*1997年05月12日:「手塚治虫文化賞」
*1997年05月13日:Win95の安直リストアに失敗する
*1997年05月14日:再インストールを再度しくじる
*1997年05月15日:“歌謡曲”の崩壊
*1997年05月16日:「わたしの人形は良い人形」
*1997年05月17日:リリースの漸近線
*1997年05月18日:たまには美味いものを食う
*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*1997年05月12日:「手塚治虫文化賞」


 朝日新聞社が主催する「手塚治虫文化賞」。これが設立されるまでの経緯は、色々あったようだ。講談社や小学館などと共催の線で進んできたものが、結局、朝日新聞社の独走になったらしいとか、朝日としても、漫画出版界における地歩(地位)を築きたいのだろう、とか、生臭い話がバンバン飛び込んで来る。まぁ、“賞”とか“権威”とかいうのは、そういうものだろう。“賞”は、「貰う側の“武器”」ではなく、「与える側の“武器”」なのだから..

 それやこれやで、ワンノブゼムの“賞”が、ひとつ増えたまでのこと、と、気にも留めていなかったのだが、今日の朝刊で発表された、その第一回の授賞者の顔ぶれをみて、認識を改めた。いや、思わず居住まいを正してしまった。

*大賞藤子・F・不二雄
*優秀賞萩尾望都
*特別賞内記稔夫

 大賞と優秀賞は、どうでもよろしい。誰が選んでも、こんなもんである。特筆すべきは、内記氏に授与された特別賞であり、これは、現代マンガ図書館の設立と運営の功績を称えるものなのである。

 副賞の予算として計上されていたのは、大賞の200万円と優秀賞の100万円だけなのであるから、審査員たちの推薦によって、あえて特別賞が設定され、朝日新聞社側の審議を経て認められて、副賞100万円と共に授与された意味は、大きい。

 審査員たちと朝日新聞の見識を誉める気持ちももちろんだが、何よりも嬉しいのは、「現代マンガ図書館」が“権威”によって認められた、ということなのである。

 と、こう書くそばから、オヤジ臭いこと言ってんじゃねー、漫画ってなぁ、反権威、反権力のカウンターカルチャーじゃねぇか、お前は朝日新聞の威光をありがたがるような、そんな情けない心根の持ち主だったんか、ケッ、という声がバンバン聞こえて来るようだが、青臭いことを言っているのはそういう諸君である。現代マンガ図書館に必要なのは、何よりも「“権威”によるお墨付き」だったのである。

 内記氏が、現代マンガ図書館の運営資金を、どうやって捻出しているのかは、私は知らない。しかし、数年前に利用料金を値上げしたところから見ても、大富豪の道楽では無いのだ。そして、閲覧者の利用料金で、十分な収集活動が維持出来る訳がないのは明らかである。私のように、一度の来館で100冊以上閲覧し、1万円以上の利用料金を払う客など、例外中の例外なのである。

 従って、コレクションの拡充のためには、どうしても、出版社からの寄贈に頼らなくてはならない。そしてこれが、容易なことではないのだ。その実態や理念が理解されず、「たかが貸本屋ではないか」と、寄贈を断られるケースが少なくなかったはずだ。

 だからこそ、「天下の“大・朝日新聞”による“権威づけ”」が、重要な意味を持ってくるのである。そう、この場合はまさに、“賞”は「与えられる者の“武器”」として機能するのである。

 リブレットが返送されて来る。増設メモリを外したら、アクセスの文字化けが無くなった、増設メモリの不良であったと思われる、とのことである。あのサービスマンの言っていることだから、頭から信用するつもりは毛頭ないが、取り敢えず、増設メモリのない8M状態でWin95を再インストール、そしてアクセスをインストールして動作チェックをしなくてはならない。

 折悪しく、今週から爆忙状態で、帰宅は深夜になる日が続くと思われる。ま、いまさら焦る理由もないので、ゆっくりやるつもりである。

*目次へ戻る


*1997年05月13日:Win95の安直リストアに失敗する


 リブのあんちょこリストアにトライして、ものの見事に失敗する。[;^J^] レジストリの実体と思しき、user.dat、system.dat を(バックアップしてあったので)書き戻してみたところ、レジストリがわやになってしまったようで、全体の動作が無茶苦茶不安定になった。諦めてフルインストールするしかないか。フロッピー40数枚から戻す位は、なんとも思わないのだが、その他のアプリ群をインストールからやり直さなくてはならないのが、考えるだけでも鬱陶しい。

*目次へ戻る


*1997年05月14日:再インストールを再度しくじる


 再インストールを、またしてもしくじる。["^J^]

 フォーマットせずに、上書きインストールをしてみた。昨日書いた理由から、現在ハードディスク上に展開されているアプリ環境を、極力壊したくなかったからである。そうしたら、起動時に文字化け。これは確か、scandisk のエラーメッセージである。わかったよわかったよ。フォーマットしてからインストールすることが、マニュアルでもドキュメントでも推奨されていたよ。マイクロソフトの進言に従わないオレが悪かったよ。

 そこで、フォーマットをしてからインストールし直したら、最後の最後になって、プリンタの選択でMacのレーザーライターをうっかり選んでしまい、やり直しを命じられて、ぶち切れた。

 この位のことならば、あとから設定しなおせばすみそうなものだが、なにしろ、ALT + CTRL + DEL でブラックアウトしている状態。起動しなくなってしまったのだ。もはや3時近くであり、冷静な判断も不可能な状態。やはり一晩でフルインストール2回、というのは、物理的に不可能である。明日だ、明日。

*目次へ戻る


*1997年05月15日:“歌謡曲”の崩壊


 今夜は、再インストール作業はしない。深夜帰宅であり、就寝前に連続数時間を取ることが出来ない。

 先日、価値観の細分化の話を書いたと思う。典型的な例のひとつが、音楽ジャンルの細分化である。

 昔は(昭和30年代前半?位までは)日本においては、音楽には「クラシック」と「ジャズ」の2種類しかなかったのである。いやさすがにこの時代のことは、直接記憶している訳ではないが、昭和40年代の前半位までは、「クラシック以外の音楽」は、「軽音楽」あるいは「ポップス」の一言で、全部括られていたように思う。今の状況については、書くまでもあるまい。

 象徴的なのが、「歌謡曲」というジャンルの崩壊である。「ザ・ベストテン」という番組が消滅すると共に、「歌謡曲」も消滅した。私の感覚では、山口百恵と沢田研二が、歌謡曲の歴史の幕を閉じたのであるが、人によっては、松田聖子までを、歌謡曲とみなすかも知れない。

 「歌謡曲」というジャンルの胡乱さと強靭さは、ジュリーの経歴とレパートリーを見れば判る。どんな音楽でも取り込んでしまう、「なんでもあり」の生命力。「ザ・ベストテン」という番組は、フュージョン風からニューミュージック風から演歌風からロック風まで、カバーしていた。それらはひとまとめにして「歌謡曲」と呼ばれたのだ。そして、フュージョン風が本物のフュージョンに、ニューミュージック風が本物のニューミュージックに、(演歌は最初から本物だったか、)ロック風が本物のロックへと、離脱して行くに従って、ひとつの番組として継続することは不可能になって消滅し、ジャンルも崩壊した。

 それはまさに、かつてのプロレス興行のような、猥雑な面白さと強さに満ち溢れた世界だった。現在の、細分化された個々の音楽ジャンルは、遥かに純粋で、そして脆い。

*目次へ戻る


*1997年05月16日:「わたしの人形は良い人形」


 再インストールをし、CABファイルも入れる。毎晩、少しずつしか出来ないので、実に効率が悪い。40数枚を読み込ませればおしまい、というものではない。実に3PASSなのである。Win95のシステムを戻すために、1回。あちこちのフロッピに分散してバックアップされているらしい、アクセサリや補助機能を戻すために、1回。そして、プラグ&プレイ用のCABファイル群を作るために、1回。

 ユーザーをなめるのも、いい加減にしろ、と言いたい。少なくとも3回目の作業を、1回目の作業と同時に行うことが出来ない正当な理由は、全く想像できない。我々の業界で、こんなに効率の悪い、お客に迷惑をかけるアプリケーションを製品に組み込んでいたら、ひとたまりもなくライバル企業にやられてしまう。

 これが独占企業のおぞましいところなのだ。合衆国の司法判断がどうあれ、少なくともOSについては、マイクロソフトは完全な独占企業体であり、ライバルメーカーは存在しない。結果として、例えば日本の役所と何の違いもないのだ。競争が存在しないことは、ユーザーに対してかくも理不尽な迷惑をもたらす。

 山岸凉子のホラーマンガ「わたしの人形は良い人形」(文春文庫)を読む。自選短編集である。全4編中、表題作(「わたしの人形は良い人形」)と「千引きの石」「汐の声」は、実に恐ろしい読後感をもたらす名作。(「ネジの叫び」は、さほどの傑作ではない。)久々に「内宇宙への扉」のページに感想文を組み込みたくなったが、嗚呼、何を書いている暇も無い日々。

*目次へ戻る


*1997年05月17日:リリースの漸近線


 業界にもよるだろうが、ある製品を発表する時に、そのテスト版というかデモ版というかプレリリース版が、〆切よりもだいぶ前に発表される。展示会でのプレゼンや、社内(あるいは社外)での評価・バグ出しが、主たる用途である。

 アルファ版(またはベータ版)が、一度でリリースされるためしなど滅多になく(スパっと一度で出せる位なら、アルファ版(ベータ版)を出す必要はない、とも言える)、〆切に接近するに連れて、何度も何度も出し直されるものである。この手のメーカーの内部事情をご存知ない方でも、例えばWin95のベータ版が何回出されたか思いだしてみれば、見当がつくであろう。

 そして、〆切に向かって繰り返されるリリースのタイミングを観察していると、面白いことに気が付く。一例をあげると、最初のリリースが、1ヶ月前だったとする。すると次は、2週間前。3回目は1週間前。以下、3日前、前日、6時間前、3時間前、1時間前..と、綺麗な漸近曲線を描くのである。このカーブは、単純で美しい数式によって、近似できそうである。

 しかし経験的に、〆切30分“後”に、(漸近線を飛び越えて)もう一度リリースされるのだ。そう、この現象は、カガクでは説明できないのであった。

 ..とまぁ、この“漸近線”を飛び越える超常現象がおきないよう、残業と休日出勤が続く日々。晩飯は、数年ぶりにMという居酒屋。メニューは面白いが(どうやら、懸賞付きで公募しているらしい)、結局、おいしくない。[;^J^] 目先を変える用途以外には、使い道のない店であった。

*目次へ戻る


*1997年05月18日:たまには美味いものを食う


 今日も休日出勤。晩飯は、これまた久々の、イタリアレストラン、Tである。昨夜の晩飯の口直しだ。さすがにここは、廉くない(と言って、高級レストランと言うわけでもない)だけあって美味い。お金がなかったので、イタリア風きしめんと言うか、偏平でコシの強いパスタ?のカルボナーラ味(私のグルメ的ボキャブラリは、こんなもんである [;^J^])ですませたが、これがなかなか結構な味。

*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: May 21 1997 
Copyright (C) 1997 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]