*2000年10月23日:シャイロック賛
*2000年10月24日:雑誌過多/国会図書館への不満
*2000年10月25日:「珍念と京ちゃん」
*2000年10月26日:倫理その一
*2000年10月27日:倫理その二
*2000年10月28日:Nさんからの資料
*2000年10月29日:「チャリティー行事」嫌い
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*2000年10月23日:シャイロック賛


 「シェイクスピア物語」(ラム、新潮文庫)を、積読の山の底から引っぱり出して、通読する。「ダイジェスト版」というよりは、「(ストーリーの細部や登場人物の名前を参照するための)リファレンス用」として買っておいたものらしいが、そういう“実用性”にとどまらぬ文学的価値は、あるようだ。つまり、単なる粗筋集ではない..が、(当たり前だが)原作の「コク」は無い。シェイクスピア一流の、言葉の奔流の快感も、得られない。それに、各編平均、文庫本で20頁強にまとめられているのだが、ここまで圧縮すると、ストーリーのパターン(特に、喜劇の終盤のワンパターン)が目につくのである。

 改めて痛感したのは、私は、「ベニスの商人」が、大っ嫌いだということである。原作戯曲、手塚治虫の漫画版、そして今回の、ラムのアブリッジ版等、さまざまなフォーマットで何度も読んで来たわけだが..だめ。どうしても不快感か残ってしまう。

 “アンチ・ユダヤ”思想がどうこうと言うより、シャイロックに対して、あまりに不当だと思うのだ。彼は確かに血も涙も無い、冷徹な商人に違いはないが、決して、不正行為を働いてはいない。あくまでも契約の履行を迫る彼は、己のビジネスを、誠実に実行しているに過ぎないのである。不誠実なのは、その彼と取り交わした契約書の文言の揚げ足を取って、彼からの借金を踏み倒した“善玉”どもである。[;^J^]

 (ついでに言うと、揚げ足取りにもなっていない。これは(ジュヴナイル版を読んだ)子どもの頃から、不思議に思っていた。「胸の肉、1ポンドはくれてやるが、血は一滴たりとも流してはならぬ。ほれほれ、やってみいっ」、と、シャイロックを嘲弄するわけなのだが..なんのことはない、血は洗面器で受けて、返してやれば良いではないか。飲ませてやれば、完璧であろう。)

 しかし..この喜劇のタイトルは、「ポーシャ」でも「アントニオ」でも、ましてや「バッサニオ」でもなく、「ベニスの商人」なのである。つまり、主役は「シャイロック」なのだ。(「ベニスの商人」には、「アントニオ」も含まれるのだが、やはり第一義的には「シャイロック」を指す、と考えるのが当然であろう。)実際、この作品中、シャイロックを除いていくらかでも存在感を主張できるのは、“頓知裁判長”ポーシャぐらいのもので、他の連中は、全く問題にならない。そのポーシャも、シャイロックあってこその役回りなのである。

 「マクベス」のタイトルは「マクベス夫人」ではなく、「オセロ」のタイトルは「イヤーゴー」では無い。最後に敗れ、挫折したといえども、これら、悲劇の主人公たちは、圧倒的な存在感と感動を読者(観客)の胸に残す。それと同じことなのだ。シャイロックも、彼らの系譜に連なる者なのである。それは、手塚治虫が、漫画化に当たって「アセチレン・ランプ」という大物俳優を起用した(そしてこの役は、ランプの代表的な名演となった)ことからも、明らかであろう..

 ..少しは、気が晴れたかな。

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*2000年10月24日:雑誌過多/国会図書館への不満


 先日、現代生活を送る者を取り巻く、桁外れの情報量について話題にしたが、私が何よりもその情報量を痛感している(というか迷惑している)のは..雑誌の数の、言語道断な多さである。

 “読み切れない”のならばまだしも、“書店のキャパを越えているので配本されない”“そもそもそういう雑誌が存在していることに気が付くチャンスが無い”のである。話にならない。「書店の店頭で目にしないからと言って、その雑誌の存在に気が付くチャンスが無い、ということにはならないよ。君はインターネットの検索能力を知らないのかね、ケケケ」、等という指摘メールは、不要である。特定の作家なり漫画家なりにターゲットを絞って検索する時には、未知の雑誌だろうが同人誌だろうが(裏メディアだろうが [;^.^])、探し出せる。(私は、素人では無い。)しかし、毎日毎日、そんなことをしているわけでは無いのだ。それに、取りあえずは全くなんの興味も持てない雑誌(及びそれに掲載されている作品=作家群)が、数ヶ月、数年経つうちに、徐々に(自分にとって)化けてくる=意味を持ってくる、ということは、珍しくはない。この経緯を(その初期の段階から)インターネットでウォッチし続けることは、非常に難しい。

 マンガ雑誌を例に取ろう。私が小中学生だった時分(1970年代初頭)には、「少年5誌」という言い方があった。「マガジン」「サンデー」「チャンピオン」「ジャンプ」「キング」である。これら週刊誌5誌に、それぞれ「月刊」「別冊」「増刊」等のオプションがつく。

 無論、これら以外にも、“マイナーな雑誌”はいろいろあったわけだが、少なくとも「少年5誌」(及びオプション)に目配りしておけば、少年マンガに対して、ひととおりのパースペクティブは維持できたのである。

 翻って、現在のマンガ雑誌の数は..面倒なので数えない。論外である。そして、これらの雑誌の多くは、国会図書館にも納本されていないのだから、あとからその存在に気が付いても、もはや手遅れなのである。

 ..ついでだから脱線するが、この、「国会図書館に納本されない書籍や雑誌が、当たり前のように存在する」、という状況は、日本文化の大欠陥なのではないか。これは伝聞情報なのだが、合衆国の議会図書館では、事情は全く異なるらしい。合衆国では、議会図書館を通さないと(納本しないと)、書籍コードが取得できないとのこと。つまり、流通させることを意図している出版物は、全て、自動的に議会図書館に集まるのである。実に合理的なシステムであると感心するが、考えてみれば、これが当たり前のシステムではないか。なぜ、こういうシステムを日本で作れないのか。ハードウェア(あるいは施設)の新設の必要は無い。ソフトウェア(運用方法)の変更だけで、実現できる。それが出来ないということは..政治家も官僚も国会図書館の事務局も、全く仕事をしていないとしか、考えられない。

 ..さらにどんどん脱線するが、国会図書館でCD−ROMの検索端末を使っていて痛感するのは、日本語の“ハンディ”である。早い話が、検索するために「仮名漢字変換」をしなくてはならないのだが、これが実に“難しい”。(20年以上(もしかするとあなたが生まれる前から)パソコンを使っている私の言葉だ。黙って拝聴しろっ [;^J^])

 いやもちろん、仮名漢字変換操作自体は、全く難しくは無いのだ。さまざまなモード間の遷移も。難しいのは、それが“国民的に統一されていない”ことなのである。早い話が、私が日常使っているリブ100の仮名漢字変換のキー操作と、(特にモード遷移の操作が)“微妙に”違うのである。国会図書館の端末はウィンドウズなのだから、私のリブ100環境と、それほど違うわけではない。違うのは、国会図書館の日本語FEPは、多分MS−IMEであり、私が使っているのはATOKだということだが、実はこの違いも、本質的ではない。「両者とも、カスタマイズ出来る」ことが、本質的なのである。そう、つまり、国会図書館の端末の多くは、似たような振舞いをするが、いくつか、異なった振舞いをするものが含まれているのである。

 典型的には、どうやっても「ローマ字モード」から抜け出せないもの、あるいはその逆。ローマ字入力しか出来ない人、あるいはカナ入力しか出来ない人にとって、この端末は、全く使えないのである。

 それでも、はたで見ていると、結構、みなさん、端末を使いこなしていらっしゃる。(使いこなせる人しか、端末席には近づかないのであろうが。)私も勿論、バリバリに使いこなしている。その秘訣は、ローマ字入力も(JIS)カナ入力もマスターしていることにある。私のデフォルトはカナ入力だが、実際問題、目の前の端末が(おおむね10秒以内に)仮名入力モードになってくれない時には、設置されている取説を調べる前に、ローマ字入力で検索を始めてしまう。結果的には、その方が早いからである。

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*2000年10月25日:「珍念と京ちゃん」


 「珍念と京ちゃん」が、京都の石川古本店から届いた。これは手塚治虫の初期(1946年)の4コママンガで、石川古本店が復刻したものである。初出紙「京都日日新聞」は国会図書館に無く、これまで、全く調査出来ていなかったのであった。これで、最初期の謎めいた部分が、かなりクリアになってきた。同時期に同紙に掲載されたヒトコマ漫画群が、全て、初出年月日情報付きで同時に復刻されているのも、感涙ものである。

 こういう仕事を、民間(というか草の根)で(ボランティアに近い形で)行わなければならない、ということについては、特に不満は無い。「文化」とは、しばしばそういうものである。しかし、「京都日日新聞」が、国会図書館に全く無い、ということについては..昨日の今日だし、繰り返したくは無いが..

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*2000年10月26日:倫理その一


 正確な数字は忘れた。出典も思い出せない。恐らく、もっと小さい数字だったと思うのだが..


 シェア5%を越えるまでは、それを使っていることを倫理的に非難され、シェア30%を越えると、それを使っていないことを倫理的に非難される。

 もちろん、“倫理的に”というのがポイントなのである。

 一番判りやすい例が、パソコンである。昔(10年前ぐらいまで)は、パソコンを使っているだけで、「暗い」だの「エロゲームしてるんだろ」だのと、迫害されたパソコンユーザーだが..いまや逆に、パソコンを使えないと、“倫理的に”非難される。(ただの、仕事が出来ないオヤジ、というわけだ。)

 もう一例は、もちろん、携帯電話。ほんの数年前までは、町中で大声で私語をする変な奴らだったのたが、いまや、特に営業マンなど、外回りの人間で携帯を持っていないとなると、(勤労意欲すら疑われかねない)単なる迷惑な奴である。(実は私も、まともな時間帯には自宅でつかまらない、という意味では、外回りの人間と変わるところはなく、携帯を持っていないことを、実家の連中に、まさに“倫理的に”非難されつつある。)

 まぁ、要は、長いものに巻かれることを良しとするか否か、という、単純な話である。「廃墟通信」の読者ならばおわかりかと思うが、オリンピックにもワールドカップにもペナントレースにも日本シリーズにも、全くなんの興味も関心も無い人間も、いるのである。それを“倫理的に”非難されているかどうかまでは、なかなか本人には判らないところである。

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*2000年10月27日:倫理その二


 “倫理”つながりで、小ネタをひとつ。いわゆる“見間違い”であるが、


論理的に正しく振舞うプログラム

 ..と、


倫理的に正しく振舞うプログラム

 ..の、どちらがお望みかね?

 前者は、世に満ちあふれている。後者は、いくらか存在するのかも知れないが、それを立証するのが難しい。あるプログラムを取りあげて、これが“倫理的に正しい振舞いをしているか否か”を決定する、というのは、時には究極の難問ではあるまいか。

 私は、“倫理的に正しく振る舞うプログラム”と同居するなど、ごめんである。その“倫理”を完全に共有できていればともかく、そんなことは一般には不可能で、だとすると、そのプログラムの“倫理”によって、私は殺されるかも知れないからである。(以下、「2001年宇宙の旅」へ続く。)

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*2000年10月28日:Nさんからの資料


 誰しも、苦手なことは、あるものだ。私にも、山ほどある。中でも、もっとも苦手としているのが..自動車の色を憶えることなのである。

 これは、本当に、不思議なほど憶えられないのである。下手をすると、自分の自家用車の色を思い出せず、広い駐車場で探し回ってしまったりする。だから、他人の車となると絶望的で、1乃至数ヶ月に一度、手塚コレクションの調査のために、Tさん宅にお邪魔しているのだが、そのTさんに、中山駅まで迎えに来ていただくとき、“常に”、Tさんの車の色を憶えておらず、中山駅前のロータリーに走り込んでくる車の群れの中から、Tさんの車を発見するのが遅れる(..というか、Tさんが車から降りて、こちらに手を振られるまで、発見できない)のである。

 「特に車が好きなわけでもなく、単に通勤用のスリッパとして使っているだけなのだから、思い入れも無く、従って、色を憶えることもないのであろう」、と、理屈づけは簡単に出来るのだが、しかし少々、度が過ぎていると思う。別に、自動車の色に関するトラウマは無いと思うのだが..

 神戸のNさんから送っていただいた、手塚治虫関係資料を整理する。(「“手塚治虫漫画全集”総目録」(書籍版)を読んで、それに掲載されていない記事等の切り抜きを沢山持っている、ということで、連絡されてきたのである。)いや全く、有り難い。常々言っていることだが、(..もしかすると「廃墟通信」では書いていなかったかも知れないが、)「情報」は、「発信」するに限るのである。「発信」しさえすれば、その「情報」の不備を補完する情報は、向こうから送り届けられてくるのである。「吾妻ひでお 著作リスト」の基本部分も、こうやって作った。まだまだ不完全なα版(とも言えない完成度の版)のリストを、さっさとネットニュースに公開してしまったところ、連日..とは言わないまでも、あとからあとから、消化しきれないほどの情報が、寄せられたのであった。

 それはともかく、Nさん情報の中には、「少年サンデー」誌に掲載された1頁のマンガなど、当然、従来リストに載せられているべきなのに、もれていた..というものもあるが、多くは、「従来リストに掲載しようが無いよ..」というものである。「掲載する値打ちが無い」のでは無く、「掲載しようにも、現物が速やかに消滅してしまう」ジャンルである。つまり、書籍の「帯」に掲載された、「推薦文」の類である。

 国会図書館では、帯はおろか、カバーも捨てる。これは、多くの図書館が同じ方針だと思う。(私に買われた本こそ不幸であって、カバーは慎重に保護・保存されるが、帯などは読まれもしないうちに、引き裂かれてゴミ箱行きである。)

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*2000年10月29日:「チャリティー行事」嫌い


 「チャリティー行事」が、嫌いである。

 偽善だと思う。

 「アフリカの飢えた子どもたち」でも「難病に苦しむ人々」でもいいが、その人たちを救うべきだと認識したのならば、余計な中間段階をすっ飛ばして、すぐに寄付すればいいのである。なぜ、わざわざ、「コンサート」のような形式を取らねばならないのか。

 この場合、チャリティー行為を行っているのは、(収入を寄付した)出演者たちだけであって、観客は、何ひとつチャリティーしていない。いつもと同様に、楽しんだだけではないか。

 他人の不幸をダシにして、大いに楽しんでいるだけではないか。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Nov 1 2000 
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