リンカーンの横顔 → 人工衛星 → 裸の男たちの組合せ → 帆船 → 靴 → 男のにやけた表情 → 宇宙空港 → アイロン → ..いやいや、どこまで書きつづっていっても、同じことだ [;^J^]。そして、個々のイメージが見えている時間は、高々1〜2秒。まことにせわしない、眼球の中の劇場ではあるのだ..

 ..ということで、私・倉田わたるは、花田清輝やゲーテと(ある意味において)同クラスの人間なのである、と、認識を改めておいていただきたい。[^.^]b

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*2004年03月02日:たまには仮病


 以前、「口唇の災厄」として紹介した、私の唇の周囲の「荒れ」であるが..最近もまた、難儀している。かれこれ2週間以上になるであろうか。いったん収まりかけたあと、再発というか再悪化して、現在、2ターン目の終わり頃である..ったく、もう..[;-_-]

 今が大切な時期である。とにかく、口を開けないこと。間違っても、ピザやハンバーガーや(分厚い)サンドイッチのような、大口を開けなければならないようなものを食べないこと。出来れば会話も控えること..

 ..という時期なのに、なぜに今日は、歯医者の予約日なのですか? [;_ _](答え:1週間前の時点では、もう今頃にはとっくに口唇問題は収まっているだろう、と予測していたから。)当たり前だが、歯医者では口を大きく開けなくてはならない。しかし大きく開けると口唇は確実に悪化して、完治までにさらに1週間(以上)かかるであろう..

 ..というような事情を、歯医者に説明するのは面倒である..というわけで、風邪を引いたので今日は通院できません、と、歯医者に電話。「大変ですね、お大事に」「..はい [;_ _]」..

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*2004年03月03日:ギリシア・コンプレックス


 今月号の「レコード芸術」誌に、面白い記事が載っていた。西洋人の「ギリシア・コンプレックス」についてのエッセイである。(82頁)

 要するに西洋人は、西洋文明の母体としての(古代)ギリシアに畏敬の念を感じているわけであって、それはまことに当然の心情ではあるのだが、面白いのは、現在のギリシア(あるいはギリシア文化)は、「西洋文明の母」としての「古代ギリシア文化」とは、もはやほとんど全く関係ない、という事実である。


「発祥の地としてのギリシア」とはまるきり異なった実質を持っていたとしても、ヨーロッパ世界は“ギリシア”と名の付く国と地域を、自分たちの文明の祖に連なるものとして尊重しなければならなかった。

だから「古代ギリシアへ還れ!」というスローガンに西洋人たちは弱い。そこから生まれたものが優れていると、どうしても批判しづらい状況に陥ってしまう。

 その意味で、西洋人が「ギリシア」を見る視線(想い)と、日本人が「奈良・京都・出雲(等)」を見る視線(想い)とは、全く異なるのだろう。「奈良・京都・出雲(等)」は「現代日本」の源流(のひとつ)であり、かつ、「源流だった時代」と「現代」を通じて、その文化は連続していると言えるのだから。

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*2004年03月04日:ただのオフ


 今日の午後から夜にかけて、東京の「めぐろパーシモン小ホール」で、ちょいと洒落た(ニフのFCLA系の)オフが開催される。名付けて「ただのオフ」[;^J^]。ニフの(一連の「お気楽オフ」シリーズを主催されている)Mさんが企画したオフで..なかなか結構な広壮な会場に、数名ないし高々十数名が集まって、持ち寄った楽譜を適当に弾いたり、ネタが無ければ読書するとかゲームするとか仕事でもする [;^.^] とか、とにかく夜までそこで時間を潰す、という「オフ」である。[;^J^]

 もともとこんなオフ [;^J^] をしようと、積極的にプランニングしていたわけではなく、演奏会を開催するためにこの会場をレンタルしていたのだが、諸般の事情によってそれがポシャり、かつ、会場をキャンセルすることが(時期的に)不可能であったのだろう、と、推察する。でもって、急な話なので、まとまった「演奏オフ」を企画している余裕などないが、とにかく、その会場を(もったいないので [;^J^])使おう、という..そしてまた、急な話なので数十人も集まるわけがなく、ごくごく少人数で、だだっぴろい会場を堪能しよう、という..[;^J^]


広い会場(夏オフも出来そうな会場(^^;)、楽屋3室付き)を相手に、
女声3重唱ネタ、トランペットアンサンブルネタ、カラオケ演奏、その他、
音楽でも掛けたまま、ダラダラとその場所で一日を過ごす
そのために、漫画でも持ち込むとか(^^;)、仕事をしつつ とかのオフ?(^^;)

という位にいい加減の極致を極めようと思っています(^^;)。

...

ここまで来ると、お城の宮殿で遊ぶような気分です(^^;)

エントランスだけでも遊べそうな空間なのに、楽屋まであって(^^;)

ってことで、会場まで来て、人に干渉されずにいられるところもたくさん
ありますし、図書館とかも併設されています(^^;)

 ..いいなぁ、いいなぁ、ぼく、これに行きたいなぁ! こういう場所で、無為な時間を過ごしたいなぁ、贅沢したいなぁ!..

 ..しかしさすがの私も、ただこれだけのために(この豪遊のためだけに)、有休取って、往復1万5千円かけることはできないのであった..ダメだね。全然、ダメだ。まだまだ青いよ、甘過ぎるよ。「大あくびひとつしてくる」ためだけに東京から九州まで往復旅行する内田百けん先生の、足元にも及ばないね..

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*2004年03月05日:「魔人王ガロン」


 手塚治虫マガジンの広告によると、5月号から、「魔神王ガロン」(永井豪)の連載がスタートする!

 もちろん原作は、手塚治虫の「魔神ガロン」である。このパターンでは、最近では、「ビッグコミックオリジナル」誌で連載中の「PLUTO」(原作:手塚治虫、漫画:浦沢直樹、監修:手塚眞)が、非常に素晴らしい結果を出しつつあるので、大いに期待したいところである。漫画家と作品(原作)の組合せも、なかなか良いと思う。

 何故、「魔神ガロン」ではなく「魔神王ガロン」なのか、という疑問を抱く人もいるようですが..これは考えるまでもありませんね。「魔神ガロン」では、「マジンガー・ロン」になってしまいますからね..

 ..だから、引くなってば。[;^.^]

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*2004年03月06日:「オージンの子ら」


 先日、古書店からのカタログで見つけて発注しておいた「オージンの子ら」(P.コラム、尾崎義訳、岩波少年文庫)が届いたので、早速読了。

 タイトルとシリーズ名から明らかなように、北欧神話のエピソード集のジュヴナイル・バージョンで、昭和30年発行の、古い本である。

 なぜ“今さら”こんなものを発注したのか、というと..この書名に記憶があるからであった。小学生時代に愛読し、小学校を卒業するに際して「学級文庫」に寄付してきた「小さな本」が、確かこの書名ではなかったか、と、思い出したからだ。

 記憶に誤りは無かった。これだ、これだった! ..良書だとは思うが、私は本書に関しては公平な論評ができない(ノスタルジーで目が曇っている)ので、皆さんは、適当に良書を探して、(エッセンスだけで良いから)北欧神話に触れておかれることを、強くお薦めする。実際問題、(とうの昔に判っていたこととは言え)今さらながら、「ニーベルングの指環」や「指輪物語」は、この「原型」を見事に“換骨奪胎”していることに、気付かされるのである。

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*2004年03月07日:「イノセンス」


 休日出勤。今日の午後には浜響の定期演奏会があったはずで、当日券で聴きに行こうかと思っていたのだが、パスである。仕方が無い。

 仕事を終えて、夜になってから街中へ。バージンシネマ(トーホーシネマに改名されたんだっけ?)で、「イノセンス」(押井守監督作品)を観る。もともと私は、これの原作(というか原案)である「攻殻機動隊」(士郎正宗)という漫画が、とりわけ好きでも嫌いでもない。そして、押井監督の前作である「攻殻機動隊」を、観ていない。つまり、極めてニュートラルな立ち位置から「イノセンス」を観ることになったわけだが..

 ほっほー..これはなかなか素晴らしい! このビジュアルの美しさ! 不勉強にして知らなかったが、現代日本のアニメの技術水準は、ここまで到達していたのか..

 驚くのは、「立体的」なCG(主として背景・小道具・大道具)と、「平面的」なセルアニメ?(主として人物)の違和感が、ほとんど無いことである。何もかも全部立体的なCGにすると、ニモみたいになるわけで、私はあれはあれでアニメの未来像でも(進化の)袋小路でもあろう、と、思っているわけなのだが、この作品は、その立場を取っていない。伝統(過去)と新技術(未来)が、見事に調和している。

 前半では、まさにブレードランナー的風景が展開されており、しかもブレードランナーに勝っていると言えるのだが、あぁ、このコンセプトで押し進めるのか..と、納得して観ていたら、中盤に現れる「北端」の風景で仰天してしまった。この幻視力は凄い。そしてそれに続く、なんとも禍々しい祭礼のスペクタクル..

 この作品の「絵」の美しさに比べると、物語はごく単純なものである。ここは考え方次第だ。「惜しいな、これで(世界観の逆転が仕掛けられる等)物語もカッ飛んでいたら、空前の傑作になり得ただろうに」、というのも事実。「いやいや、物語がシンプルだからこそ、このビジュアルに心ゆくまでひたることができるのさ」、というのも正論。

 「人形」がテーマ。こりゃどう見てもベルメールでしょ、と思っていたら、案の定、ベルメールの「人形」写真集が、ずばり登場しているし。エピグラフはリラダンの「未来のイヴ」だし。物語はシンプルだ、と述べたが、「人形」と「人間」と「魂」の問題に切り込んでいるテーマ性は、けっして軽くはない。そういう観点からの見応えも、確実にある。

 ..それにしても、口数の多い映画だ [;^J^]。どいつもこいつも、詩文を引用しすぎ [;^J^]。結構、難解な(というより、その場面においてその詩句が何故当てはまるのか、直感的に明らかでない)引用も多々あるので、子どもが観ても、ついて行けないのでは..まぁ、そういう個所では、セリフを無視して絵を観てればいいんだけどね [;^J^]。そしてまた、この膨大な引用群は、登場人物たちの「博識性」をなんら担保していない、というのが面白い。彼らはただ、「検索結果をアウトプットしているだけ」なのである。

 私は、まさにここが面白かった。これって..ぼくらじゃん [;^J^]。我々は、華麗な引用を散りばめた文章を、いくらでも量産できる。覚えていないどころか、一度も読んだことも聞いたことも無い詩文や警句を、いくらでも引用できる。ちょちょいのちょいで、ネットからいくらでも検索できるからだ。(そしてこういうことを繰り返していると、そういう詩句や文章を、全く覚えられなくなってしまう。辞書を引く癖がつきすぎると漢字を忘れるようになるのと、原因は同じ。要するに、大脳がさぼることを覚えてしまうのだ。)その意味でも、まさに現代的な映画であると言えるのである。一見の価値有り。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Mar 10 2004 
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