*1998年10月19日:オタクが文化を救う
*1998年10月20日:筆写について
*1998年10月21日:幸福な人々
*1998年10月22日:jpがjunetだった頃
*1998年10月23日:人の値段・機械の値段
*1998年10月24日:ムジカチェレステを聴く
*1998年10月25日:小林研一郎/浜松交響楽団を聴く
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*1998年10月19日:オタクが文化を救う


 先日は、未知の曲を聴く前には「図書室で「名曲解説全集」のその曲の項目を丸写しした」、という想い出話を紹介した。しかし、若き貧しき日々の熱意を示すエピソードは、これだけではない。

 FMやAMの音楽番組を、「書き込みながら」聴くのである。その「名曲解説全集」の丸写しノートに、あるいは、(ごくまれな例だが)スコアを所有していればスコアに、あるいは、(極めて多い例だったが)「名曲解説全集」にも収録されていない、事前の情報が全く無い曲であれば、白紙に。

 どういう音楽であるか、速記していくのである。「低弦の上昇→下降、2回、木管、ホルン、和音、>、繰り返し、ここまで1st?」という具合に。新たな主題が登場するたびに、音楽の局面が変わるたびに、可能ならばラップタイムと共に。

 それは、音楽を「一撃で憶える」ためであった。録音機を持っていなかったのだ。ラジオで聴く音楽とは、文字どおり、一期一会だったのである。

 (ひるがえって、今は..何不自由なく買い込んだCDは、封も切らずに積まれているし、緊張感もなく聴き流した音楽は、さっぱり耳にも記憶にも残らず、どうかすると二度聴いても思い出せない。私は、少年・倉田わたるに唾を吐きかけられるような人間に、成り下がってしまった..)

 リアルタイムで記録しつつ視聴する、とくれば、思い出す人もいよう。「ひょっこりひょうたん島熱中ノート」(伊藤悟)である。この著者は、幼き日々に「ひょっこりひょうたん島」を、「全てノートに克明に記録しつつ」観たのである! 台詞だけではなく、人物の配置から舞台装置から音楽に至るまで!

 のちに、(当時のテレビ放送は、ビデオもフィルムもほぼ全く残されていなかったが故に)この名作ドラマも永久に失われてしまった、と、人々が嘆いていたとき、この(元)少年の大部のノートから、見事に、「ひょっこりひょうたん島」が復元されたのであった!

 ノートから脚本が起こされ、人形とセットが作られ、当時の声優たちが呼び戻され..これを「奇跡」と呼ぶのは、あなたの御自由だが、私はむしろ「オタクの勝利」である、と、主張したい。なんびとたりとも、こんなことは為し得なかったのである。ひとりの「オタク」を除いては!

 文化を記録して、次の時代に伝える。あるいは、前の時代の文化を復元する。これこそ、オタクの最も誇るべき仕事であると同時に、多くの場合、オタクでなければ出来ない仕事なのだ。

 そして私も、微力ながら、そういう仕事の一端を担っているつもりである。

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*1998年10月20日:筆写について


 昨日の続き。「筆写」と言えばもう一例、私が思い出すのが、「南方熊楠」である。彼の手記を読んでいると、とにかく「文献からの抜き書き」と「粘菌の顕微鏡像のスケッチ」に費やしている時間が長いのに、驚かされる。

 「コピーとカメラがある時代に生まれていれば、彼は数倍・数十倍の仕事を残せただろうに..」と嘆ずるのは、どうやら私の早合点らしい。熊楠自身、筆写するからこそ憶えるのだ、と、どこかに書いていたように思う。これは別に特別なことでもなく、「手を動かして憶えろ」というのは、私自身、子どもの頃から叩き込まれてきた勉強法ではあるけれど。(昨今の教育法は知らないが。)

 熊楠を読む遥か以前から読書カードを作っていた私であるが、彼の言葉に啓発されて、書籍から読書カードへの「抜き書き」の量が増えたのは、事実である。

 まぁ、その書籍の読後感あるいは批判・批評を記す、自分の言葉を探しているよりは、(どうかすると、これだけで一日から数日かかるのであるし、)琴線に引っかかってポストイットしておいた文章を抜き書きしておく方が、遥かに手っ取り早いからだ..というのが実状なのではあるが、それにしても、これにもやはり時間がかかってしまう。もともと本を読むのは遅い方なので、積読の山の成長速度が、さらに加速する..

 で、それだけ時間をかけた分、頭に入っているか、身についているか、と問われれば..読書カード(ファイル)を読み返すたびに、新鮮な驚きと発見に、心打たれているのであった。[;^J^]

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*1998年10月21日:幸福な人々


 これはネット社会に限らず、どんな集団(小社会)でも起こりうる現象だと思うが..

 ある「場」が..例えばネットニュースのニュースグループ、メーリングリスト、ニフのフォーラムや会議室やパティオ、ホームページの掲示板、等などが、いかに素晴らしい場所であるか、その「場」を構成する人々によって褒め称えられることが、珍しくない。

 罪も無い(集団)自己満足であるから、仮に異義を感じても、口をさしはさむような野暮はしないが..

 まず、会話(議論)をしているどうし、お互いを称え合い、ついで、彼らの会話(議論)を読んでいる読者(すなわち、その「場」の構成者)を称え、それに呼応して、読者が彼ら議論していた人々を称え、さらにコーラスの輪は広がり、その「場」自体を称揚する大合唱が響きわたる..

 ..まぁ大概の場合は、この段取りである。

 はたから読んでいて可笑しいのは、彼らも、その「場」も、客観的に見て、全然、素晴らしくないからである。上述したように、だからと言って、私は邪魔をしたりはしない。

 面白い見世物だからだ。

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*1998年10月22日:jpがjunetだった頃


 「自分が属している“場”を褒め称える」で思い出したが、現在、jpとか(ニュースグループのトップカテゴリーから)fjとか言われている「社会」が、まだ「junet」であった頃の、ひとつの発言を憶えている。

 「とにかく、junetって、すごい可能性があると思うんです。なんといっても、構成メンバーのレベルが高いし」。

 「fjの構成メンバーのレベルが高い」..今では完全に無意味、あるいは意味不明であろう。しかし当時は、それなりの裏付けも説得力もある言葉だったのである。

 10年位昔のことだ。ニフに今ほどの勢力はなく、あるいはPC−VANの後塵を拝していたかも知れない。ニフティサーブ、PC−VAN、アスキーネット、日経MIXあたりが、(ユーザー数の違いはあっても)拮抗していたような印象もある。そして何より、「パソコン通信」と言えば「草の根ネット」の時代だった。

 もちろん、インターネットのプロバイダーなど、ただの一社もなかった。そういう概念すら、存在しなかったのである。

 そして、パソコン通信が、規模の大小の差こそあれ、結局はサーバーPCの掲示板に過ぎない(今でも本質的には同様な)ローカルなシステムであるのに対し、junetは、「加盟組織の、コンピュータ間のネットワーク」であり、確かに、氏素性が全く異なるものだったのである。

 その「組織」とは、「大学」か「企業」か「研究所」か「官公庁」であった。例外は極めて少なかった。

 だから、「構成員のレベルが高い」というのは、根拠の無い言い方では無かったのである。少なくとも、PC(かワープロ)とモデムさえ持っていれば、誰でも参加できた(できる)パソコン通信とは異なり、たとえ「三流大学」でも「三流企業」でも、入学(入社)試験だけは通ってきた連中である。

 しかし本質的なのは、彼らの学力などではない。当時のjunetは、現在のjp(fj)よりも、桁外れに揉め事(というか「馬鹿者」)が少なかったが、それは、構成メンバー個々人の資質の問題というよりは..システムの問題だったのである。

 つまり、「組織」の「名」を背負って、参加していたのである。無論、「個人の責任で」「個人の資格で」発言している。それは、今も昔も変わりはない。しかし、会社のコンピューター資源を使い、会社の通信コストを使って発言しているのである。アドレスには、当然、社名が入る。この状況で、完全に「一個人として」振る舞うことを許すのは、相当、鷹揚な企業であろう。「検閲」があったり「発言の際に上司の許可が必要」であったりする企業は当時からあって物議をかもしていたし、今でも存在するらしいが、それを「言論の自由の弾圧」という視点からしか見られないのは、あまりに幼すぎる。(私の所属している組織は、当時からかなり自由な振舞いを黙認していたが、それでも、「社会人として企業人として恥ずかしくない言動」を、陰に陽に求められてきたし、私はそれが当然であると思う。)

 junetで「馬鹿」をしでかした場合は、上司(大学であれば指導教官)のチェックが入るのである。(直接の上司・教官ではなく、組織全体のネットワーク統括責任者であることもある。)悪質な場合は注意では済まず、アカウントの剥奪や投稿禁止に至った例も、枚挙に暇が無い。(私の所属している組織では、幸いにもそういう例はなかったと思うが、私が知らないだけかも知れない。[;^.^])繰り返すが、これは言論弾圧などではなく、「組織による個人の圧殺」でもないのである。

 適切な例えではないかも知れないが、オフタイムのドライブで少々羽目を外しても、お咎めは受けないが、社有車で暴走して警察沙汰になれば、ただでは済まないであろう。

 junetに、「個人」が接続してきた時には、本当に驚いたが..私の感覚では、「ニフティ」が本格的に接続してきた時に、これら全てが崩れ去った。もちろん、今でも(当時よりも遥かに多数の)企業や大学や官公庁が接続しており、その内部では、上記の規律で律せられていると思うのだが..膨大な数の個人ユーザーの中に、常に一定数存在する「馬鹿」を指導する(し得る)のは、誰なのか?

 かくいう私のメールアドレスは、かつては、kurata@roland.co.jp だった。(今でも、会社人としてのアドレスは、こちらである。)メールサーバーは、社内にあった。

 今では、プライベートなメールアドレスは、kurata@rinc.or.jp である。私の発言をチェックする人はいない。私を律するのは、私自身である。私にはそれが出来るから、このメールアドレスを選んだのである。

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*1998年10月23日:人の値段・機械の値段


 ニフの、とあるフォーラムのとある会議室で、色覚異常者に適した職業についての話題が登っていた。

 カラーの航空写真から敵の基地のミサイルを識別するのに有効だという理由から強度の赤緑色盲の人を選別して使っている、とかいう、嘘か本当か判らない噂話であるが..「その程度の作業ならば、コンピュータで画像処理をしたほうが確実である」という、あったり前の突っ込みに対して、「機械は作るのに高価だけど、人間は製造だけならタダでできる」という、フォローがついた。

 「銀英伝」(読んでない)に出てきた台詞らしいが..本当かなぁ? コンテクストが不明なので評価不能だが、「“使える人間”がただで出来る」と書かれていたとすると、作者はとんでもない無知であるか、あるいは何か勘違いしている。(この台詞を吐いた作中人物が、無知である、という設定なのだろう。恐らく。)

 人間ひとり“製造”して“兵器として使える”水準にまで仕上げるのに要する費用は、数千万円オーダーである。機械を作る方が、ずっと廉くつく。

 もっと身近な例をあげれば、新入社員の初任給。この金額で、どれほど高性能なPCが買えるか、考えてみるといい。使えない新人の一年目のために、これを12回(+賞与)払い続けなければならないのである。(一瞬、眩暈がしたが、特定個人を想起したわけではない。[;^.^])

 それをさらに数十回繰り返してもペイする、と、判断するからこそ、会社は人を雇うのである。(どれほど金を積んでも)機械にはできない仕事をしてくれる、と、期待すればこそである。

 だからもしも、あなたが、機械可換な仕事しかしていないのであれば..

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*1998年10月24日:ムジカチェレステを聴く


 ニフのR氏から誘われていた、氏の所属する「ムジカチェレステ」という合唱団のコンサートに行く。クリエート浜松というビルの、1階のオープンスペースである。

 早く着いたので、暇つぶしといってはなんだが、3階で開催されていた展覧会を、1時間ほど観て回る。「チャーチル会浜松 秋の絵画展」、「ルミナリークラブ写真展」、「耕陶会作陶展(陶器)」、それと、展示会の名称は失念したが、能面展。

 全て無料の、アマチュアの団体の展示会である。(無論、指導教官的立場のプロの作品も、含まれている。)そのためか、技術的にはともかく、とても親密な雰囲気である。何かやりたいなぁ..

 6時からムジカチェレステ。10名のア・カペラ。モンテベルディ(16〜7世紀)とフランスの16世紀のシャンソン。

 もしもあなたがモンテベルディの名を知らないのであれば、16〜7世紀という時代から、さぞや古色蒼然とした音楽に違いあるまい、と、想像されるであろう。私も昔はそうだった。

 しかし5年以上前、初めて彼の曲集のCDを聴いた時には、仰天してしまった。なによりも、素晴らしく近代的でスマートなのである。生気ある歌詞につけられた、躍動するリズムと(時には、ウィーン古典派を遥かに越えて、ドビュッシーすら連想させる)和声進行。機知にとんだ楽曲進行、そのアイデア。

 だからこそ、難しいのだろうとも思う。ムジカチェレステの演奏は、序盤は少々あやしく、後半でぐっと良くなったのだが、万全の出来とは言い難かったと思う。素敵な瞬間は何度となくあったのだが、1曲の最初から最後まで素敵な瞬間、という演奏は、なかった。

 課題は、リズムかハーモニーか言葉か? そこまでは私には判らなかった。しかしとても幸福な時間を過ごさせていただいた。また、フランス・シャンソンの「鳥の歌」(ジャヌカン)は、素敵な出来であった。

 ビヤホールHでの、打ち上げ宴会に同席させていただいたが、これも楽しいものであった。しかし、中断しているボイトレを、再開しないとなぁ..(今日のコンサートに、ボイトレのT先生も見えられていたのだが、挨拶をしそびれてしまったのである..)

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*1998年10月25日:小林研一郎/浜松交響楽団を聴く


 今夜は、アクトシティの大ホールで、小林研一郎指揮する浜松交響楽団である。浜響を聴くのは、もしかすると初めてだったかも知れない。アマチュアの団体である。

 まず、「わが祖国」(スメタナ)から、「高い城」と「モルダウ」。昨夜もそうだったが、多くのコンサートがそうであるように、序盤(前半)は、いまいちである。「モルダウ」を例に取ると、決して悪い出来ではないのだが、例えば中間の舞曲の個所で、縦の線が揃わない。弦楽器奏者たちが、バラバラのリズム感覚で弾いているのである。もちろん、マクロに聴けば音楽として破綻はしていないのだが、とても重くて足を引き摺っている感じ。このあたりが、プロとアマの違いか..と、半ば納得して聴いていたのだが..

 休憩後、本プロのショスタコーヴィチの「交響曲 第5番」が始まった時点で、何事が起こったか、と、座り直してしまった。見違える(聴き違える)ような緊張感である。この楽章の最後まで、そして、最後の楽章まで、崩れなかった。管のソロに、小さな傷はあったが、本質的ではない。ちょっと、アマチュア離れしている。久しぶりに、「ブラボ!」と叫んだ。

 これが浜響の平均的な実力なのか、コバケン効果なのかは判らないが、リピーターになる値打ちはある。文化的に豊かとは言えない浜松だが、これは誇りうる楽団だ。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Oct 29 1998 
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