*1998年07月13日:自民惨敗/坂本リスト
*1998年07月14日:過去の遺産という名の地獄
*1998年07月15日:ある論客
*1998年07月16日:「三つ目がとおる」を片づける
*1998年07月17日:ゲームのルール
*1998年07月18日:漫画読売誌/どんぐり行進曲/ケン1探偵長/写GIRL/ながい窖/ナスビ女王/雑巾と宝石、等調査
*1998年07月19日:Tさん宅を再訪する
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*1998年07月13日:自民惨敗/坂本リスト


 久々に明るいニュース。

 参院選で自民惨敗。

 自民党がどうこうではなく、現状があんまりな場合、日本の有権者は、それに対する拒絶表明が出来るということを示せたことが、明るいニュースなのである。

 但し、既に指摘されているかと思うが、多くの有権者が変化を求めているとは思えない。むしろ、「今までの(不況前の)生活水準に“戻せ”」という、極めて保守的(生活防衛的)な意思表明なのであろう。

 (備忘として記す。躍進したのは、民主、共産。社民の(消え入らんばかりの)退潮は、もはや見出しにすらならない。)

 閑話休題。

 ネットワークのあちこち(ネットニュース、メーリングリスト、ニフのフォーラム、Webの掲示板、など)を見ていて痛感する、手塚治虫FAQの最たるもの。それは、「ブラック・ジャックの未収録エピソード」に関する質問である。ほぼ毎週、どこかで誰かが尋ねている。

 私の「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」を参照すれば、全集に何が収録されていて何が未収録なのかは、判る。しかし、「文庫版」についての情報は、全く無かった。

 全集の作品目録なのだから、本来守備範囲外なのだが、これほど頻繁に繰り返される質問に対する回答は、用意しておきたい。そこで、ブラック・ジャックの作品リストとしては最も信頼できる、坂本智彦氏のリストを、氏の承諾を得て「付録G」として掲載した。

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*1998年07月14日:過去の遺産という名の地獄


 ネットニュースの fj.rec.movies に、「日本の夏を感じる、ちょっといいぞと感じる映画を紹介してください」という質問が。

 いいねぇ、こういう探しかた。実に伸びやかで、余裕がある。うらやましい。

 多分、この人(学生?)は、あまりたくさん映画を観ていないのではないか、と思うのだ。にも関わらず、「まず、基礎的歴史的な名作・傑作だけは押さえてなくては」とか「とにかく常識を身につけないと」という強迫観念に捕らわれていない。

 「映画」に限ったことではない。「読書」だろうと「音楽」だろうと、この「(人類の)過去の遺産一式を、まず吸収してから」という罠に嵌まると、地獄に落ちる。私は「音楽」では、この底無し沼から這い出せたが、今なお「読書」では、完全には抜け出しきれていない。

 地獄である理由は、自明であろう。きりがないからである。不可能だからである。「『音楽』では地獄から脱した」というのも、聴くべきものは聴き尽くしたと言うことでは、もちろんなく、無理したって仕方が無い、と、諦めをつけることに成功したからである。

 実際、5年ほど前までの私のCDの買い方は、「名曲網羅主義」+「全集主義」だったのである。どういうことかというと、まず、多少とも名の知られている作品は、(当然、その曲を知っている人がいるわけで、その人と話をする時に不自由しないために)購入する。(いつなんどき聴き返す必要が生ずるか判らないので、実演や放送で聴くだけではだめで、なんらかのメディアで手元に置いておかなくてはならない。)次に、その曲が属するグループの作品群は、互いに関連している可能性があるので、これも全て購入する。

 すると、どういうことになるかと言うと..第一の原則から、例えば「交響曲第41番」(モーツァルト)「交響詩前奏曲」(リスト)「悲愴奏鳴曲」(ベートーヴェン)「美しき青きドナウ」(ヨハン・シュトラウスII世)「英雄ポロネーズ」(ショパン)を買うことになり、それによって、第二の原則から自動的に、「モーツァルト交響曲全集」と「リスト交響詩全集」と「ベートーヴェン・ピアノソナタ全集」と「ウィンナワルツ大全集」と「ショパン・ピアノ曲全集」を買うことになるのである。

 こんな無茶が続くはずがない。全うできるわけが無い。この底無し沼から這い出せたのは、ある友人のお陰である。彼は、学識豊かで幅の広いリスナー兼プレイヤー(ビオラ)であり、要するに実にバランスの良い、音楽愛好家の鏡なのであるが..なんと、ベートーヴェンの「英雄交響曲」を聴いたことが無いのである!

 それでも構わないのだ。誰もが知っている(と思われる)名曲を、「全て」聴く必要はないのだ。多少の「常識」が欠落していても、立派な趣味と見聞を組み立てることが出来る。そのことに気がついて..肩の力が抜けたのである。

 幸か不幸か、ありとあらゆる名曲を聴き尽くす前に、このことに気がついたので、未聴の名曲が、山ほど残っている。例えば、リヒアルト・シュトラウスの「アラベラ」や「ナクソス島のアリアドネ」、ペンデレツキの「クリスマス交響曲」などである。焦ることはない。機会を待って、ゆっくり聴いていけはいいのだ。死ぬまでに機会が訪れなければ..それは、縁が無かったに過ぎない..

 ..という、「賢明な諦観」に、「読書」ではいまだに到達できないのだ。「未読の必読書」の、膨大な積読と購入リストが、目の前に聳え立っている。それは、減るペースよりも増加するペースの方が(圧倒的に)速い、決して越えることの出来ない、絶望の壁だ。何故、「音楽」では「地獄」から抜け出せたのに、「読書」では駄目なのか?

 判らない。誰の言葉だか忘れたが、「人生は短い。この本を読むことはできても、あの本を読むことはできないのだ」という、永遠の呪詛と呼ぶほかはない、恐るべき宣告が、いまだに、雷鳴のごとく、耳の奥底でこだましている..

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*1998年07月15日:ある論客


 私が常駐している、ニフのとあるフォーラムで、何かと物議を醸す「論客」がいる。いつもいつも大人げ無い噛み付きかた(しかも的外れで被害妄想入っている)をするのだが、最近はほとんど可笑しい(面白い)ので、一度この「廃墟通信」で取り上げる、と、そのフォーラムの一部の人たちに予告したのだが..

 当該発言を読み返してみたら..可笑しいどころか馬鹿馬鹿しくなってしまい、なんでこんなもんを題材にしなくちゃならんのだ、しかし期待されているしな〜、という、廃墟通信始まって以来の事態に追い込まれてしまった。[;^J^] 口は災いの元である。

 まぁ、書く。

 もっとも、その論客の名前を出すつもりは無いし、発言の内容自体も取り上げない。一般的な「症例」のひとつとして触れるのみ。(だから、当該発言を引用あるいはポイントせずに批判するのはフェアではない、という原則は、クリアできているはずである。)

 多勢に無勢の論客がいたとする。彼の論旨は、時には正しく時には誤っているのだが、社会通念上受け入れられないような口調や、不可解な被害妄想(相手がいくつものハンドルを使い分けているのではないか、など)故、発言内容の当否に関わらず、全くの孤立無援であるとする。

 これは完全にどんづまりの状況である。何故なら彼の性格から考えて、彼の側からこの状況を“解き”にくることは考えられず、その他の全ての人々には、彼を救出する理由が無いからである。(例えば私などは、この状況を、極力長期間保持しようと発想する。面白いからである。)

 ここで、筆まめで世話焼きで、良く言えば面倒見が良く、悪く言えばおせっかいなアクティブメンバーが登場したとする。彼は事態を軟着陸させるべく、「あなたの学識豊かな書き込みが惜しい。くだらぬ悪口雑言はおよしなさい」と諭したとする。

 そこで、かの論客は、かの世話焼き氏の「学識豊か」発言に飛びつき、「いやぁ、それほどでも」。

 完全におかしいことが、読者にもお判りだと思う。この場合、「学識豊か」というのは、ただの方便なのである。仮に、かの論客が、実際に学識豊かであっても、そんなことは関係無いのである。「くだらぬ悪口雑言はおよしなさい」を導出するための、言葉の綾に過ぎない。かの論客は、間違いなく日本語ネイティブで、しかもかなりの年配であると推測されるのだが、この程度の文脈(というか、係り受け、成句に近い)を理解できないとは、不可解である。

 そして、このように自分を(学識豊かと認めてくれた)世話焼き氏“のみ”を「良識ある忠告者」として、一方的に称揚する。(その他の、自分に論破されぬ連中は、全て不正非道の輩なのである。)

 可能性はふたつ。ただの幼児か、度量が広い、相当な大人か。

 前者と推測する理由は、自明であろう。後者と推測する理由は..つまり、誰もが、(この記事で、私がくだくだしく書いたように)「これは子どもだ」、と、失笑して見限るであろう、という点にある。つまり、ここで議論が終わる。事態が収拾されるのだ。自分が笑い者になるのと引き換えに。

 これには相当な度胸がいる。正直、私には出来ない。「自分が悪者になる」ことくらい、いつでも出来る自信があるが、「自分が笑い者になる」なんて..しかし、敢えてそれをして、騒動を収めることが出来る人がいるとすれば..それは本当に尊敬に値する、大人だと思う。

 が、まぁ心配(?)するまでもなく、かの論客氏は、大人ではない。それは、「相手に非があることが明らかであれば、相手がそれを認めるまで、徹底的に叩く」という発言からも、明らかである。

 彼の数々の迷発言中、私がもっとも呆れたのが、これである。勝てる喧嘩は勝つまでやる、と言っているのである。

 私は、こんな無駄なことはしない。勝ちが見えたら、手を引く。あとは私が手を下すまでもなく、自滅するし、十分に自滅しない場合は、誰かがフォローして潰してくれる。私が「正しい」のだから、これは当然のことである。(これは、かの論客氏の場合、正しい議論を展開していても、誰も助けてくれないことを示してもいる。)

 負けの見えた相手をとことん追い込んでも、なんの名誉にもならない。誰も誉めてくれない。これは、子どもというより..臆病者の行動規範かも知れない..

 ..と、まぁ、素材は下らなかったが、少しは有意義な文章になったかな?(私は極力、無駄な文章を書きたくないのである。← これはこれで、こ・ど・も)

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*1998年07月16日:「三つ目がとおる」を片づける


 一日遅れて、今週の更新完了。手間取ったのは、「三つ目がとおる」の「ラスト3冊」の解説の推敲が終わっていなかったからである。(私は、原稿を書き上げてから、異なる段組で3回推敲する。これに非常に時間がかかるのだ。)

 これでようやく、「三つ目がとおる」を(全集未収録分を含めて)片づけたわけだ。順番からいくと、次は「ブラック・ジャック」か。気が遠くなる。[;^.^]

 一昨日から、「手塚治虫全史」(秋田書店)の作品リストのチェックを始めているが、まとまった時間が取れないので、これは相当時間がかかりそうだ..

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*1998年07月17日:ゲームのルール


 どうにも、立ち読みする気にすらならないのが、ベストセラー(らしい)「空想科学読本」である。あの、ウルトラセブン(だっけか?)の首が、衝撃波で吹き飛んでいる表紙(だか腰巻きだか)の本だ。

 どこか違う、と敬遠していたのだが、「と学会」のメンバーによる批判を読んで、そういうことか、と、思い至った。つまり、「自分で勝手にルールを作って、自分で勝手にそれに突っ込んでいる」らしいのである。

 以下、「空想科学読本」に対する批判ではない。(読んでいないのだから、批判できない。)「自分で勝手にルールを作って、自分で勝手にそれに突っ込んでいる」書籍に対する、批判である。

 それは、「鉄腕アトム大事典」(沖光正、晶文社)である。

 大変有用な事典なのだが、それにとどまることを良しとせず、「鉄腕アトムの謎」の解明に挑んでいるのであるが..その「謎」というのが..

 そもそも、手塚治虫は、鉄腕アトムの世界の未来史年表を作らなかった。従って、エピソードの前後関係も、しばしば判然としない。そこで著者は、「鉄腕アトムの諸エピソードは、作品世界の時系列に沿って発表された」(!)という、驚天動地の仮説を導入して、強引に、アトムの未来史年表を作ったのである。

 当然、矛盾や齟齬が、そこここで発生する。アトムの体の構造も、しょっちゅう変わる。それらをことごとく「鉄腕アトムの謎」として、鬼の首でも取ったように大騒ぎしているのである。こういうのは「謎」とは言わない。「謎の捏造」、あるいは「謎の導入」である。大体、考えるまでも無く、手塚治虫は行き当たりばったりに、その場その場で(締切を切り抜けるために [;^J^])お話をでっち上げていたのだから(これはもちろん、貶しているのではない)、それを時系列に整然と並べる、という仮定自体が、無茶苦茶である。

 この著作、データ的には便利に使わせていただいているし、私としては、十分、元は取れているのだが、それはそれとして、言うべきことは言わせていただいた。[_ _]

 ここまで書いて思い出したのが、ロゲルギスト(日本の物理学者らの共同ペンネーム)の、有名な「物理の散歩道」である。

 「第四 物理の散歩道」(岩波書店)に収録されている「SF映画鑑賞法」というエッセイで、まさに、「空想科学読本」が展開しているのであろう(と推測される)突っ込みを、いくつか行なっているのだが..

 例えば、「怪獣の密度」という節で、体重5万トンの怪獣が、どういう物質から出来ているのか、大体、地面に沈まずに歩くことができるのか、という考察をしているが、こんなのは面白くもなんともない。何故なら、「5万トン」という数字は、裏付けのない、ただのでっち上げだからである。映画製作者たちが、500トンじゃかっこつかないね、と、景気良くぶち上げた数字に過ぎないからである。(要するに、5千トンだろうが50万トンだろうが、この映画のストーリーにも本質にも、なんの影響も無い。)これは物理学の考察の対象にはならない数字だ。

 これに対して、「ミクロの決死圏」を扱っている節では、目をみはるような指摘がなされていた。ミクロの潜水艦は、あのような航行が可能か? レイノルズ数が非常に小さくなるので、粘性の影響が大きくなり、粘っこい油の中を動くような状態になるのではないか? という問題提起。これには驚いた。これは作品の設定の本質に関わる問題だからである。もちろん、自分で勝手な仮定を導入することもしていない。あくまでも、映画から読み取れた事実だけを前提とした議論なのである。(しかも、こんな指摘はくだらない揚げ足取りであって、この傑作映画の鑑賞にはなんら妨げにはならない、と、セルフフォローされている。)役者が違う。

 怪獣の体重で、さらに思い出したぞ。(こういう、しまりのない無限連想スタイルが、実は南方熊楠のマネだというのは、ここだけの話である。)ギャオス。平成ガメラのギャオスではなく、元祖ギャオス。(以下、例によって記憶だけで書くので、多少の事実誤認は大目に見ていただく。)

 ギャオスは生き血が好物で、太陽光線に弱いのである。そこで、夜間に襲来するギャオスを身動きできなくして、夜明けまで釘付けにする、という作戦が立案された。ホテルニューオータニの屋上の、回転する展望レストランの屋根に小さなプールを敷設して、(確か)牛の血をなみなみと湛えてギャオスをおびき寄せる。ギャオスが降り立ったら(通常は1時間に1回転くらいの展望レストランを)高速回転させてギャオスの目を回し、飛び立てなくする、という、痛快なシーンである。

 この時、これを立案した主人公の新聞記者は、「ギャオスの身長が**メートルだから..体重は27トン、か..」と、“計算尺”で計算したのである!

 まず、27トンという数字の“リアリティ”に驚いた。確かにそんなもんのはずである。5万トンが空を飛ぶはずがない。しかも..100トンでも50トンでもなく、27トン。この端数のリアルさ!

 そして、「計算尺」である! 当時小学生で、計算尺の使い方など知らなかった私には、計算尺とは「怪獣の身長から体重を計算できる装置」として刷り込まれたのであった。

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*1998年07月18日:漫画読売誌/どんぐり行進曲/ケン1探偵長/写GIRL/ながい窖/ナスビ女王/雑巾と宝石、等調査


 7時14分のひかりで、国会図書館。恒例の、手塚治虫調査である。

 まず、「漫画読売」誌の「最後の一戦(ああ、平和の女神!)」「兵隊貸します」。

 「少年クラブ」誌の「ハリケーンZ」は、前回、ざっと目を通しただけだったのだが、今日はコピーを取っておく。半年の連載期間中、58/08号のみ別冊付録に回されており、これはここでは読めない。しかしコレクターのTさんは(本誌掲載分は読まれていないが)この別冊付録を所有されている。つまり、国会図書館収蔵分とTコレクションと、両方合わせると、この全集未収録作品の全貌が、明らかになるのだ。この作品は、一部が貸本雑誌「炎」に再録されており、私はさらにその一部のコピーを持っているのだが、これが「少年クラブ」のオリジナル版と、かなり違う(描き直されている)のも、興味深い。

 同じく「少年クラブ」誌の「どんぐり行進曲」と「ケン1探偵長」をチェック。特に後者は、以前から気になっていた。

 単行本にも矛先を向け、まず「写GIRL」の「'80」、「'81」、「'82」。これは豪華な体裁のヌード写真アンソロジーで、素晴らしい作品が多数収録されている。

 カバーイラストの仕事をいくつかしているので、それをチェックしようと思ったが、国会図書館では、単行本のカバーは捨てられているのであった。話にならん。この他、極めて細々としたエッセイやイラストを数点チェック。

 聖教新聞、芸生新聞、山形新聞など、新聞掲載のイラストやヒトコマ漫画を6点チェック。これで、新聞関係の調査は、ひとまず完了とする。まだ残っているのだが、あとは、国会図書館に収蔵されていないもの、切り取りの被害にあっているもの、「北海道新聞 60/?」のように調べる気力が起きないもの(たったヒトコマを探すために1年分スキャンする気にはなれない)、「共同通信」のように具体的にはどの新聞に載っているかわからないもの、さらに、どうしても資料(リスト)に記載されている号に見つけられないもの、ばかりである。

 最後の例は、広告カットの類であり、その広告自体を発見できないのだ。同じ新聞でも、地方により版により、広告の掲載日が前後する(あるいは、そもそも掲載されなかったりする)のは珍しいことではないので、(そして、国会図書館には、あらゆる版が収蔵されているわけではないので、)この状態にはまってしまったら、これを発掘するのは極めて困難なのだ。(という事情から、たとえ該当号に現物を発見できなくても、リストに記載されているデータ(初出年月日)が誤っているとは言い切れないので、“初出年月日不明”とはせず、“?”を付すにとどめる。)

 ひとまず完了とはいえ、現在少しずつ照合中の「手塚治虫全史」の作品リストに、新たな未発見作品が追加されていたら、それはもちろんチェックする。また、新聞関係以外は、まだまだ残っている。

 「週刊文春」の「くるま110バン こちらJAF」は、前半2ヶ月分は閲覧できたが、後半2ヶ月分は切り取られている。

 さらに、「サンデー毎日」誌の「ながい窖」、「少女」誌の「ナスビ女王」、「小説サロン」誌の「雑巾と宝石」まで調べたところで、時間切れ。

 閉館後、渋谷まんだらけへ。ここ数回スカが続いていたので、期待していなかったのだが、「MONTHLY PLANET」(横山えいじ、早川書房)「スクランブル効果」(横山えいじ、大都社)「るんるんカンパニー 2」(とり・みき、少年チャンピオンコミックス)と、探求本が3冊も見つかったので、御祝儀に「まんがの逆襲」(唐沢俊一、ベネッセ)も買っておく。

 横浜の実家へ。

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*1998年07月19日:Tさん宅を再訪する


 先月同様、実家からバスで中山駅に出て、そこに車で迎えに来ていただく。

 まず、「ハリケーンZ」のコピーを補完しあう。私からは、58/08号を除く本誌掲載分のコピー、Tさんからは、58/08号の別冊付録のコピー。これでようやく、話の全貌が見えた。

 これが全集に収録されなかったのは、フリークスを題材にしているからだと思うが..しかしこの程度で駄目だとすると、江戸川乱歩は全滅である。作者にも作品にも、差別意識が無いことは言うまでもない。

 雑誌付録を86冊チェック。

 「少年ブック」誌の「フライングベン」、「冒険王」誌の「魔神ガロン」は、初出データの一部が曖昧だったのだが、ほぼ明らかになった。「少年画報」誌の「マグマ大使」は、初出データの詳細が、ほぼ全面的に不明だった(初出誌を全く閲覧できていなかった)のだが、ほぼ半数の別冊付録を読むことができ、これでかなりクリアになった。特に、全集未収録の最終エピソード「サイクロップス編」を、全て読むことができたのが大きい。

 さらに、「日の丸」誌の「ナンバー7」、「少年画報」誌の「スーパー太平記」等、十数作品をチェック。あと一日で、Tコレクションの雑誌の付録については、全て目を通せそうだ。(単行本、ファンジン、切り抜きなどのチェックには、さらに数日を要しよう。)

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 23 1998 
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