*1997年10月20日:追憶の「タイム・ライフ」
*1997年10月21日:村上和彦と村上知彦
*1997年10月22日:ニフの値下げの光と影
*1997年10月23日:“音楽”の幽霊
*1997年10月24日:「時間は無限にある」
*1997年10月25日:「鉄鋼無敵科學大魔號」の真実
*1997年10月26日:脚立を買う
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*1997年10月20日:追憶の「タイム・ライフ」


 「タイム・ライフ」と言えば、もちろん(ライフ誌は、遥か以前に廃刊となったが)米国の代表的な、ふたつの雑誌である。しかし、小中学生時分の私にとっては、それは雑誌名であるというより、むしろ「レコード会社」の名前であった。

 ボックス物のレコードの、通信販売をしていたのである。私が憶えているのは「交響曲全集」「協奏曲全集」「名曲大全集」(いずれも10枚組で、正式な名称は失念)等など。

 「交響曲全集」には、「運命」「未完成」「新世界」「悲愴」「ジュピター」など。「協奏曲全集」には、3大ヴァイオリン協奏曲の他、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番など。この2セットは、親が買ってくれなかった。

 「名曲大全集」は、「管弦楽曲」「ワルツ・ポルカ」「室内楽曲」「ピアノ曲」「ギター曲」「歌曲」等の各ジャンルごとに一枚を割り当てたもの。これは、擦り減るほど聴き込んだ。クラシック音楽に対する私のパースペクティブの、基礎的な部分は、この10枚組によって作られたのである。

 これらのボックスセットの販売方法が、独特なものであった。すなわち、商品の現物を、客に貸し出すのである。試聴して気に入らなければ、一週間以内に返送すれば良い。

 当時から、子ども心に気になって仕方が無かったのは、傷がついたらどうするのだろう?ということであった。(CDではないのである。)モラルの低い客であれば、使い古しの針を使って、盤面を痛めるかもしれない。

 さらに言えば、これは「テープレコーダーが普及する以前の」販売システムでもあった。コピーを取られることを、想定していない。音楽観賞に耐える音質のステレオカセットも、2トラ38も、一般家庭には入り込んでいなかった時代の商法だったのである。

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*1997年10月21日:村上和彦と村上知彦


 極道劇画の専門家であり、第一人者である村上和彦が、押しも押されぬマンガ評論家でもあることに、以前から感嘆していた..

 ..のは、もちろん私の、大間違い。

 極道劇画家は、村上和彦。マンガ評論家は、村上知彦。ようやく今日になって、このことを認識したという次第。[;^J^](混同しない方が、どうかしていると思うが。)

 評論家は“知識人”だから、評論家の村上は“知”彦。

 極道劇画を逆説的に“平和”にこじつけて、極道劇画の村上は“和”彦。

 ..などという憶え方をすると、未来永劫、間違え続けるのだろうな。[;^J^]

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*1997年10月22日:ニフの値下げの光と影


 ニフティサーブの利用料が、大幅に廉くなる。従量コースの他、15時間まで2000円固定の「標準コース」、50時間まで5000円固定の「特別コース」、計3コースが設定される。「標準コース」と「特別コース」は、オーバー分が、1分10円で加算される。

 ヘビーユーザーには、従量コースは不利である。「標準」か「特別」かの選択になるが、1ヶ月の利用時間が20時間までなら「標準」が、それ以上なら「特別」が有利。そして調べてみたら、私の過去5ヶ月の利用時間の平均は、ほぼぴったり、20時間であった。[;^J^] どうしましょうかね。

 ま、普通に考えれば、廉いことはいいことなのだが..危惧もある。

 それは、ユーザーの“質”が、低下するのではないか、という懸念である。早い話、ここまで廉くなると、子どもが小遣いで利用出来てしまう。これは案外、杞憂でも無い。昔から、ニフティよりも廉価に利用できたPC−VANは、それ故、相対的に若年層が多く、そのため、低レベルなトラブルも多い、と、聞いている。(私は、PC−VANのユーザーでは無い。これはあくまでも、伝聞情報である。)いうまでもないことだが、ニフティでも、どうしようもなくレベルの低いトラブルは無数にあり、PC−VANにも立派な大人は大勢いる。あくまでも、マクロな統計的な比較である。

 なんにせよ、今よりも水準が下がることは必定。大衆化の避けられぬ代償か。

 ネットニュースに、大笑い記事。菅野の「NUDITY」を、早い者勝ち先着一名様1万円で売り出している奴がいる。とっくの昔に増刷されて、今やどこにでも、定価3800円で転がっているというのに。情報に疎いんだろうなぁ..と、思わず同情しかけたが、これだけ(初版から)時間が経っていて、いまだに増刷されていないと考える方がおかしい。単なる非常識な間抜けなのであった。

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*1997年10月23日:“音楽”の幽霊


 以前から、漠然と想を巡らしていることなのだが、「“音楽”の幽霊」が登場する怪談、というのを読んでみたい。それがどのようなものであるかはわからないが、恐らく、存在するはずだ。

 夜の学校の無人の音楽室で、ピアノがポロロン..という、同案無数の類では、ない。これは多くの場合、ピアノ(を弾くこと)に妄執を残した、学生なり先生なりの幽霊であるか、あるいは、楽器の幽霊である。私が読みたいのは、「“音楽”の幽霊」なのだ。

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*1997年10月24日:「時間は無限にある」


 卒論の指導教官だった、U先生の言葉である。

 翌週のゼミの準備、あるいは、卒論のための実験。「とにかく、時間が足りないです」と泣き言を言うわれわれに、そういう君は、今、コーヒーを飲んでいるではないか。今朝は何時に起きた。研究室に来る前に喫茶店に寄ったか。今夜は何時に帰る。映画の一本も観るんじゃないのか。それらの時間を充てれば、いくらでも“今より多くの”勉強は出来るであろう..

 もちろん、時間は有限なのだ。しかし、今、勉強(研究)に割いている時間に加えて、「さらに多くの時間」を、必ず、捻出することが出来る。だから、その意味では「時間が足りない」などと言えるはずがないのだ。時間は無限にある..

 この厳しい言葉を肝に銘じて..と言えれば格好いいのだが、情けないことに、卒業してから現在に至るまで、ずっと、読書や勉強や運動や遊びのための時間が足りない足りない..と、呟き続けているのである..

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*1997年10月25日:「鉄鋼無敵科學大魔號」の真実


 先週の日記を読んだK氏から、「鉄鋼無敵科學大魔號」(唐沢なをき)の初出の経緯について、メールが届いた。(情報(見解)は、公表するに限る。必ず、こうして、チェック&フィードバックがかかる。)

 私は、先週の調査を終えた時点で、「少年キャプテンに連載され、キャプテンコミックスにまとめられた作品を、(信じ難いことではあるが)コミックビームで“連載しなおした”」のだと結論づけていたのだが、そうではなく、再連載はされず、アスキーコミックスに直接再刊されたのだった。

 “連載しなおし”の根拠としていた、“時代が新しい読者の投稿”は、コミックビームで、単行本への掲載用に募集したらしい。(さらに言うと、私は、欄外の柱の「おたよりコーナー」の真贋を疑い、それは事実、半ばは本物、半ばは作者による捏造だったのだが(「本物」を投稿する奴が増えてきた、という、作者の言葉を“信じれば”[;^J^])、実は全く同様に、読者の投稿イラストも、半ば捏造ではないかと疑えるのだ。私は、この作者は、これほど“多様かつ下手な”絵柄を描き分けるほどには器用ではない、という理由から、投稿イラストは本物だろう、と考えていたのだが、K氏は、アシスタントか編集者が描いた可能性を指摘してきた。これは盲点だった。言われてみれば、編集者の描いた似顔絵だけで構成されている作品も、存在するのであった。[;^J^])もともと、少年キャプテンの「雑誌内綴じ込み付録」という体裁(趣向)で連載され、それが「特別付録」という形で単行本にまとめられたのだが、アスキーコミックスには、「特別付録」の体裁のまま、連載元の雑誌を「少年キャプテン」から「コミックビーム」に“すりかえて”再刊したというわけだ。このために、あらゆる細部に手を加え、少年キャプテンの形跡を消し、証拠を隠滅している。やれやれ。してやられたか。[;^J^](ここまで(上京して初出誌調査までして)どっぷりと罠にはまった読者は、ほとんどいない筈である。目一杯堪能したわけだ。羨んでいただきたいものである。)

 「画図 百鬼夜行」(鳥山石燕の妖怪画集の集成)「絵本百物語」(竹原春泉の妖怪画集)を読む。いずれも国書刊行会。基礎資料とするに足る、優れた文献である。

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*1997年10月26日:脚立を買う


 車で(浜松市内を、時計回りに回って)各種ショッピング。

 缶ビールを2ダース。SFマガジン。CD−ROMケース。ジャックダニエル。ここまではいいとして、何を間違えたか、2段の脚立。

 実は、来週末に、静岡で大道芸の祭典がある。詳細は、去年の日記を参照していただくとして、物凄い人ごみの中、人垣の後ろから覗き込むためには、携帯用の脚立が必須である、というノウハウを得たわけだ。実際、去年は、携帯用の1段の、脚立というよりは「踏み台」を持ち歩いている人が、結構いた。

 そこで、今年は、それを持参しようと思ったわけだが..買いに入った店には、1段の踏み台は無く、しかし2段の(ごく軽い)脚立はあり、これなら、持ち運びもそれほど苦にならないし、それほど邪魔でもあるまい..と思って買ったのだが、車の後部座席に放り込んだ時点で、こういうものは、広い店内では小さく見えるものだ..ということに気が付き..一抹の不安を抱きつつ、次の目的地の古本屋へ車を走らせる。全国?チェーンの「BOOK OFF」である。

 古い「レコード芸術」誌を、20冊ばかり売り払うためである。売り値は、ただ同然。まぁいい。こんなものを引き取ってくれる古本屋は多くはなく、ほうっておけば、古紙回収業者も引き取らない、ただの燃えるゴミになるところだったのだ。これで、誰かに読んでもらえる可能性は、残ったわけだ。

 しかし、この店も、つまらん商品構成になったものだ。昔は書籍だけだったはずだが、これもご時勢とはいえ、売り場の半分はゲームソフトとCD/LD/VIDEO。残り半分が書籍。書籍売り場の半分以上はマンガで、ソフト売り場の半分以上はゲーム。結果として、どのコーナーを見ても、品揃えが中途半端なのだ。

 帰宅して、玄関に脚立を運び込んでみたら..わはは、これはでかい。[;^O^] 人ごみの中、こんなものを担いでうろうろしていたら、邪魔である以前に、きっぱり怪しい変態である。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Oct 30 1997 
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