*2000年11月20日:三連荘の手塚調査、第三日
*2000年11月21日:ある欠席
*2000年11月22日:ある紙幣
*2000年11月23日:「中世の秋」
*2000年11月24日:冨田勲を廻って
*2000年11月25日:Becky! 2.00
*2000年11月26日:「逆転世界」
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*2000年11月20日:三連荘の手塚調査、第三日


 ということで、三日目である。実家前のバス停を8:11に発つバスに乗ると、八幡山の大宅壮一文庫に、開館時刻(10:00)直後に着く。

 事前にFAXで、所蔵されていることを確認しておいた50冊を、バリバリチェックする。(会員ではない、フリの客は、一日に50冊までしか閲覧することが出来ない。)


ひょうたん駒子::68:平凡:57/09,57/10,57/11,57/12,58/01,58/02,58/03,58/04,58/05,58/06,58/07,58/08:84

 ..を、チェック出来たのが、大きな収穫。(国会図書館には、この期間のこの雑誌は、最後の2号しかなかったのである。)それにしても全集版は、(毎度のことながら、)ほとんど全面描き換えだぞ、これ [;^J^]..というか、実際には描き換えではなく、きめ細かい切り貼りと描き足しによって、レイアウトを変更しているのであろう。というのも、初出誌では四段組なのだが、全集では三段組で、ほとんど全てのコマの縦横比が変更されているのである。

 週刊文春に連載されていた、「くるま110バン こちらJAF」という、日本自動車連盟の広告(1コマ漫画)の、後半5本も確認できた。国会図書館では、この初出誌はさすがに揃っているが、全10回掲載されたこの広告のうち、後半5本は、切り取られていたのである。(今のところ、大宅壮一文庫では、切り抜きの被害には遭遇していない。(私が閲覧した範囲なので)サンプル数が少なすぎるが、さほど広くもない閲覧室の隅から隅まで、貸し出しカウンタから見えるので、悪事を働くのが難しいことは、確かである。)

 引き続き、現代マンガ図書館へ。ここでは、Nさんからの情報(資料)によって、新たにその存在が明らかになった作品や記事のうち、マンガ雑誌に掲載されたものの調査を中心に、行った。といっても、Nさんの情報の半数以上が、初出年月日(と、時には初出誌名すら)が明らかではないので、一筋縄ではいかない。サクサク発掘出来たわけでは無い。

 一例を挙げると、


ミクロのバンパイヤ!! 手塚治虫の七年後::1:少年サンデー:66/10/16:0

 これの初出誌が「少年サンデー」であるのは自明として、初出年月日が不明だったのである。しかしその内容を良く読むと、通巻400号(あるいはその直前)であるらしく思えた。そこで、まず、バンパイヤ連載中の適当な号(1966年の第34号)を閲覧請求。裏表紙を見ると、これが通巻第393号である。そこで足し算。第41号を閲覧請求すると、計算どおり通巻第400号記念号で、どんぴしゃり、この1頁マンガが掲載されていたのである。この爽快感!

 秋葉へ向かう途上の、飯田橋のJRの改札で、ひとりの盲人が、盲人用料金表を読んでいる..のだが、その読み方が、尋常では無い。左上から順番に、“全て”スキャンしながら、ブツブツと読み上げている。ハッと気が付いて良く見たら、そのすぐ後ろで、ショルダーバックを肩からかけたお兄さんが、手帳の頁の上を鉛筆で追いながら、呟き返している..

 つまり、時刻表の検査。正しく掲示されているかどうか、読み合わせをしていたのであった。[;^J^]

 今回の、東西JR(に限った話では無いと思うが)の大ポカは、(なにせ他に大事件続きなので)案外軽く扱われている気配があるが、私は、立派な“大事件”だと思う。なにしろ、被害の拡がりが、もはや把握も証明もできないのである。そして、これこそ“日本の恥”だと思う。私は、森氏が首相の椅子に座っていることよりも、藤村氏が(世界の)考古学会を混乱に陥れたことよりも、“一般のサラリーマンたちが、まともな仕事をしなかった”、という、この事件の方が、遙かに恥ずかしい。世界(のサラリーマンたち)に対して、顔向けできない。

 さて、秋葉。一昨日は、お茶の水のディスクユニオン(のプログレ売場)に寄っただけだが、今回は、素直に石丸3号店へ。輸入クラシックCDフロアで、ベルリオーズを1枚。ロック&ポップス?フロア(要するに1F)で、イエスを3枚、探してもらうが、在庫があったのは「YES, FRIENDS AND RELATIVES」だけである。「The Ladder」は、全店で品切れ中。「Home of YES, Live From House」は、(まだ)国内盤が出ていない(輸入盤のみ)とのこと。

 先日来のイエスの棚卸し(というか虫干し)で、この3枚を買い忘れていることが、明らかになったのだった。一応、国内盤にこだわったのは、やたらと人事異動 [;^J^] が激しいバンドなので、私が目を離していた数年間の間に、何がどうなったのか、(日本語ライナーで)事情を知りたかったから、ということもある。(これらの他に、順列組み合わせみたいなベストアルバムがやたらと編集されているのだが、この類は、まぁいいや。)

 ほどほどの時刻のこだまで、浜松に帰る。

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*2000年11月21日:ある欠席


 「3軒茶屋の2階のマンガ屋」から、メールが来た。「写真版カタログ」発行遅れのお詫びである。

 苦しいらしい。「普通の漫画」の店売りが大幅に減ったので、これをカバーするために、絶版漫画の通販にさらに力を入れざるを得ず、そのために時間が取られている、とのこと。

 “「普通の漫画」の店売り”が減った理由は、考えるまでも無い。「BOOK OFF」である。「3軒茶屋の2階のマンガ屋」ですら、苦しんでいるのである。(潰れるとは思わないが。)これほどの実績と知名度と、郵便及びネットを通じての通販のノウハウを持ち合わせている古書店ですら。これら(の一切)を持ち合わせていない古書店に、生き延びる術が、あるのだろうか?

 久々に、実に惨めな見世物を見た。

 加藤の腰砕けである。

 こと、政治に関しては、常にシニカルで斜に構えている(要は、いい歳をして無責任な)私も、さすがに、こればっかりは..実際、日本人でいることが恥ずかしくなる。

 採決を“欠席”やて、“欠席”。

 なんだ、そりゃ。

 敵前逃亡。

 そんなに、自民党を追い出されるのがイヤだったか。

 イヤだろうなぁ。自民党にケツまくった連中の末路は、良く知っているだろうからね。それだけの「経験」と「実績」を、積んでいるんだからね。

 じゃあ、なぜ、自民党に籍を置いたまま、野党と手を組もうとした。

 自民党が怒るのは、当然。すっぽかされた野党が怒るのも、当然。(仄かで虚しい)期待を抱かされた国民が怒るのも、当然。

 もう、どこにも行き場は無い。加藤の末路こそ、みものである(..と書きたいところであるが、実はもはや興味も関心も無い。これ以上、誰にも迷惑かけずに、野垂れ死んでくれれば、それでいい)。

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*2000年11月22日:ある紙幣


 「レコード芸術」誌の12月号、ベルリオーズの「キリストの幼時」のCDの広告の宣伝文。あ〜ぁ、またか。


「生前に称賛を受けた殆ど唯一の作品」

「時代性やアカデミズムを無視した苛烈な音楽表現のため、生前はほとんど聴衆に受け入れられなかったベルリオーズが、51歳のときにあえて古風なスタイルと抑制された表現で作曲した大作オラトリオ。それゆえか初演当時から好評をもって迎えられました」

 (ベルリオーズの“不遇伝説”は、もはや、モーツァルトの“赤貧伝説”と、いい勝負である。)

 このコピーを書いた人は、なによりもまず、「幻想交響曲」のことを忘れている。これは、パリで(大衆に)大ヒットしたんだよ! 「ロメオとジュリエット」も、大成功を収めたの! 「レクイエム」にせよ「葬送と勝利の大交響曲」にせよ、重要な国家行事において、政府から新作を委嘱されていることを、どうお考えか? 経済的に豊かで無かったことは確かだろうが、それは、人並みはずれて大編成の作品が多かったから、人件費でアシが出ていたのっ!

 クリーニング屋で、2千円札でお釣りをもらう。「2千円札でもいいですか」、と、わざわざ確認されたあたり、貨幣(紙幣)としての流通性(通用性)に、疑問符をつけざるを得ないねっ [^J^] とにかく、これを所有した(私の財布の中に入った)のは、初めてのことである。

 当分、使わないつもりである。何しろ見覚えの無い新札なので、贋札を掴まされても、全く、見分けが付かないから、比較用のリファレンスが必要なのである。念のため、コピーを(こらこら [;^.^])..てゆーか、今、手元にあるこれが真札かどうかも判定できないんですが。

 えーと、表の図柄のこの門は、どこの門だ。裏は紫式部と源氏物語..か。なんかそういう話を聞いたような気もするので、これはこれで正解なのかな。透かしは..えっとなんだこれは..イカの頭に触腕。鱗のある翼、か..

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*2000年11月23日:「中世の秋」


 数日前に積読の山の底から救出した「中世の秋」(ホイジンガ、堀越孝一訳、中公文庫)を、ようやく読了。もっと早く読んでおかなきゃならなかったんだが、一生読まずにすませてしまった可能性もあったんだから、それに比べれば、遙かに良い。

 想像していたような、辛気くさい本では無い。お薦め..と言いたいところだが、この時代に興味も関心もなければ、読む意味は無いわな。「後期中世美術」「中世都市」「騎士(騎士道物語)」の、どれかに興味があれば、読んでも損はしないよ。

 案の定、読みながら貼り付けていったポストイットが、読み終わる頃には“林”のようになってしまった。私は、ポストイットした箇所は、必ず“抜き書き”することにしているので、手間がかかって仕方が無いが、これもまた、読書の楽しみではある。今回、特に面白かった箇所を、一箇所だけ紹介しておきましょう。


「こうみてくると、中世の闘技は、ギリシアや近代の運動競技とはちがって、いちじるしく自然さを欠いていることがわかる。貴族の誇りとか名誉、ロマンティシズムとエロティシズム、たくみをこらした飾りつけ、およそこういったものを刺激として、闘いの緊張を、いやがうえにも高めようとする。ものものしすぎて装飾過剰、多彩な幻想にあふれている。中世の闘技は、ただに遊び、からだの鍛錬にはとどまらなかった。まさにそれは応用文学でもあったのだ」
(上巻、156頁)

 これって、もろに、「プロレス」ではないでしょうか? [;^J^]

 ついでにもう一箇所。


「まさに、爛熟の季節、凋落の時であった。全世界は、自立する形象に描きつくされた。思考は、まったく想像力によりかかり、すべてを目でみようとする傾向は、これこそまさに、末期中世のきわだった特徴というにふさわしく、そのくせの強さを、存分に発揮した。およそ、ありとあらゆる想念が、かたちに刻まれ、絵に描かれたのである。世界のイメージは、かくて、月光をあびる大聖堂の静けさに沈んでいった。思想は、眠りにはいっていった」
(下巻、91頁)

 なんと美しい文章だろう! 私もいつの日か、こういう文章を書けるように、なりたいものである..

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*2000年11月24日:冨田勲を廻って


 冨田勲を聴き直している。

 先日来、通勤の行き帰りの車の中で、「イエス」と「ジェネシス」のCDを、総ざらいしていたのであるが、(「イエス」は、ここ2〜3年の3セットほどを買っておらず、「ジェネシス」は「インビジブル・タッチ」からあとは買っていなかったことが判明した、)さて、その他の(プログレッシブ)ロックも全部片づけておくか、と、探してみたら..これがなんと、驚くほど少なかった(10枚も無かった)のである。学生時代に買い集めたLP、エアチェックしたカセットの山を、片端から売却したり廃棄したりしたあと、CD時代になってから、網羅的に買い直すつもりになったのは、「イエス」と「ジェネシス」だけだったらしい。まぁ、それはそれでいい。

 しかし、「クリムゾン・キングの宮殿」も「狂気(Dark Side of the Moon)」も無いのには、仰天した。これは困る。やはり「ピンクフロイド」と「ELP」と「キング・クリムゾン」位は(1980年代までで良いから)揃っていないと..

 以上が、先週土曜日にディスクユニオン(のプログレ売場)に行った伏線である。当然、中古盤を(500円/枚以下で)買い集めるつもりだったので、それが果たせず、1枚も買わなかったというわけであった。(たまたま当日は他の店に寄る時間も体力も無かっただけで、レコファン等、中古盤を大量に扱っている店は、いくらでも知っている。)

 でまぁ、会社までの往復の車中で虫干しするロックが無くなってしまったので、(これもほぼ網羅的に収集している)冨田勲のCDを聴き返している、という次第。

 1970年代の初期シンセサイザー・ミュージック(特に、クラシックの編曲物)は、ほぼ完全に、歴史の中に消えてしまった。残っているのは、冨田勲だけと言って良い。(先駆者としてのワルター(ウェンディ)カーロスも、名前だけは残っている。)

 5枚目(「月の光」「火の鳥」「展覧会の絵」「惑星」「宇宙幻想」)まで聴き返したところだが、やはり、それだけのことはあるのである。これらは、今でも通用する。(他のシンセサイザーミュージックとは)ステージが、完全に違う。

 (追憶は廻る..高校時代、昼食(弁当)時間に、校内放送でかかった「月の光」(「月の光」所収)に仰天して、今かかっているのは何だ! と、放送室にかけつけた時、そのLPのジャケットを見せてくれた、ロングヘアーの女子放送委員の、得意満面の表情を、今でも想い出す..)

 音色の魅力は言うまでも無いが、それは、彼の音楽の魅力の“半分”でしか無い。冨田勲には、豊かな“アイデア”があったのである。だからこそ、古びていないのだ。音楽的な(音色やリズムの組み合わせの)アイデアももちろんだが、改めて痛感したのが、その“物語的アイデア”の面白さである。いや、もっと正確に言えば、“マンガ的アイデア”だ。

 私は、昔からなぜか、「手塚治虫」「星新一」「冨田勲」を、ワンセットとして捉えていた。ひどく、印象が似ているからである。作品の印象というよりは、風貌の印象、人格的印象。そして、人間存在としての印象..

 冨田勲のトレードマークとも言える(それを聴いただけで、「あ、冨田勲だ!」と判る)音色がある。「ゴリウォーグのケークウォーク」(「月の光」所収)で初登場した、(ややバスーンに似ている)カポカポモガモガ“歌い(喋り)”まくる、陽気で剽軽なキャラクターである。冨田勲は、これを、手塚マンガのどこにでも顔を出す「ヒョウタンツギ」になぞらえている。まさに至言である。

 それだけではない。

 「展覧会の絵」の「卵のからをつけたひなの踊り」では、雌鳥と「卵のからをつけたひな」が、猫と追いかけっこをした挙げ句、猫が水に落ちる。同じく「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」では、原曲(というより、ラベルが編曲したオーケストラ版)では、恰幅良く弦楽器の強奏で押し出してくる金持ちの「サミュエル・ゴールデンベルク」は、消え入るような哀れを誘うような風情に、同じくラベル版では、ピーチクパーチクと卑屈な貧乏人「シュミュイレ」は、ブルジョアジーを告発するブロレタリアートのごとき大合唱に変貌し、かくして性格を逆転して、「社会風刺」を行っている。「宇宙幻想」所収の「スター・ウォーズのテーマ」では、“人間”の口笛が、伴奏をしていた“コンピュータの声(例のヒョウタンツギ氏)”の“(悪意ある?)歌い間違い”に引きずられて、正しいメロディーを忘れてしまい、コンピュータが哄笑する、というオチがつく。そして何より、「惑星」のプランこそ見事なもので、全体を、ある宇宙船の“オデッセイ”として、各惑星を経巡らせて行くのだが、「木星」のあとに接続された「土星」の直前に、宇宙船は遭難し、どうやらブラックホールらしきものに吸い込まれて行く..そして、もはや現実の宇宙とも反宇宙とも超宇宙ともつかぬ幻想飛行のうちに、「天王星」の魔術的な音楽と「海王星」の彼岸の音楽が混ざり合い、そして..出発前に聴こえてきたオルゴールの音色が、再び聴こえてきて..オルゴールは、止まる..

 これら一切が、驚くほど..こうして書き並べていても驚くほど、“手塚治虫的”なのである。確かに、そのセンスは、21世紀目前の今となっては、古いかも知れない。しかし考えてみたまえ、仮に古い(あるいはノスタルジック)と感じられるとしても、“21世紀目前の今となっても、まだ、通用している!”のである。日本が世界に誇る最高の漫画家が、日本が世界に誇る最高の音楽家に霊感を与えたのだから、これは、当然のことではないか。四半世紀に渡って通用したこれらの芸術は、さらに四世紀は輝き続けるであろう。

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*2000年11月25日:Becky! 2.00


 Becky! 2.00 が(少し前に)リリースされたので、インストールして..そしてすぐに、アンインストールしてしまった。

 誤解の無いように念を押しておくが、これは Becky! の責任では無いのだ。私の使い方が、特殊?なのである。その特殊?な使い方をしようとすると、いささか不便になってしまったのだ、version 2.00 は。

 つまり、「検索」だ。私は、メールの(特にメーリングリストの)ログを、データベースとして活用している。(それだけの値打ちのあるメーリングリストに参加している、ということである。)データベースとくれば、検索である。さまざまな条件で、サクサク検索できなければ、話にならない。

 そして言うまでもなく、Becky! 2.00 の検索機能は、話にならないのである。いや、これは別に Becky! の責任では無い。WinとMacとを問わず、GUIベースのソフトの検索機能は、基本的に論外なのである。(特に酷いのが、ブラウザの類である。あれは、人間の知性に対する挑発(嘲弄)でしか、あり得まい。)だからもちろん私は、DOS窓で検索する。コマンドラインで検索する。Vzを常駐させておいて、用途に従って、grep、ygrep(UNIXのegrepに相当)、zf(強力な曖昧検索)などで、タグ付きの検索結果一覧を表示させ、その画面からさまざまなファイルの該当個所に、ワンキーでタグジャンプする。(必要に応じて、検索結果から、あるいは検索結果上でさらに検索するのは、ごく普通のことである。)

 さて、Becky! の 1.* のログファイルは、このように扱ってきた。非常に扱いやすかったのだ。フラットな(単一の)ディレクトリに、各フォルダが、mbox形式のプレーンテキストとして置かれているだけだったから。

 Becky! 2.00 は、ここに変更が入った。なんとなくそんな予感はしていたのだが、各フォルダが、それぞれサブディレクトリに入った。また、その中に(分割して置かれる)ログファイル名が、何やら暗号めいたものになった。さらに悪いことに、どうやら、受信した文字コードをそのまま変換せずに、アペンドするようになった。(1.* の時は、シフトJISに変換されていたのである。)

 これらのお陰で、(特に文字コードの問題により)上述したような、手早くシンプルな検索&タグジャンプが、やりにくくなってしまったのである。だから、逆上してアンインストールしたのだが..

 冷静になって考えてみれば、2.* に移行せざるを得ない。機能的には、1.* でも不満は無いのだが、今後も必ずや発見される(発見され続ける)であろうセキュリティホールについては、2.* 系列のみで、対策&アップデートされることになるであろう。

 別に難しいことではない。日常的に受信し、成長し続けるログファイルは、それぞれのサブディレクトリに(しかも個別に分割されて)収められ、かつ、各ファイル内で、さまざまな文字コードが混在しているとしても、これらを直接検索する必要は、必ずしも無いのだ。検索用の(フラットなディレクトリに置かれている)プレーンテキスト群を生成するスクリプトを、時々(毎晩、寝ている間に?)走らせればいいのであった。

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*2000年11月26日:「逆転世界」


 クリストファー・プリーストの「逆転世界」を、ようやく読了した。これは、8年も前にKさんに譲っていただいていながら、海より深く天より高い親の恩積読の山に阻まれて、読むタイミングを逸していたのである。ずっと気になっていたのだ。やれやれ、ほっとした。[;^J^](これで、最悪期に820冊近かった積読リストを、780冊まで押し戻すことが出来たが、油断をしていると、すぐに800冊を越えてしまうのだ。)

 知る人ぞ知る、奇想SFである。ネタバレにならない範囲でしか書けないが、特に、この「都市」の向かう方向が、最初に直感的に感じた方向と、“逆”であることが判ったときには、かなりの感動をおぼえた。この数学的な世界像は、確かに素晴らしい。

 しかし..しかし、(だからこそ)私は、この結末を許すことが出来ない [;^J^]。こんなんありか? さんざん引っ張っといて、これか? もちろん、評価はひとさまざまである。こういうのを求める人々は、確実にいるのだろうし、現に、世評は高いのである。私は、ただただ、「惜しい」、としか、言うべき言葉を知らないが..

 だから、個人的には「駄作」「失敗作」というレッテルを貼って整理しているか、というと、これがもちろん、違うのである。この結末は、わたくし的にはスカだが、これほど異様な世界像を定義し、展開してくれた、全体の2/3(あるいは3/4)は、紛れもない大傑作であった。今後も、数年に一度は、読み返すかも知れない。(結末を読むことは、二度とはなかろうが。[;^J^])お薦めである。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Nov 29 2000 
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