*2001年01月01日:新世紀早々、だらけてしまう
*2001年01月02日:さらにだらける
*2001年01月03日:どんどんだらける
*2001年01月04日:クラーク、老いたり/新春秋葉オフ
*2001年01月05日:日比谷図書館/新春の集い
*2001年01月06日:国会図書館・図書閲覧課別室
*2001年01月07日:似非評論家たち
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*2001年01月01日:新世紀早々、だらけてしまう


 夢の21世紀である!

 例年どおり、ばかばかしいほどの好天。取りあえず、朝から酒だ。(といっても、実家では控えることにしているので、正常通常量の十分の一ぐらいしか、飲まない。)

 TVで、ニューイヤーコンサート。今年はアーノンクールの指揮である。(ご存知無い人のために、説明しておく。「ニューイヤーコンサート」とは、ウィーン・フィルの新年の定例のコンサートのことで、世界各国に生中継されている。プログラムは、ヨハン・シュトラウスII世をはじめとする、シュトラウス一族のワルツ・ポルカが中心で、最後は必ず、「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」で終わる。)この、ギョロメの学究派と「ニューイヤーコンサート」の享楽性のミスマッチぶりに期待していたのだが..あにはからんや、特に尖ったところも無い、新年新年した演奏会であった。

 もっとも、番組の終わりに、このコンサートの前半の一部が(時間つなぎに)放映されたのだが、(日本における「ニューイヤーコンサート」の実況生中継は、実はコンサートの「第2部」のみであり、第1部が、これの前にあるのである、)それが、「ラデツキー行進曲 原典版」(の、最初の数分間)であった。なるほど、アーノンクールは、こういうところで、しっかりと自己のレゾンデートルを主張していたわけだ。実に“実用的”で“ブラスバンド的”な、行進曲行進曲したバージョンであった。これは(抜粋ではなく)全曲聴きたかったな..(どうせ今月中に、この日のライヴを収めたCDが出るに決まっているので、別に、心配することは無いのだが。)

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*2001年01月02日:さらにだらける


 今日も好天。日記をざっとチェックした限りでは、(天候について触れていない年もしばしばあるので、断言できないのだが、)ここ10年ほど、横浜地方においては、ほとんど毎年、正月はバカみたいな好天なのである。まぁ、めでたいことだ。

 国会図書館に収蔵されている手塚治虫の単行本を、(マンガに限らず)“全て”チェックすることにしたので、そのための事前準備。(国会図書館のウェブページで、請求記号を確認したり、既読のものは調査リストから外したり。)

 TVで、マジック大会。ポルトガル(スペインだったっけ?)のどこかの都市で、世界各国のマジシャンが集まって、妙技を競い合っているのである。

 「一般的なマジック」「手先の器用さを競うマジック」「観客とのコミュニケーションを主体とするマジック」「コメディ・マジック」など、色々なクラスがあるのが面白い。特に興味を惹かれたのは、「革新的なマジック」部門があることであった。

 言うまでもないことだが、「本格ミステリ」と同じで、この期に及んで“独創的”なトリックなど、そうそう思いつける筈が無いのだ。少なくともマジック愛好家であれば、「美女の鋸引き」のトリックも、「箱抜け」のトリックも、知っているのである。その上で、“演出”の妙味を楽しんでいるのだ。

 「革新的なマジック」部門のグランプリを取ったのは、いわゆる「箱抜け」(というか、「箱」の中に閉じこめられた人間と「箱」の外の人間が、一瞬で入れ替わる芸)であるが..この「箱」の作り方が、確かに「見たこともない」ものであった。ネタバラシになりかねないので、ぼかして書くが、確かに、これでは、「仕掛け」を作り込めない。だからこそ、審査員たち(恐らく、各国の一流のマジシャン)が、感服したのであろう。

 キャスターは、クボジュンと赤川次郎。男の方はどうでもいいとして、クボジュンは、例によって絶妙のボケ具合であった。(ちなみに、浜松駅前の「天狗」を昨秋辞めたSさんが、実にクボジュン似であった。容貌もそうだが、むしろその雰囲気が。)

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*2001年01月03日:どんどんだらける


 三が日は何もせずに無為に過ごすのが、正しい日本の正月である。今日も好天。今日もダラダラ。

 TVで、ニューイヤーオペラコンサート。これは、日本(NHKホール)での催しである。オペラファンの投票でアリアのベストテンを選出しているのが、面白い。メモを取らなかったので、順位も曲名もあやふやなのだが、言うまでもなく、ほとんど全てプッチーニかヴェルディの作品であり、非イタリア勢でランクインしたのは、「ハバネラ」(「カルメン」ビゼー(仏))と「夜の女王の復讐のアリア」(「魔笛」モーツァルト(墺))の2曲のみ。

 第一位は..やはり、「ある晴れた日に」(「蝶々夫人」プッチーニ(伊))であった。

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*2001年01月04日:クラーク、老いたり/新春秋葉オフ


 朝日新聞の朝刊に、「2001年 未来へ託す予言 アーサー・C・クラーク氏 かく語りき」というインタビュー記事が掲載されていたが..

 ..なんと痛ましい..[;-_-]

 「宇宙進出が人類を救う」「宇宙に出なければ人類の未来はない」、という思想(信念)は、尊く、美しく、傾聴しなければならない。その価値と重みは、少しも減じてはいない。しかし..

 「新エネルギーが発見され、石油時代は終わるだろう」「低温の核反応に希望を持っている。ほとんどの人がばかげていると思っているけれど、日本もふくめて多くの人が研究している」「(新エネルギーについて)超過エネルギーと呼ぼう。たぶん常温核融合とは違うものだ」「真空に秘められたエネルギー」「物理の外縁部で何か奇妙なことがおきている」..

 ..噂には聞いていたが、もはやほとんど“トンデモ”の世界に迷い込んでしまった、と、判断せざるを得ない。無論、長時間に及んだであろうインタビューを短く圧縮した段階で、重要な情報が多数欠落しているはずなので、断言すべきでは無いのだろうが..クラーク、老いたり..

 FCLAの、伝統ある新春秋葉オフ。集合場所と時刻は、ワシントンホテルのロビーに13時。例によって、少し早めに行って、ロビーの隣りの喫茶店でミルクティーで時間を潰す。

 集まったのは、E、R、A、N、K、B、の各氏に私を加えて、計7名。CD等ソフト系を中心に、モバイル機器系、PCパーツ系に、オーディオ系も若干混ぜた徘徊経路は、おおむね、LAOXデジタル館 → 石丸3号店 → あぷあぷ2 → 石丸本店 → 石丸ソフトワン → TZONE PC DIY SHOP → コムサテライト3号店 → (いつもの古炉奈が満員で入れなかったので)ワシントンホテルの(私が時間を潰していた)喫茶店、といったところ。

 私の戦果は、「ビデオカード(8980円)」「SFX 150W電源(5280円)」「CPUクーラー(7800円)」(以上、業務用)「PC133SDRAM128M(4940円)×2」「日本語89キーボード(5380円)」「DVD(ミュンシュ/シカゴ響)」(以上、個人用)、であった。

 最後の喫茶店では、モバイル系の話題、FCLAオフデビュー(正確には、昨日の鎌倉でのオフでデビュー)のEさんの職業についての話題など。(ちょっと風変わりな仕事で、ややびっくりしました。[;^J^])

 帰宅してから、TVを観ていたら、2001年系の番組で、クラークがインタビューされていた。朝刊の件があったので、ヒヤヒヤしながら観ていたのだが、割と無難に受け答えしていたようである。[;_ _][;^.^]

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*2001年01月05日:日比谷図書館/新春の集い


 今日はまず、日比谷図書館。手塚治虫の初出誌のうち、国会図書館にも現代マンガ図書館にも大宅壮一文庫にも都立中央図書館にも多摩図書館にも無いが、ここにはあることが(ウェブで検索した結果)明らかになっている奴を、フルスピードで閲覧する。(後述する事情により、昼前には退出せずばならず、10時開館なので、2時間もいられないのだ。)

 時間との戦いだったが、それでも、「日比谷物件」は、8〜9割りがた片づいた。例えば、「トキワ荘青春日記」(光文社)と「絵本ファーブル昆虫記 第3巻」(コーキ出版)は、いずれもカバー付きで収蔵されており、カバーに掲載されている手塚治虫の推薦文を、読むことが出来た。これらは、国会図書館にはカバー無しで収蔵されているのである。(後者については、国会図書館にもカバー付きで収められていた筈..と記憶するが、このあたりは、公開日記に書くには、あまりに微にいり細をうがった考察になるので、省略する。)

 「杉浦茂ワンダーランド 別巻」(ペップ出版)と「藤子不二雄ランド Vol.1 海の王子 第1巻」(中央公論社)は、いずれも国会図書館に収蔵されておらず、これらに掲載されている文章を読むことが出来た。

 しかし実は、一番嬉しい収穫があったのは、手塚治虫ではなく、吾妻ひでお関係の調査である。「ノラ犬野郎」の初出誌(「中学三年コース」の、1974/04 から 1974/09 まで連載)を、ようやく、読めたのだ。

 12時少し前に切り上げて、地下鉄霞ヶ関駅から横浜市営地下鉄の三ツ沢下町駅へ。駅前の「S・S」という店に、約束の13時に遅れること1分少々で到着。M先生、T君らと、新年会。(計8名。)

 中学時代の仲間であって、大体、1〜2年に一度くらい、顔を合わせている連中である。従って、M先生を除いて、皆、同い年(1958度年生まれ)なのであるが、いまだに28歳で通用する私は別格として、T君も、十分、30代で通用することを再認識した。

 自宅まで、M先生の車で送っていただく。

 TVで、(「ジュラシックパーク」の続編の)「ロストワールド」。色々と作りが“ゆるい”映画なのだが、観ればそこそこ面白くないことはないので、ついつい最後まで観てしまったが..しかし、冷静に考えると、相当酷いぜ、これは [;^J^]。

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*2001年01月06日:国会図書館・図書閲覧課別室


 今日は、国会図書館。

 未見の初出誌(あるいは単行本)は、まだ1000件弱残っているのだが、これらのうち、国会図書館に収蔵されていることが確認されているものは、もう、残り少なくなってきた。(「多分、収蔵されているのだろうが、データが曖昧すぎてアプローチ出来ないもの」は、非常に多数ある。)

 さて、問題は、「マンガ単行本」である。従来、これを国会図書館で閲覧する、という発想が、基本的に無かった。

 理由の第一は、特に、この大調査を開始した時点では、「マンガ単行本」に対する認識が弱かった(「マンガ単行本」の、まえがき/あとがき/カバー折り返しの短文、等を、リストに加えるつもりが、毛頭無かった)ことである。第二は、そもそも国会図書館は、「マンガ単行本」を、組織的(網羅的)に収蔵しておらず、そのコレクションがまるで中途半端であって、絨毯爆撃(あるいはローラー作戦)的な調査の対象としては、あまりに貧相である、ということ。三番目に、特にTさん宅で、ある程度まとまったコレクションを読むことが出来る(出来た)ということ。

 とはいえ、Tさんがコレクションに加えていないマンガ単行本も多数あることだし、貧相でも歯抜けでも構わないから、とにかく、国会図書館で読めるだけのものは読もう!、と、方針を変えたのが、昨年末。国会図書館絨毯爆撃用に作業リストを整え終えたのが、3日前。

 ..本日、最大の衝撃は、「図書閲覧課別室(という名称だったと思うが)」の閲覧制限である。

 ここは主として「児童書」(要するに、マンガ単行本と絵本)を取り扱う部屋であり、これらを閲覧するときは、この部屋の外に持ち出すことが出来ないのである。(少しややこしいのだが、全てのマンガ単行本が、図書閲覧課別室送り、というわけではない。ハードカバーの、しかも「全集」「選集」といった類は、一般図書カウンターで出納請求できる。但しこれらでも、ケースがついていたり、複数に分冊されているものは、図書閲覧課別室で読むことになる。要は、散逸しやすい物件ですな。)

 このこと自体は、別に不便でも無いのだが..実は「図書閲覧課別室」で一日に閲覧できる冊数に、制限がかかっていたことを、すっかり忘れていた(というか、甘くみていた)のであった。それは、従来、絵本とマンガ単行本の調査を、国会図書館で組織的(絨毯爆撃的)には行っていなかったからであり、たまに閲覧するとしても、一日に高々数冊だったからだ。

 絨毯爆撃を開始するにあたって、図書閲覧課別室の担当者に、「確か閲覧数の制限があったはずですが..」と、確認したら、「請求票15枚、20冊まで」とのこと。「参ったな..」、と頭をかきつつも、この時点でも、なお、私は誤解していた。「請求票1枚につき、上限が20冊」、ということかと。

 説明しよう! 同じ作品が「上・中・下」「第1巻〜第n巻」、と複数冊に分かれたり、「手塚治虫漫画選集 全7巻」などというケースでは、これらには、同じ記号が与えられ、1枚の請求票で一度に複数冊、請求することができる。(一般図書の場合、同時に2冊まで。)なので、請求票各々について、最大20冊まで、ということかと思ったのだが..

 そうではなく、「全部合わせて、1日に20冊まで」、ということなのであった! 例えば、コダマプレスの「手塚治虫全集 全40巻」を、1日で読むことは出来ない。請求票1枚に「第1巻〜第20巻」と書いて出納請求したら、その日はそれで終わりなのである。

 「こんなことを訊くのもなんですが..いったん退館・再入館して、さらに20冊読むことは出来ますか? [;^J^]」、と、ダメモトで訊くだけ訊いたが..やはりダメ。[;_ _](「再入館時に、変装していてもだめでしょうか?」、とは、訊かなかったが。[;^.^])

 国会図書館で読むべき(手塚治虫の、未読の、しかもTさん宅に無い(筈の))マンガ単行本として、306冊、リストアップしておいたのであった。306÷20=15、余り6。小学生でも出来る計算だ。つまり、この私に(今日を除いて)あと15日通えと!?

 しかし困ったな。国会図書館に、あと15回も通わなくてはならない(1年はかかる)、というのは、全く、本意ではない。他の図書館で、どれだけカバー出来るか..日比谷図書館には、漫画雑誌は結構あるのだが、単行本は、どのくらいあったかな。そういう目では、検索してなかったな..

 ..現代マンガ図書館のことを、忘れていた! 忘れていた理由は、「マンガ単行本も調べる」方針に切り替えたのが、現代マンガ図書館における初出誌(雑誌)調査がネタ切れとなり(つまり、読めるだけ読み尽くし)、自然、この図書館を訪問する機会が少なくなってから以降のことだったからである。

 ここには、かなりの量、収蔵されているはずだ。国会図書館にある(残り)306冊のうち、どれだけをここでカバー出来るかは不明だが..

 先日の秋葉オフで買い忘れていたものがあったので、国会図書館がひけてから、秋葉に回る。

 しかし、ジャンク屋で漁っていると..「この電源、安いな。使えるかも」「このSCSIカード、安いな。動くかも」「このケーブル、ただ同然だな。まとめ買いしておくか」..

 ..所詮、そういう血か..

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*2001年01月07日:似非評論家たち


 クラシックの演奏会評やCD評を読んでいて、非常にイライラするのは..それは、口先(指先)だけの、カッコつけただけの言辞である。典型的に使い回される単語が「内面性」と「意味」で、いくつか用例をあげると、「内面性に欠ける」「内面的な」「意味深い」「無意味な」等々。特に最後の用例は(何故か)「交通整理」と結合しやすく、「交通整理が行き届いているだけの、無意味な演奏」、という言い回しになることが、極めて多い。

 なんと“無意味な”言葉たちだろう! “音楽”のコンテクストにおいて、これらの言葉(「内面性」や「意味」)は定義されておらず、従って、いかようにも適用できる。早い話が、どのような演奏であっても、「内面性に欠ける」とも「内面的な」とも「意味深い」とも「無意味な」とも、表現できるのである。これらの形容詞を使う人間が、その時々において、恣意的に定義すれば良いからだ。

 とはいえ、プロの評論家(レビュワー)たちが、これらの言葉を十年一日のごとく使い回し続けているのは、ある意味、同情できないことは無いのだ。

 彼らは、食わねばならない。締め切りまでに、一文、ものしなければならないというのに、(その演奏にたいして)特に語るべきこと(特筆すべきこと)も無く、賛成でも反対でもなく、しかも、正直にそう書いてしまっては自分の沽券に関わる(その演奏に対して、旗色を鮮明にすべきである)と思われる時、あるいは、仮に言うべきことがあるとしても、それを表現する語彙を持ち合わせていない時、「内面性に欠ける」「内面的な」「意味深い」「無意味な」等々と、書くのではあるまいか。

 「こんな“無意味な”文章を(言葉を)売って、それでもプロの文筆業者か!」と、きびしく問うのが筋かも知れないが、これは許容すべき範囲だと思う..というか、別に私などがわざわざ厳しく指弾するまでもなく、こんな“プロ”の行く末は、知れたものである。

 だから、(逆説的だが)プロならば許せるのだ。腹が立つのは、アマチュアが、パソコン通信の会議室や、ウェブページの掲示板等々で、これらの真似をしていることなのである。

 締め切りも、義務も(、そして“義理”も)無いのが、アマチュアの特権であり、プロに対する、重要なアドバンテージである。プロには(これらの制約条件故に)絶対に書くことが出来ないような高品質の文章を、アマチュアならば、書くことが出来るのである。

 それなのに、「内面性に欠ける」「内面的な」「意味深い」「無意味な」、と来たもんだ。プロの真似をして、カッコつけてるだけではないか。(特に、「内面性に欠ける」と「無意味な演奏」は、なんとなく気に入らない演奏(というか奏者)を貶したいのだが、その根拠を明示出来ない時に、便利に使われているようである。)

 そもそも、音楽は“テレパシー芸術”などではなく、“音響芸術”であり、それは“物理現象”に他ならないのである。トスカニーニとフルトヴェングラー、バーンスタインとカラヤン、ブーレーズとカルロス・クライバー、アッバードとガーディナーの違いは、全て、単なる“音響現象”の違いであり、それ以上でも、それ以下でも無いのである。

 だから、もっと具体的に表現/批評できるはずなのだ。「内面性」や「意味」などの出る幕では無い。なのに、それ(具体的な表現/批評)をしない(できない)ということは、実は、その演奏にたいして特に語るべき、なにものをも持っていない(、または、他の演奏と区別できなかった)ことの証拠ではないか。

 一例をあげよう。バーンスタインの最晩年の録音のひとつである、シベリウスの交響曲第2番。その第2楽章。

 この曲を知らない人のために、大雑把に説明しよう。その出だしは、遅くて、暗い音楽である。低音弦楽器群が、ピッチカートで、呟くように(メロディアスな)リズムを刻みだし、その上に、極めて緩やかな、静かで暗いメロディーが被さってくる。(この低音弦楽器群のピッチカートは、いわゆる「ウォーキングベース」を、暗く、遅く、静かにしたようなものである。)

 さて、“普通”の演奏では、このピッチカートは、比較的あっさりと演奏される。少なくとも、一音一音が、比較的均一な表情で刻まれて、流れて行く。ところが、バーンスタインは、ここで、ほとんど“異常な”演奏を行ったのである。

 名前は失念したが、とあるレビュワーが、それを極めて明確に表現してみせたのだった。「一音一音、全て別々のデュナーミク(強さ)と奏法で弾いている!」、と。

 無論、誇張なのだが、まさに、音が目に見えるような(耳に聴こえるような)、鮮やかな表現である。バーンスタインが“何をやらかした”のか、はっきりと判る。「それなら、是非聴いてみたい!」、あるいは、「そんなゲテモノ聴けるかバカヤロ!」、と、確実に反応できる。

 そして..例によって例のごとく、この演奏を「極めて内面性の強い」云々と評していたレビュー記事も、案の定、存在していたと記憶する。“内容豊かな”前記の記事と、“無意味な”後者の記事の、なんたる隔絶!

 例によって、自戒する。私も、面倒な時には、(プロでも無いのに)「内面的な」「無意味な」等々と、やらかしているのかも知れない。(怖くて、これまでの書き込みのログを読み返せない [;^J^]。)これらの“無意味な”言辞を弄するのは、プロの特権なのである。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jan 10 2001 
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