*1999年03月29日:ドラクロワについて
*1999年03月30日:「電脳炎」について
*1999年03月31日:「楽器商法」誌
*1999年04月01日:書き換え可能な掲示板について
*1999年04月02日:人間ドックの意外な結果
*1999年04月03日:「未知との遭遇」
*1999年04月04日:「アルゴ探検隊の大冒険」
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*1999年03月29日:ドラクロワについて


 どうして私は、「民衆を率いる自由の女神」を、「一度は観たい」と思っていたのか。

 それは、ドラクロワだからだ。

 ドラクロワが、私を作ったからだ。

 無論、私の人生の「原点」と言えるものは、他にもいくつもある。「少年」誌しかり、「カッパコミクス版 鉄腕アトム」しかり、「日本万国博覧会」しかり。しかしそれら全てを越えて、決定的なトラウマとなったのが、「ドラクロワ」だったのである。

 確か、小学校6年生に進級する春休み。あるいはその前年のことだったかも知れないが、「ドラクロワ展」が開催された。私はこれを観に行かなかった。私が観たのは、「アサヒグラフ」誌の特集記事である。その中に、私は、「ハムレット」と「ファウスト」のための石版画シリーズを観たのだ。

 これらの作品を知っている人には、これ以上、なんの説明も必要無い。知らない人には、これ以上、なんと説明しても伝わるまい。これらは、それほどまでに凄まじい傑作なのである。

 少年・倉田わたるは、完全に魂を奪われてしまった。来る日も来る日も、アサヒグラフ誌に「入り込み」続けた。その時点では、まだシェイクスピアもゲーテも読んでいなかったのだが、あるいはそれが幸いしたのかも知れない。ドラクロワの、ほの暗く鋭い描線の持つ圧倒的な「ダーク・パワー」に、無防備な剥き身をさらし、焼き尽くされたのだった。

 私はただちに、「ハムレット」と「ファウスト」を読んだ。この2冊が、私を「書物の王国」へと導く、道先案内人となった。あたかも、ダンテを地獄へと導いたヴェルギリウスのように。

 そしてそれとは独立に、1年とは遅れずに、ミュンシュ=パリ管盤を通じて「幻想交響曲」に出会い、私の人生と生命と肉体の一部を、この音楽の作曲者であるベルリオーズに捧げることになったのだが..彼が作曲家として身を立てる以前の青春時代に、やはり、シェイクスピアとファウストに熱狂していた、ということを知ったのは、遙か後年のことであった..

 ドラクロワが、私を作ったのだ。

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*1999年03月30日:「電脳炎」について


 唐沢なをきの「電脳炎」が発売された。「Mac版」と「Win版」の2種類である。内容は「90%同一である」と、帯や広告で明記されているが、当然、両方買った。「両方買うと面白いよ!」、とも明記されているからである。「差分」箇所に仕掛けがあるのであろう、と、推測できた。

 そして、その通りだった。予想通りである。

 しかし、全く納得出来ない。「90%同一」の、「同一部分」には、本体を成すマンガ作品群の(事実上)「全て」が含まれる。差分箇所は、(細かい点を別にすれば、)巻末の「今さら誰にも聞けなかったコンピュータの全て(講師:川崎ぶら)」である。ここでは、同一の話題について、「Mac版」ではMac(アップル)の立場から書いてウィンテルを誹謗し、「Win版」ではウィンテルの立場から書いてMacを誹謗しているのである。つまり、この2冊は、完全に「対」になっているのだ。

 そして、この「差分箇所」が、全然面白くないのである。

 いまさらGUIの本家争いの主張など、読む必要があるであろうか? 少なくとも、「唐沢なをき」の「漫画単行本」で読まされる必然性は、全く無い。この程度の文章なら誰が書いても同じ、という程度の、無個性な内容なのだ。

 「川崎ぶら」氏の正体は知らないが、「対」で作った2冊の「漫画単行本」の差分箇所が「文章」である、という時点で、既に論外だと思うし、その文章が水準以下ときては、なにをか言わんや。漫画家は漫画で勝負すべきである。

 2冊を照合してみた。やはり「漫画」は同一である。セレクトして収録しわけるのが、普通の礼儀であろう。あるいは、全く同一と見せかけて、僅かに(気づかれない程度に)手を入れるとか。そういう「仕掛け」は、全くないのだ。

 この「本体の仕掛けのなさ」がコンセプトである、ということは、理解できる。わざと、(ほぼ)全く同じ本を同時出版したのだ、ということは。「禁じ手」を片端から破ってきた唐沢なをきなのだから、この程度の「悪ふざけ」は、アリなのだろうとも、思う。

 しかしそれでもなお、私は納得できない。

 何よりも腹が立つのは、「熱心なファン」であればあるほど、「必ず、2冊とも買う」、ということが、販売側に「見切られている」ということである。漫画作品の「二重売り」としか、言いようがない。

 また、仮に、熱心なファンではなくて、片方しか買わなかった人でも、ちょっと頭を働かせれば、この「今さら誰にも聞けなかったコンピュータの全て」の「いびつさ」には気が付くはずであって、つまり、2冊買わないと「完結しない」ことが判るはずなのだ。

 だから、「帯で警告されているのだから、どちらか一方だけ買えばいいではないか、二重買いする危険は、あらかじめ回避可能ではないか」、という「エクスキューズ」は、ただの詭弁に過ぎないのである。

 恐らく、マニアであればあるほど、この「悪ふざけ」に寛大であろう。なぜならマニア(あるいはコレクター)は、仮に内容が同じであっても、全ての単行本(時には雑誌も)を買い集めるものだからだ。例え単なる改装本に過ぎなくても、である。

 しかし、それは今回の「悪ふざけ」とは、全く事情が異なる。例え収録作品が同じであっても、時を経て刊行された2冊の本は、「異なる(あるいは新たな)」読者に対して呼びかけている、「異なる」本なのである。それは確実に別個の存在意義と価値を持つ。最初から「二重化」されている、というのは、はっきり言って、異常事態である。

 私は、3割がた納得しつつ、7割がた怒り狂っている。この「3割」故に、第2巻(今回の2冊は、両方とも「第1巻」なのである)が出ても、両方買うであろう。(上述のように、片方買っただけでは、全貌が判らないのだ。)しかし「7割」の私は、作者に警告する。

 もう少し、丁寧な仕事をしなさい。二重化するならするで、しっかりと手を入れなさい。「唐沢なをき」であれば、なんでも許されるわけではない。こんなことを続けていれば、いずれしっぺ返しを食らう。そのとき、一番不幸な目に遭うのは、われわれ、愛読者なのである。

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*1999年03月31日:「楽器商法」誌


 「楽器商法」という、楽器業界の「業界誌」の編集部から電話が来た。

 実は数週間前に、FAXを送っていた。それに対する返答なのである。

 この月刊誌に、とあるコラム(無署名)が連載されているのだが、まぁもともと、対して面白い内容ではなかったのだが、数ヶ月(半年以上?)前から、目を覆わんばかりに酷い内容になってしまった。国語辞典からの抜き書きだけ。あるいは新聞記事の切り貼りだけ。それでも、そこに選択眼が感じられれば(すなわち、意味のあるコラージュであれば)、独自の著作物として認めることも出来るのだが..全くの無内容、単なるホワイトノイズと化してしまったのである。あまりに腹が立ったので、それを叱責するFAXを送った、というわけ。こんな連載は終わらせて、かわりに広告でも載せたらどうだ、と。

 それに対する返答というか、言い訳というか。まぁ、しどろもどろの電話ではあった。「うー」とか「あー」とか言っている時間の方が、長いのである。そっちから電話してきたんだから、草稿を書いてからにしろとは言わないが、あらかじめ少しはまとめておけってば。

 その一方で、電話してきた気持ちは、良く判る。珍しくも反応してきた読者だからだ。その編集者も言っていたが、電話とFAXと葉書とを問わず、読者からの反応は皆無に近いらしい。例え「叱責」であっても、反応してくれた読者はありがたいのだ。

 「上京される機会がありましたら、是非とも弊社に立ち寄っていただいて、内部から見た楽器業界の現在や未来について、お話してください」と頼まれたが、そんなきわどい話を、滅多なことでできるわけ無いでしょ。[;^J^] 適当に相づちを打っておいて、電話を切った。

 くだんのコラム、執筆者は社長だそうである。[;^J^]

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*1999年04月01日:書き換え可能な掲示板について


 数日前に、「Tezuka Osamu World」の「Communication Space」が、大幅に改悪された。私は目を疑った。

 いわゆる「掲示板」なのだが、各書き込みについて、「Follow」ボタンの他に「Edit」ボタンがついているのである。書き込み時に入力したパスワードを入力すれば、あとからその書き込みを「書き換える」ことが出来るのである。

 驚くべきことである。そしてさらに驚くべき(というか、呆れる)ことには、この掲示板の参加者の多くは、この仕組みを「便利である」として歓迎しているらしいのだ!

 これがいかに「まずい」システムであるか、この日記の読者なら、大多数の人には説明するまでも無いだろうが、判らない人もいると思うので、以下に3点、述べる。

 まず、善意のケース。

 ある書き込みについて、その誤りを正すフォローの書き込みがついたとする。それは例えば書名や発行日などのデータの誤りかも知れない。最初の書き込みをした人は誠実な性格の持ち主なので、誤ったデータの書き込みを掲示し続けるのは読者に対して迷惑である、と、最初の書き込みの中の誤ったデータを、正しいデータに修正したとする。ここまでは良い。では、フォローした書き込みの立場はどうなる? この時点から読み始めた人にとっては、全く意味不明の(あるいは「誤った」)フォローではないか。「全体として、正しいデータ(あるいは、妥当な書き込み)だけが存在している」状態を維持したいのであれば、上記の「Edit」がなされた時点で、フォローの書き込みは削除すべきである。誰がそれを行う? そんなことが可能か?

 「過去の書き込みを書き直す」というシステムが無い場合は、その書き込みの誤りが指摘された時点で、あらためて、その修正を取り入れた「正しい」書き込みを、新規に「書き込み」し直すことになる。一見、冗長なようだが、このシステムは、読者の側から見ると、極めて合理的である。なぜなら、過去の書き込みを読み返す必要が無いからだ。実際、掲示板においては、ほとんどの読者は最新の書き込みを追いかけ続けるだけであって、過去の書き込みに遡ることはしない(その必要が無い)ものなのである。

 この「Edit」可能なシステムにおいては、正しい情報を得ようとすれば、論理的には、「常に、全ての書き込みを、最初から読み返し続けなければならない」のである。

 無論、こんなことは全く不可能なことである。回避策も、ある。過去の書き込みを書き換えた人は、「何番の書き込みを書き直しました」という、新規の書き込みをして、告知すればいいのである。また、その書き換えられた当該書き込みには、「誰それさんの何番のフォローを取り入れて、書き換えました。ですから、その誰それさんの書き込みは、既に現在の書き込み内容とは一致していませんので、ご承知おきください」、という「変更履歴」を、「書き換えるたびに」追加し続ければいいのである。

 やればいい。私は別に、とめはしないよ。

 次に、悪意のケース。

 どんな「場」にも、必ず「悪意の」人間は現れる。それは避けようがないことである。

 そして、この「Edit可能な掲示板」は、そういう「悪意の人間」にとっては、格好の「遊び場」になるのだ。なぜなら、自分の過去の書き込みを、たやすく「粉飾」できるからだ。「え〜〜っ そんなこと言ってないよ〜〜っ」

 犯罪的な、あるいは、人を傷つける書き込みの、し放題。ほどほどに人々の目に触れて、目的を達したな、と判断できた時点で、さくっと内容を書き換える。

 私は去年の1月に、「記事のキャンセルについて」と題して、「「キャンセル」も「削除」も、できやしないのである。古い格言の再利用で恐縮だが、特にネットワークにおいては、ひとたび発した言葉は、取り返しがつかないのである」、と、述べた。(名文とは言わないが、大切な内容を含んでいるので、未読の方には一読をお薦めする。)

 しかし、この「取り返しが付かない」ということの(精神的・理念的根拠はともかく)「技術的根拠」の「例外」に近いのが、「掲示板への書き込み」なのである。メールやニュース(あるいは、パソコン通信の書き込み)とは異なり、ログ(証拠)が残りにくいのだ。「Edit可能な掲示板」では、この特性を悪用される恐れがある。

 第三に、(これが最も本質的なのだが、)書き込み(書き手)の水準を下げてしまうことを、指摘しなければならない。

 「この掲示板は後で修正ができるので、気楽に書き込めますね。大変良いと思います。」

 こんな書き込みがなされる掲示板に、どんな未来があるのか。敷居を下げるのは、良い。しかしこれでは下げすぎだ。どうせ取り返しが(取り消しが)効くのだからと、無責任な赤ちゃんのような書き込みで溢れることになる。


付記:

 「あとからEdit可能なコメントトゥリー」というのは、業務用のグループウェアでは、ありうるシステムである。(あったような気がする。)しかしこのケースでは、「読者と書き込み者の全員が、常に全貌を把握している(全部の書き込みを読み返し続けている)」ことを前提としていると考えてよい。(なにしろ、「仕事」なのである。)そして「仕事」である以上、「この掲示板は後で修正ができるので、気楽に書き込めますね。大変良いと思います」などという無責任な態度は、そもそも想定されていないのである。

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*1999年04月02日:人間ドックの意外な結果


 今日は楽しい人間ドック。例年、大の苦手としているエコー検査(ローションのようなものを、胸から腹から脇腹まで塗りたくられて、接触端末で、胸から腹から脇腹までグリグリ揉まれまくる、という、人一倍感じやすくてくすぐったがりの私には、地獄のような検査)も、今年は、若くてナイスな女性にしてもらったので、オッケーであった。[^J^]

 検査結果。ちょっと体重が増えたほかは、ほぼ全ての数値が、横這いか好転しているのだが、(中性脂肪にいたっては減りすぎた位である、)従来唯一、正常値から逸脱していた、肝臓のγ−GTP値がほとんど半減し、ほぼ正常圏内に戻ってきた。(逆算しないやうに。)

 「節酒と休肝日の実施のたまものですよ。これだけ減らせたのは、素晴らしいことです」、と、誉められたのだが..

 ..身に憶えがない。[;^J^]

 普通の人よりは、明らかに多量のアルコールを、(休肝日がゼロとは言わないが)ほとんど毎日、飲み続けているぞ。何故減ったんだ? 多いとは言っても、ある限度を越えることは皆無に等しい(それ以前に眠ってしまう)のが、効いているのか? 肉よりも魚を選んで食べているからか?(これが影響するのは、コレステロールだと思うが。)

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*1999年04月03日:「未知との遭遇」


 レンタルビデオで観る、「こんなメジャー映画をまだ観ていなかったのか」シリーズ、第n弾。「未知との遭遇」である。言い訳はしないよ。[;^J^]

 ..それにしても、これ..どこが面白いの? [;^J^]

 歴史的意義は、十分、承知している。何よりも、従来、巨人から小人、ヒューマノイドからロボット型まで、実にバリエーション豊かだった「宇宙人目撃報告」が、この映画の公開以降、ほぼ(「未知との遭遇」に登場した)「グレイ」型に統一されたことが大きい。つまり、地球を訪れる宇宙人を「絞り込んだ」のであるから、その影響力たるや、まさに宇宙的規模である..

 ..それはさておき。

 ビジュアル的にも、これだけ印象的なUFOイメージが、それ以前には(恐らく)存在していなかった、ということは、認めなければならない。「音楽」による交信、というアイデアも、それなりに目新しかったであろう。しかし..

 ..ほんとに、こんな脚本でオッケーだと思っていたのか?

 UFO系の人たちが、どういう評価をしているのかは知らないが..「ビリーバーの祝祭」、か。何ごとも起こらない。何ごとも始まらない。

 こういう、「一度は観なければならないが、一度観れば十分」という映画は、実に嬉しい。これでもう一生、2時間弱という時間を割く必要は、なくなったのである。

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*1999年04月04日:「アルゴ探検隊の大冒険」


 今夜のレンタルビデオは、「アルゴ探検隊の大冒険」。これはそれほどメジャーでもないが、初期のSFX作品として、その筋では有名。素材はもちろん、ギリシア神話。英語の映画だから、主人公は「ジェーソン」となるのだが、これは「イアーソーン」でないと、やはり感じがでないなぁ。

 古色蒼然としてはいるが、問題なく楽しめる娯楽作。「青銅の巨人タロス」、「ピーネウスとハルピュイアイ」、「シュンプーレガデス(撃ち合い岩、吠える岩)」、と、エピソードが続き、黄金の羊の裘(かわごろも)を守る龍(ヒュードラーに見える)を退治したのち、その龍の歯から骸骨兵士たちが誕生(発生)し、有名な骸骨チャンバラシーンになる。少しでもSFX(特撮)に関心ある人なら、この映画自体は観ていなくても、このシーンのスチール写真には見覚えがあるはずである。今の目で観れば、それは確かにぎこちない動きだが、当時は、驚くべきものであったであろう。今でも楽しめるのは、技術だけでなく、「夢」に満ちあふれているからである。

 ..で、この骸骨チャンバラで、映画は終わる。あらま [;^J^]。このあと、帰国してからの修羅場が凄絶なんだけどなー。まぁ、映画の中でゼウスが言っているように、「また別の冒険」ということなのである。天上(オリュンポス)の描写が、いかにも安っぽいが、まぁ人間くさくてなんぼのギリシア神話なんだから、オッケーでしょう。

 細かいことだが、登場人物が、みな「横泳ぎ」をしている点に、感心した。クロール等は近代泳法なのである。(古代ギリシア人が横泳ぎをしていた、という証拠(史実)があるのかどうかは、知らないが。)

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Apr 7 1999 
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