*2000年01月03日:新春秋葉オフ 2000
*2000年01月04日:「シックスセンス」「炎の天使」
*2000年01月05日:万博追想
*2000年01月06日:「子連れ狼」追想
*2000年01月07日:究極のタイトル
*2000年01月08日:現実に立ち向かう
*2000年01月09日:歌劇「ファウスト博士」
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*2000年01月03日:新春秋葉オフ 2000


 恒例の新春秋葉オフ。例によってワシントンホテルのロビーで待ち合わせ。約束の12時よりも少し早く着いたので、隣の喫茶店で時間を潰す。

 私も含めて、集まったのは4人(ピーク時に5人)。順番は忘れたが、ジャンク系PC屋、怪しくないPC屋、オーディオ屋、CD屋、と、結果的にはバランス良く秋葉をこなした。

 ヘッドフォンを購入したい、という、私のリクエストで、石丸電気本店も訪れる。(長年使っていたゼンハイザーが、故障して久しいのだった。)実はここに来るのは、数年(もしかすると5年以上?)ぶりである。10年位前までは、CD購入基地として活用していたのだが、その後改装されてから訪れたら、「白モノ」家電中心になってしまって、用が無くなり、足が遠のいていたのである。

 久しぶりに訪れた石丸本店は、3F(くらい)までPC中心。これは私の記憶の中の石丸(本店)のイメージとは、全く異なる。まさにご時世だ。そして、記憶の中のそれとさほど変わらない規模のCDフロアとオーディオフロア。これならまずまず使えるかも。ヘッドフォンの試聴も、一応できたし。(「一応」というのは、試聴のソースを選択出来ないからである。せめて、「クラシック」/「ポップス」位、選ばせてくれよ。)

 ヘッドフォンは、ソニーのMDR−F1を選んだ。購入価格は2万円くらい。実のところ、もしも試聴出来なければ、ゼンハイザーかスタックスの指名買い、と考えていたのだが..MDR−F1は、装着感が圧倒的に素晴らしい。イヤースピーカー型と言うのか、振動板が耳に圧着せず、中空に浮いている方式。耳との間を風が通る。従って、遮音性はペケだが、静かな環境の一人暮らしでは、そんなものは不要。むしろ、遮音性が完璧すぎると、かえって問題である(ことがある)。何時間でも聴いていられる楽な装着感と、自然な音場、そして爽やか(で、どこか“軽やか”)な音質は、何物にも代え難い。

 CD屋では、ベルリオーズなど3セット5枚。PC屋では、リブに装着する予定のHDの価格の相場チェックのみ。大体どの店でも、12G(2.5インチ、9.5mm)は、メーカー問わず398。これは今日買っても、今夜中にセットアップ出来るわけではないし、容量的せっぱつまり度を勘案すると、1〜2週間のディレイが発生するのは必至。その頃には、価格はもっと下がっている。今日買う理由は、全く無い。

 お茶したあと、日も高いうちに解散。早めに浜松のアパートへ。

 帰宅してから今日の新聞を読むと、原発などでポロポロと、Y2Kポカをやらかしていたようである。困ったもんだ。みっともない。

 しかし、症状が出たのだから、幸運である。症状が出れば、それを直すことが出来る。本当に恐いのは、症状が(直ちには)出ない(従って、それが存在することすら判らない)バグである。

 これに関連して、いつも思い出すのが、「2001年宇宙の旅」。HALが「故障している」と指摘したAE−35ユニットを検査してもどこも壊れておらず、乗務員達に不審の念を持たれたとき、HALは、「元に戻して壊れるのを待とう。そうすれば、壊れている箇所が明らかになる」、と、提案したのである。これは実にもっともな提案であり、地上センターも同意したのであったが、この映画を(リバイバル時に)初めて観た私は、不思議な発想をする、と、新鮮に思ったものだった。(当時はまだ、学生であった。)

 追加して、これも今さら言うまでもないことだが..コンピューターに対する不適切な指示(この場合は、「乗務員に対して真の目的を知らせることなく、その任務を遂行せよ」)がトリガーとなって、それを実施するために、本来なされるべきではなく、想定されてもいなかった行為(この場合は、乗務員の殺害、並びに殺害未遂)がコンピューターによってなされる場合、このシチュエーションは、「2001年問題」と呼ばれる。


(..大嘘。)

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*2000年01月04日:「シックスセンス」「炎の天使」


 今日まで正月休みなのであるが、一足早く休出して、部署のメインマシンを再起動。合わせて、Y2Kがらみのトラブルが発生していないかどうか、ざっとチェックする。メジャーな問題は、発見できない。マイナーな問題はいくつか起こっているのだろうと予想されるが、ま、いいでしょ [;^J^]。そういうのは明日以降、システムを動かしながら直せば良し。

 「シックスセンス」を観る。正月休みの帰省中に、実家で妹に勧められていたのだが..これは、なかなかいいぞ。

 「オチ(トリック)があります」、という情報は、それ自体がスポイラーになりかねないので、取り扱いが難しいところだが..しかし私は、もっとヒドイ、身も蓋もないどんでん返しになるのかと、ヒヤヒヤしながら観ていたのだが、(そしてそうなりそうな気配というか“チャンス”が数回あったのだが、)実にノーブルに感動的にまとめられていたので、ほっとした。(それにしても、この映画に限らず、「“何かが写っている”ビデオを観る」、というシチュエーションで、毎回必ず某Rを思い出してしまうのは、なんとかならんか [;^J^]。ほとんど公害だぞ、これ [;^.^]。)

 帰宅してから、LDを1枚片づける。プロコフィエフ作曲のオペラ、「炎の天使」。これも数年前に購入したものだと思う。

 オペラのLD(DVDも同じだと思うが)の最大の問題点は、多くの場合、「歌詞対訳」(ドキュメント)が付属していないことである。「字幕があるから必要ない」なんてことは、“全く”無いのだ。定期的に(例えば fj.rec.movies などで)問題になることだが、字幕の情報量というのは、極端に少ないのである。「あらすじが判るだけ」、程度に考えておく方がよろしい。あらすじ以上のことを知りたい時は、それが映画ならば吹き替え版、オペラならば歌詞対訳に、(貸しビデオ屋や図書館などで)アクセスする必要がある。そしてこういう、マイナーなオペラでは、それもままならない..

 ..が、まぁ、あらすじは判った。時代は中世末期で、「炎の(守護)天使」が見えてしまった(と一途に信じ込んでいる)思いこみ系の女が、周囲の迷惑顧みず、その天使が乗り移っていると(彼女が)思い込んだ男を追い回し、紆余曲折の末に修道院に入るが、そこで(中世にはしばしば起こったという)集団悪魔憑きのパニック(性的狂乱)を引き起こして、異端審問官に「魔女であり、火刑に処す!」、と断罪される物語である。(と思う。)結局、「炎の天使」はいたのかいなかったのか、それは悪魔の謀りであったのかなかったのか、彼女は魔女だったのかそうではなかったのかは、聴き手(観客)の解釈に委ねられている。

 偶然にも、このヒロインは、シックスセンスの少年同様、他人には見えない「悪魔」が見えてしまうという設定なのだが..この、神様系の身勝手なヒステリー女が、本当にむかつくタイプで、こんな奴は犯しまくってフロに沈めてしまえっ!、と、観ていて思わず、鬼畜なキレ方をしてしまいました。[;^.^]

 演出は、物凄い。ヒロインにだけ見える「悪魔たち」が、常に舞台上で蠢いているのだが、これが裸身に全身白塗りの、暗黒舞踏状態。

 脚本的には、アグリッパ、ファウスト&メフィストフェレスのコンビなど、豪華ゲストキャラ [;^J^] の趣向が楽しいのだが、しかし出来は悪いと思う。詳述はしないが、個々のエピソードのつながりが悪いのだ。プロコフィエフの音楽は、鬼気迫るもの。

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*2000年01月05日:万博追想


 年末に伊勢丹大古本市で購入した物件が、届く。日本万国博のパンフレットなど。

 手塚治虫の短文(フジパンロボット館のパンフに掲載されている、チーフプロデューサーからの「ごあいさつ」)を、新発見。いや、これひとつのために、5万3千円払ったわけではありませんが。

 概して、創造性(想像力)の欠如が指摘されていた万博だし、今の目で観ると、どうにも「ダサイ」パビリオンが目立つのだが、しかしまぁ、水晶宮(クリスタル・パレス)を生んだロンドン博(1851)、エッフェル塔を生んだパリ博(1889)と比較する方が、悪いと言えば悪い。それに中には、極めて印象的な造型の建造物も、あったのである。例えば、星野之宣の「月夢」。宇宙飛行士が発見する、月面上の(かぐや姫の)宮殿が、松下パビリオンのコピーだということは、ご存じでしたか?(この建物は、日没後、青白くライティングされると、(というか、自ら発光するのだが、)まさに夢のように美しかった。)

 別件のメモ。底厚靴を履いていると、座った時に、実力以上に膝がはね上がることになるので、スカートの丈が短い場合、気をつけないと眺めのいいことになりますよ、お嬢さん方。(これを回避するためか、底厚靴を横倒しにして座っている娘もいるが、悪いことは言わないから、それだけはやめなさい。正視に耐えぬほどの見苦しさである。)

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*2000年01月06日:「子連れ狼」追想


 小島剛夕、死す。

 やはり、私にとっては、「子連れ狼」である。これは本当に凄かった。(学生時代、この大長編の最終巻近くまで、近所のコンビニに通いつめて立ち読みで読破し、あと少しのところで、「そろそろ勘弁して下さい」という店長ストップがかかったのも、懐かしい想い出である(時効)。)

 読破していない人が、多いと思う。「稼ぎ貯めた金を、何に使うんだか」、という“揶揄”を聞いたことも、ある..

 ..最後まで読めよ!!

 あの莫大な金を、何に使ったのか(何を買ったのか)、そしてそれを本来の目的に使えたのか..この感動を共有していない人とは、やはり本当の意味では、友人にはなれないと思うのである。

 部屋が狭い。手元に「参考図書(事典類やリファレンスなど)専用書棚」が欲しいのだが、レイアウト的に収まりきらない。無理矢理押し込むと..スピーカーがはじき出される。これ(スピーカー)は、もういらないかも知れない。なにしろここしばらく、スピーカーを鳴らしていない。(そもそも、夜間、心おきなくスピーカーを鳴らすことが出来ないので、その代替として、この月曜日にちゃんとしたヘッドフォンを買ってきたのであるし。)手放すべきかも知れないな..

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*2000年01月07日:究極のタイトル


 頭が重く、午後半休。寝不足かな。せっかく午後、体があいたので、部屋の片づけでもしようかと思ったが、体調には勝てず、結局夜まで眠る。

 SFマガジンの今月号を読んでいたら、梶尾真治が「たんぽぽ娘」について、「タイトルだけでも名作である」、と書いていた。

 私自身は、「たんぽぽ娘」がそれほどの名タイトルとは思えないのだが、しかし、「タイトルだけで既に名作」、という言い方は、完全に理解できる。この事例を挙げ始めるときりがないので、SF小説に限定するが、オールドファンならば誰もが賛成してくれるだろうと思えるのは、ハインラインの、「地球の緑の丘」。もう一例挙げると、ベンフォード&エクランドの、「もし星が神ならば」。

 しかし..私の知る限り、SFのタイトルの最高傑作(というか、タイトルだけで最高傑作となったSF作品の、そのタイトル)は、とある(まだ)存在していない作品に与えられたものである。

 平井和正が、各種幻魔大戦を(マンネリに陥る以前に)精力的に書いていた頃、「“幻魔大戦”のタイトルと基本設定は、誰が使っても良し!」、と、宣言したことがあった。(ちょうど、「クトゥルー神話」のようなものである。)それに答えて、「俺が書く!」、と、名乗りを上げた作家の中に、「永井豪」の名があった。

 そして彼が、これから書く、と宣言した作品のタイトルが..「超幻魔大戦」だったのである!!

 よろしいか。目を閉じて想像してみたまえ。「永井豪」の!!「超幻魔大戦」である!!

 作者名と作品名の「究極の組み合わせ」とは、この事例を指す。私は、永井豪の「デビルマン」は、「日本SF」(「日本SFマンガ」にあらず)の史上ベスト5に入る傑作だと確信しているが、彼が未来において発表した「超幻魔大戦」こそ、「日本SF」史上、最大最高の傑作であった!

 それは恐らく、「黒の獅子」の「白魔戦争」の壮大なビジョンをベースとして、そこに「凄ノ王」と「デビルマン」と「バイオレンス・ジャック」を叩き込んだものである。想像を絶する能力と形状の、「魔」と「ガジェット」と、「モンスター」と「メカ」が入り乱れた、幻魔対エスパー軍団の時空を越えた戦いと、その設定を根底から覆しかねない、惜しげもなくぶちまけられた観念的存在論的アイデア! それは、究極のワイド・スクリーン・バロックである!

 そしてそれは、いまだに(そして恐らく、今後もけっして)存在しないが故の、最高傑作なのである..

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*2000年01月08日:現実に立ち向かう


 三連休の初日。一念発起して、「積読リスト」を作成する。(“一念発起”しないことには、手がつけられないほどの量なのである。)半日仕事を覚悟していたが、なんのことはない、一日仕事であった [;^J^]。754冊 [;^.^]。

 ほとんどが文庫本で、薄い本もいくらかあるのだが、百科事典級の分厚さの本も、何十冊も含まれている。やれやれ。(ダブリも数冊発見した。仕方ないわな。)さて今後、このリストは伸びるのでしょうか、縮むのでしょうか?(ヒント:リスト作成後、紀伊國屋のBOOK WEBにて、20冊ほど発注。)

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*2000年01月09日:歌劇「ファウスト博士」


 今週月曜日に秋葉で買ってきた、ブゾーニ作曲「歌劇 ファウスト博士」のCDを聴く。(WPCS−10260/2、ケント・ナガノ指揮、リヨン国立歌劇場管弦楽団、他。)

 この作品の存在はもちろん知っていたし、一部の曲(というか、挿入曲の「習作」)のCDは所有しているのだが、全曲を聴くのは初めてであった。色々と音楽理論的に手の込んだことをしているらしいのだが、頭でっかちではない、非常に聴きやすくて面白い音楽である。まぁ、私がファウスト物のファンだ、ということもあるのだろうが。

 手持ちのCD&LDのデータベースから、ファウスト関連の作品をざっと検索してみたら..


* 「ファウストの劫罰」(ベルリオーズ)、ご丁寧に16セット。
* 「ファウスト交響曲」(リスト)、これも16枚。以下、煩わしいので枚数は略。
* 「レーナウのファウストより二つの情景」(リスト)
* 「メフィスト・ワルツ」(リスト)
* 「ファウスト序曲」(ヴァーグナー)
* 「歌劇 ファウスト」(グノー)
* 「歌劇 メフィストーフェレ」(ボーイト)
* 「交響曲第8番 第2部」(マーラー)
* 「ファウスト・カンタータ」(シュニトケ)
* 「ワルツ“メフィスト地獄の叫び”」(ヨハン・シュトラウスII世)
* 「のみの歌」(ベートーヴェン)

..と言ったところか。他、「糸を紡ぐグレートヒェン」など、シューベルト等の歌曲がいくつか。(ファウスト物のファンではあるが、ファウスト音楽のコレクターという訳ではないので、シュポーア、シューマン等の作品は押さえていない。また、「のみの歌」と言えば、ムソルグスキー作曲の有名な歌曲が手元に無いことにも、今、気がついた。)このリストに、「歌劇 ファウスト博士」(ブゾーニ)が加わったという訳だ。

 ゲーテ版よりも、古い伝承に基礎をおいているようだが..謎めいた作品である。三人の学生が現れて、「アスタルテの魔法の鍵」という書物を与えて去って行く。ファウストはこれに依ってメフィストフェレスを呼び出したのであり、結末でも、この三人の学生がどこからともなく現れて、お前の命は今夜限り、と、引導を渡して去って行くのであるから、構造的には、メフィストフェレスの「上位」にいる。こいつらは、一体、なんなんだ?

 この作品のテキストで面白いのは、最初に霊たちを呼び出すシーンで、そこでは霊たちが順に、自分の「速さ」を自慢するのである。第一の霊は「砂時計の砂のごとく速し」。これでは話にならない。第二の霊は、「落ち行く葉のごとく速し」。第三の霊は「岩より落つる小川のしぶきのごとく」、第四の霊は「銃身から発する弾のごとく」、そして第五の霊は「嵐のごとく」速いのである。それら全てに失望したファウストだが、最後の第六の霊が「人の思いのごとく」速い、というのを聞いて、


人の思いのごとく速しだと! それ以上何を望もう?
それほどのことが望めたのか? それ以上何を望もう?
望みを抱けば直ちに現れ、意志すれば直ちに行為となる、
それ以上何を? それほどのことが望めたか?
それ以上何を望もう?
汝の名は?

 もちろん、メフィストフェレスである。

 「思考の速さが何よりも速い」、と言うモチーフは、今すぐにはテキストを引用できないが、北欧神話にもあったと思う。他の神話や伝説にもあったかも知れないが..と呟きながら、CD&LDのデータベースを検索したついでに、読書記録データベースから、文字列「ファウスト」を検索してみたら..いきなり「思考の速さ」の抜き書きがヒットして、仰天した。


「で、一体おまえはどれだけ速い」「人の思いの速さです」

(「ドイツ民衆本の世界 III 実伝 ファウスト博士」(Historia von D.Johann Fausten、松浦純訳、国書刊行会)に付録として収録された、「人形芝居 ヨハネス・ファウスト博士」より。)

 そうか、人形芝居バージョンか。そう言えば、この歌劇のプロローグである「詩人の前口上」では、「人形芝居」に言及されているではないか。リブレット(台本)を良く読めよ、と、慌てて本書を読み返す..

 ..なるほど、この歌劇の主要な要素は、この人形芝居から採られているのだ。謎の学生たちも、霊たちの速さ競べも、パルマ公夫妻も、ヘレナの幻も(これはゲーテ版にもあるが)、人形芝居に由来する。(人形芝居では速さ競べは、「かたつむりが砂を這うくらい」、「枝から落ちる木の葉の速さ」、「岩壁あらう滝の水」、「空飛ぶ鳥の速さ」、「鉄砲玉の速さ」、「はやての速さ」、「黒く死んでくペストの速さ」、「人の思いの速さです」、となる。)但し、人形芝居の分量の半分近くを占めている愉快なギャグは、歌劇には無い。また、人形芝居の結末には、謎の学生たちは登場しない..

 ..のだが、実のところ、厳密に照合しても仕方がないのだ。とにかく田舎回りの芝居一座がギャグを入れつつ上演していたのだから、当然、アドリブがバンバン入っていたはずだし、事実、現存している人形芝居の脚本は、全て食い違っているらしい。

 ブゾーニ自身によるリブレットは、この人形芝居とゲーテ版とのアマルガムである。ファウストに捨てられた妹グレートヒェンの復讐を誓う兄。学生酒場のらんちき騒ぎ。そして(公妃に産み落とされて、間もなく落命した)ファウストの子の死体。これらは確かに、ゲーテに由来するものである。

 この歌劇のリブレットで、私が一番不思議に思っているのは、しかし三人の学生のことではなく、ファウストがメフィストフェレスに(魂を売り渡すという)契約書へのサインを強要されるシーンの、ファウストの嘆きである。


もはや逃れる術はない。もはや至福は失われ、
永劫の罰もない。もはや天の恵みもなく、
地獄の恐れもない。私は彼岸に背くのだ!

 これでは、地獄に落ちない。彼が恐れているのは、「天国−地上−地獄」という「システム」の外側に、追い出されてしまうということか? そしてそれは、地獄に落ちるよりも、恐ろしいことだというのだろうか?(人形芝居では、もちろん、地獄に落ちる。)

 結末は、さらに輪をかけて謎めいている。真夜中、予告された死の時刻に、ファウストは最後の大魔術を執り行い、自分の死と同時に、公妃から手渡された自分の息子の死体を蘇らせる(正確には、死んだ嬰児の横たわっていたところから、裸身の青年が立ち上がって、町の中に歩み去っていく)のである。


わが血を継ぐ者、
わが四肢を継ぐ者よ、
眠れる者よ、
純なる心よ、
いまだすべての輪の外にあり、
この輪の中にある私に
限りなく近しい者よ、
おまえにこの命を遺そう。
いま去り行くこの私の
大地に下ろしたその根から、
おまえは育ち、
軽やかに麗しき花を
咲かせるがよい。
私はおまえの中に生き続け、
おまえは生成を続け、
私の存在の痕跡を
どこまでも深く
力の限り埋めるがよい。
私がぶざまにしか為しえなかった業を、
健やかに成し遂げてくれ、
私が為しえなかったことを、
取り返すのだ。
されば私は
死を越えて
生き続け、
この一個の肉体の中に
さまざまの時代を包含し、
最後の人類に混ざり合う。
私、ファウストは、
永遠の意志!

(彼は死ぬ)

 ファウストが救われなかったのは間違いないが..果たして地獄に落ちたのだろうか? メフィストフェレスは魂を持っていったのだろうが..ファウストは自分の命を、息子に残した。これでは「勝利」に近いではないか。

 今後とも広範な人気を得るとは考えにくい歌劇だが、ファウスト系の人(謎)は、押さえておいても悪くない。(書き忘れていたが、ベルクの「ヴォツェック」と同年、1925年に初演されている。)

 しかし..私は夢想するのだ。ベートーヴェンが「ファウスト」を手がけていたら、どうなっていただろうか。(小さな歌曲は、残されているのだが。)ベートーヴェン作曲・交響曲第10番「ファウスト」、なんて、想像しただけでも、気が遠くなりそうだ! あなたは、そうは思わないか?(歌劇化の構想はあったらしいが、ファウスト第一部の出版が1808年、ファウスト第二部は1832年。ベートーヴェンの没年が1827年だから、当然、第一部に基づく計画だったのだろう。ここはどうしても、第二部に基づく大曲、それも歌劇ではなく、「(合唱付き)交響曲」でなければならない!)

 「超幻魔大戦」の項でも述べたが、存在しない作品は、無敵なのだ。「超幻魔大戦」がSF史上の究極の傑作であると同様に、「交響曲第10番「ファウスト」」は、音楽史上の究極の傑作なのである。

 そして、ファウストといえば、なんと言っても手塚治虫。彼はファウストを、「ファウスト」(1950)、「百物語」(1971)、「ネオ・ファウスト」(1988)と3回手掛け、全て氏の代表的な傑作となっている。そして、彼の夭折によって未完のまま残された3本の連載のうちの2本が..ファウスト(「ネオ・ファウスト」)とベートーヴェン(「ルードウィヒ・B」)であった..

(CDからの歌詞対訳の引用は、ブゾーニ作詞、中島悠爾訳による。)

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jan 12 2000 
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