*1997年11月10日:書籍の並べ方
*1997年11月11日:楽器も商品
*1997年11月12日:「記事を憎んで人を憎まず」
*1997年11月13日:なかなか使えるマンガ古書店
*1997年11月14日:街に出る人、出ない人
*1997年11月15日:ぼくの孫悟空/走れ! クロノス/ナンバー7/魔神ガロン、および、スコラ等調査
*1997年11月16日:鏡に映る顔
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*1997年11月10日:書籍の並べ方


 書店の店頭で、気になって気になって仕方が無いことがある。

 それは、(縦書きの)書籍が、巻号の昇順に、右から左へと並べられているのが、珍しくないことだ。これは逆ではないか。

 「縦書き」は右から左へと読み進めるのだから、「縦書きの書籍」も同様に右から左へと並べる、という感覚なのだろうが、書架に並べられた書籍を背中から見ている時には、第1ページは左端にあるのである。右から左に並べられると、ページの進行がスイッチバックすることになる。

 大体、不便ではないか。書架から複数冊まとめて掴み出した時、昇順に読もうとすると“逆順ソート”をしなければならないはずだ。

 まぁ、書店のレジでは、第1巻から会計しようが最終巻から会計しようが関係無いのだが、個人の自宅の書架で、右から左へ並べられていると、ちょっと感覚を疑う。本当に読んでいるのだろうか?

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*1997年11月11日:楽器も商品


 ニフで電子楽器(のユーザー)系のフォーラムを覗いていると、古い楽器への愛惜(哀惜)の念が切々と語られていることが、良くある。(大体、80年前半以前のシンセを、“ヴィンテージ・シンセ”と呼ぶ。私には、これがしばしば“ボンデージ・シンセ”に見えてしまうのだが、余計な心理分析は、していただかなくて結構である。)

 もちろん、ほとんど全て製造中止機種なのだ。また、つい最近まで売られていた機種が、製造中止になった、というニュースが駆け巡ることもある。そんな時、ある人が発言したものだ。


「ただ売れないというだけの理由から、発売中止にしちゃうものなんでしょうか?」

 あ、あのなぁ〜.. 資本主義社会において、商品を発売中止にするために、それ以上の理由が何か必要だと思っているんかぁ〜.. 勘弁してくれぇ〜..

 まぁ、この人は、楽器が“商品”だとは思っていないんだろうなぁ.. 何か(公的資金で助成されてしかるべき)“文化財”のようなものだと思っているんだろうなぁ.. でもそういうものであるのならば、普通は値札をつけて売ったりはしないぞぉ..

 売れなくなれば、容赦なく在庫も部品も(部品については、定められた保持期間が過ぎたのちに)破棄される“商品”だからこそ、進歩するんだけれどなぁ..(ま、今の電子楽器は“進歩”ではなく“退歩”しているのだと考えている向きも、多々あることは承知している。この話題は、いずれまた。)

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*1997年11月12日:「記事を憎んで人を憎まず」


(私にはこんな仏様みたいな真似は出来ない。[;^J^])

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*1997年11月13日:なかなか使えるマンガ古書店


 全国どこでもそうなのかも知れないが、近頃浜松では、総合リサイクルショップというか、古書・CD・LD・Video・ゲームソフト等が、ほとんど等分に扱われている「古ソフト屋(としか呼びようがない)」のチェーン店が、急速に増えている。古書の在庫の特徴は、新古本が非常に多く、(極端な安値か極端な高値がつくような)ごく古い本は、あまり(あるいは、ほとんど全く)置かれていないこと。売り場が広くて明るいのも共通している。有名な「BOOK OFF」も、このジャンルに括れるかと思う。

 で、退社後や休日に、あちこち覗いて回っているのだが、今日訪れたGという店は、少なくともマンガに限って言えば、相当優秀な部類である。

 まず、品数が多い。(無論、まんだらけ等との比較は、論外である。)探求書が見つかるか否かは、結局は確率論なので、数が多いことは、単純に美点と言える。

 次に、出版社別作家別に、丁寧に分類整理されている。非常に探しやすい。「BOOK OFF」系は、比較的分類が行き届いていることが多いが、ここはそれらよりも、遥かに徹底している。(私のような性格の店員がいるのだ。一万円賭けてもいい。[;^J^])これも非常に高く評価できる。

 そして最後に、ビニ本状にパックされている本が、ごく一部しかなく、ほとんど全て、立ち読みして内容を確認できること。立ち読みで済ませて購入費を節約することなど毛頭考えておらず、購入費をガンガン使うためにも、立ち読み出来ることが必要なのだ。ビニ本は、恐くて買えない。(ビニ本で思い出したが、この店は、アダルト書籍やアダルトビデオのコーナーの床面積が(ほとんど異常なほど)狭い。これも評価ポイント。別に私は、どうしてもそのような物を買いたくないとか、表紙やジャケットのカラフルな写真を観るのも嫌だとか言っているのではなくて [;^J^] どの店でも同じような品揃えで、他のコーナーを圧迫する広いスペースを取って並べているのは、冗長で無駄だと言っているだけである。)

 収穫は4冊。

 「帝都物語」(高橋葉介、原作:荒俣宏、角川書店)は、現代マンガ図書館で既読。但しそこで読んだのは、朝日ソノラマ版。朝日ソノラマ版には荒俣宏の解説が無いことを除いて、内容は同じ。

 「カスミ伝」(唐沢なをき、徳間書店)は、最近出たアスキーコミックス版を購入済みだが、照合用に。[;^J^]

 「キャプテングランプリ Vol.1 Vol.2」(徳間書店のキャプテンコミックス中の、アンソロジーシリーズ)は、高橋葉介作品リストに未記載の、単行本未収録作品を発見したから。これは、立ち読みしなければ発見できず、従って購入もしなかったはずである。

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*1997年11月14日:街に出る人、出ない人


 ニフを読んでいると、「インターネットのどこが面白いわけ? この会議室でおしゃべりしている方が、ずっと楽しいのに..」という書き込みに、極めてしばしば出会う。そして、この発言者の現状認識は、実は、極めて正確なのである。

 以前、私は、「井戸の底のぬるま湯」という表題で、居心地の良い(狭い)世界(それは、ニフのフォーラムや会議室とは限らない)に安住して、外に出て行こうとしない人々を、揶揄したことがある。

 今回、素材に取り上げた発言は、そのフォーラムの中で何もかもすませよう(極端な表現をすれば、そのフォーラムで“生きてゆこう”)としているのではなく、単なる井の中の蛙状態なので、以前取り上げたケースとは、少し異なる。

 彼の、「インターネットのどこが面白いわけ?」という問いは、「街のどこが面白いわけ?」「東京のどこが面白いわけ?」という問いと、本質的に同じである。確かに、別にそんな雑踏の中に出ていかなくても、結構楽しくやっていけるのだ。

 私は、パソコン通信の会議室は、「大学の学部4年生」の世界に、非常に近いと考えている。(但しここで「大学」と言っているのは、実験、ゼミ、レポート等に追いまくられて、アルバイトをする暇もない、理学系工学系の学部のことである。私は文系の学生生活のことを、全く知らないのだ。)

 学部4年生の「研究室&学食&下宿」というのは、非常に居心地の良い空間である。何しろ、そこから外に出る必要が無い。下宿が大学に隣接している場合、物理的にも大学構内(の近傍)から、数ヶ月も数年間も離れる必要が無いほどだ。

 そこで何でも手に入る。書籍も雑誌も売店で買える。食事は学食、及び、同様に大学の近傍の喫茶店や大衆食堂。喫茶店ではゲームもできる。

 そこでどんな会話でも出来る。そもそも自分の研究やレポートの話は、わざわざ電車に乗って街に出るまでもなく、同じ研究室で同じ釜の飯を食っている仲間たち(あるいは、同じ学科、同じ学部の友人たち)と、もっとも“濃い”ハイレベルの話が出来るわけであり、外の世界は必要無い(ように、思える)。

 これは、パソコン通信の会議室の状態と、非常に良く似ている。そもそも同好の士が集まっている“場”であり、“アクティブ”と呼ばれる、活発な発言者の知識レベルは、プロ顔負け(であるか、あるいはプロそのもの)である。インターネットどころか、同じニフティの別のフォーラムに“他流試合”をしに行く必要すら無い(ように、思える)。

 しかし、同じ研究室の仲間うちだけで議論を進めて、どんな研究が出来るのか。学部生はともかく、院生ともなれば、論文誌を購読するだけではなく、各地(各国)で開催される学会に出席して聴講し、あるいは研究発表をしてコテンパンに叩かれるのは、当たり前の鍛練であろう。研究を離れた、気楽なオフタイムの生活にしても、廉くて便利な学食とゲーム喫茶と同じ下宿の友人の部屋での徹夜麻雀だけでは、世界が縮退する一方である。

 研究室でこそ、もっとも“濃い”会話が出来るというのも、言うまでもなく単なる錯覚である。研究室では、前提となる知識や情報が共有出来ているので“話が早い”だけなのだ。これは、パソコン通信の会議室についても、同じことが言える。

 街は、広く、寒く、情報は溢れているのに自分が求める情報だけは何故か乏しく、金と時間と体力を浪費するだけだと思えるかも知れない。それは、ある意味では、正しい。しかし、たとえそれが単なる“無駄”でしかないとしても、“高密度の自家中毒”を“癒す”役にだけは、立つのである。

 悪いことは言わない。

 街に出なさい。

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*1997年11月15日:ぼくの孫悟空/走れ! クロノス/ナンバー7/魔神ガロン、および、スコラ等調査


 高橋葉介や唐沢なをきに引っ掛かって、しばらくサスペンド状態であった手塚治虫調査を、再開する。7時の新幹線で上京して、国会図書館。

 「ぼくの孫悟空」は、連載の終り頃(全集では、全8巻中の第7巻以降の掲載分)しか、初出誌(漫画王)が無い。仕方が無い。この時期の漫画王は、現代マンガ図書館にも無い。大手マンガ古書店の通販の目録にはたまに掲載されるが、非常に高価である。調査しきれなかった分は、気長に機会を待って、埋めて行くことにしよう。

 「走れ! クロノス」は、学年誌で半年連載。これは完全にチェックできた。(こういうことは珍しい。学年誌は、意外に欠落しているものなのだ。)「ナンバー7」も、初出誌(日の丸)の欠落がほとんどゼロ。但し、全編の大体3分の2は、別冊付録回しであり、そして別冊付録の蔵書は皆無であって、すなわち、初出の状態の3分の1しか、実際には読めなかったわけだ。それでも、全集の各巻(全4巻)が、初出誌の何年何月号であるかは、確定できた。

 「魔神ガロン」は、全集に、時期を隔てて2回にわけて収録されている。第1、2巻第3、4、5巻である。後者は、手塚治虫没後の編集であることに注意。恐らく作者は、これを全集に収録することを、良しとしなかったのだ。誰が見ても一目瞭然で判定できる代筆(しかも、しばしばトイレの落書の水準の、非常に低レベルな技術の代筆)だからである。この初出誌(冒険王)は、かなり欠落が多いので(例えば、1970年代前半は、ボロボロである)、初出号確定は困難であろうと覚悟していたのだが、なんのことはない、この時期(1960年前後)は、ほとんど欠号が無いのだ。(もっとも、別冊付録が皆無なのは、「日の丸」と同じ。)案に相違して、「魔神ガロン」の調査は成功裡に終った。

 この4作品の調査をもって、最も気にかかっていた未調査作品の調査が、終った。まだまだ要調査項目は多数残されているのだが、ようやく(本当に、ようやく)、「全漫画作品発表年代順リスト」が、“使える”水準になった。次のステージである「国会図書館と現代マンガ図書館では、これ以上は無理、あとは大枚はたいて初出誌を買い集めるしかない」という水準に達するのは、どんなに早くても来年のゴールデンウィーク明け。(現在、執筆中断中だが)全作品の解説を書き終えるのは、公約違反で申し訳ないが、来世紀に食い込む可能性が極めて高くなってきた。

 本日予定していた上記4作品の調査が、時間ピッタリに終わったあと、さらに、もう1ターン、滑り込みで出納出来る余裕ができたので、スコラ誌の85年前半分をチェック。これは手塚治虫ではなく、高橋葉介作品の調査である。成果あり。

 国会図書館のあとは、現代マンガ図書館、ついで神保町というのが、順路である。現代マンガ図書館では、高橋葉介の発掘作業。徳間書店の少年キャプテン誌の周辺を洗ってみたが、こちらは成果無し。神保町では中野書店等は休日で閉まっているので、コミック高岡のみ。「少年塔」(白川宣之、マガジンハウス)、「女犯坊」(ふくしま政美、太田出版)、「寄生人」(つゆき・サブロー、太田出版)。太田出版の、このシリーズ(QJマンガ選書)は、全巻買い揃えている。だって仕方ないじゃんか。[;^J^]

 19時42分のひかりで、浜松に戻る。

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*1997年11月16日:鏡に映る顔


 子どもの頃には、世界は恐怖に満ちていた。昼間はなんでもなかったのに、夜の光の中では、枕元に畳んでおいてある、明日の着替え。それに刻まれた深い“陰影”が、怪物の顔に見えるのである。ましてや天井の模様と来ては!

 もうひとつ恐ろしかったのは“鏡”である。それも、洗面所の鏡。普通に立っていると顔も映らないほどに、背が低かったのだから、恐らく小学校低学年の頃の体験だと思うが.. 夜、トイレに行く。洗面所の鏡の前を通る。鏡の位置は高くて、私の顔は映らない。ジャンプすると、首から上が、映る。

 ..顔も含めて、何も映らない(映っているものが見えない)こと自体は、私には有り難かった。「恐い(かも知れない)ものを、みなくてすむ」からである。夜の光の中で鏡に映る私の顔が、本当に(昼の)私の顔の形態をとどめているかどうか、私には全く、確信が持てなかった。

 恐かった。

 しかし、観ないわけにはいかない。「幸いにして観えない」状況であれば、なおさらである。

 深夜、トイレに行く私は、その鏡の前で、必ず「ジャンプ」した。私の顔が一瞬映る。髪の逆立った、私の顔が。

 それは、どこか“非日常的”で、恐い顔だった。だから、もう一度ジャンプして、観直した。そしてもう一度。さらにもう一度.. 繰り返しているうちに、目を見開いて歯をむき出し、わざわざ特上の恐い顔を作り、それが、夜の、暗くて非現実的な光線の中で、異様な効果を得て“妖怪”の顔になるのを、それが、ジャンプした一瞬だけ見えるのを、ほとんど半泣きになりながら、何度も何度も飛び上がって、見続けていたのだ..

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Nov 20 1997 
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