*2018年12月24日:測定する [;^J^]
*2018年12月25日:幻想美術選「希望」ジョージ・フレデリック・ワッツ
*2018年12月26日:108って..
*2018年12月27日:歪んだレンズが..
*2018年12月28日:横浜某所で宴会
*2018年12月29日:冬コミ/上星川のスーパー銭湯
*2018年12月30日:ムンク展/フェルメール展/東京駅激混み
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*2018年12月24日:測定する [;^J^]


 快晴。午前中は、久しぶりに湯風景しおり。

 帰宅してから、自宅内の書籍のカウント..というより、占有幅(容積)の測定を開始する。以前も書いたかも知れないが、5年以内に実家をリフォームして、これらすべてを運び込むことになる。その際、どの程度の受け入れ態勢(書庫、書棚のサイズ)を用意しておかなければならないのかの、心積もりのためである。

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*2018年12月25日:幻想美術選「希望」ジョージ・フレデリック・ワッツ


 「幻想美術選」、第144回。今回は、19世紀末の幻想絵画の代表作のひとつ。

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「希望」(ジョージ・フレデリック・ワッツ、1885年)

 George Frederic Watts(1817〜1904、Wikipedia)の出自は歴史画家であるが、やがて、寓意画を手掛けるようになった。この作品についての、彼自身の言葉が伝えられている。

「私は『希望』の絵を描いているところです。目隠しをした女性が球の上に坐り、最後の一本を除くすべての弦が切れてしまった竪琴を弾いています。彼女は全霊を傾けてその微かな音に聴き入り、かぼそい響きが奏でる音楽をなんとか捉えようとしているのです」

 画家自身だから当然だとはいえ [;^J^]、簡にして要を得ており、つけ加えるべき言葉もない。強いて言えば..G.K.チェスタトンは、この絵は「希望」というよりはむしろ「絶望」だと述べたとのことだが、確かに、この「1本の弦」を、「1本しか残っていない」と見るか「1本だけは残った」と見るかで、「絶望」か「希望」かが、わかれよう。

 彼女が坐っているのは、明らかに地球である。1本だけ残った弦は、いわばパンドラ的な状況なのだろうか? では、彼女はなぜ、目隠しをしているのだろうか..? この多義性が、19世紀末に人気を呼んだのであり、今なお、衝撃的なイメージである。

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*2018年12月26日:108って..


 とあるバラエティ番組で、プロポーズに際して送る薔薇の数は「108本」だということを知った。いったいどうして、そんな「不吉な」とは言わないまでも「プロポーズにふさわしいとは思えない」数を..?

 軽くぐぐってみたら、「108」は「トワ(永遠)」と読めるからだと言うのだが..なんと無理な語呂合わせ。たまたま私が見た複数のサイトが「花屋系」だったからかも知れないが、どうも、できるだけたくさんの花を買わせよう、という邪念が垣間見えてしまったのだが..これは、私の邪推かも知れません [;_ _]。バレンタインデーとチョコレート屋の例を引くまでもなく、仮にそうだとしても、別に悪いことだとは思っていません。[;^J^](「トワ」の語呂合わせについては、ソナーポケットの「108〜永遠〜」(2018)に由来するという説もあるが、新しすぎると思う..)

 いずれにせよ、「108」とくれば、反射的に「煩悩の数」が出てこなくてはおかしいと思うのだが..(水滸伝の「百八星」が出てくる人は、やや少数派かな。)もしかすると、除夜の鐘の数ということすら、若い世代には知られなくなりつつあるのかも知れないね。まぁ、プロポーズこそ究極の「煩悩」だと言われれば、それは確かにそのとおり。[;^.^]

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*2018年12月27日:歪んだレンズが..


 ..欲しい。

 どういうことかと言いますと [;^J^]。数年前の「奇跡の一枚(ロンハーの人気企画)」で、かな〜りふくよかな顔の女性タレントの顔をすっきりと写すために、わざと歪んだレンズで撮影した作例があったからである。なかなか魅力的な別人に写っていた。

 「なるほど、不良品も使いよう、ということか..」、と、その後、中古カメラ屋やハードオフなどに立ち寄るたびに、ニコンFマウントのジャンクレンズを捜しているのだが、そうそう見つかるものではない。あったとしても、本当に壊れている、動作しないやつばっか。[;^.^]

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*2018年12月28日:横浜某所で宴会


 快晴。仕事納めの日だが、ドライに午後半休。[;^J^]

 速攻で帰宅し、すぐに出る。浜松駅からJR在来線で横浜へ。新横浜で地下鉄に乗り換えたのだが、驚いたことに、JRからPASMOで出られなかった。窓口で手動で処理してもらい、「次回からは切符を買ってくださいね」..何故?

 地下鉄(グリーンライン)の某駅で降りて、某マンションに、18:35頃。ここに来るのは初めてである。計5人で、忘年会。(ヒント:コミケ前日である。)料理(つまみ)もなかなか美味しく、四方山話をいろいろ。

 先ほどのPASMOの話題も。なるほど、JR東海とJR東日本の連携ができていないのではないか、と。ありそうな話だ。内部コードが違うのだろう。「いろいろあって」統一できないという事情(理由)は、うっすらと推測できるが、国辱ものなので、東京オリンピックまでに解決しておくこと。

 書庫の稼働書架も見せていただいた。レールの上を全体がスライドする大規模なものではなく、個別に引き出すタイプ。B6以下のサイズに特化した薄いタイプだが、たぶん、厚いものもあるのだろう。より低コストのはずで、設置も気楽。これもいいなぁ..選択肢として考えておこう。

 22:50、散会。0:30、横浜・鶴ヶ峰の実家。

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*2018年12月29日:冬コミ/上星川のスーパー銭湯


 快晴。午前中に、妹が来る。実家の要補修箇所の確認などを、打ち合わせる。

 昼頃出て、鶴ヶ峰の駅前で、つけ麺。東京国際展示場へ。

 冬コミ(初日)である。今年は気力の低下もあり、もっとも私にフィットするであろう最終日(31日)に来るエネルギーもなく、今年は今日限り。東エリア(の一部)をまわり、いくつか獲物を購入したのみ。

 時刻をメモし忘れたが、比較的早めに離脱して、横浜駅へ。駅前の東急ハンズで、ハリガネとペンチを買う。

 相鉄線・上星川駅前のスーパー銭湯(「天然温泉 満天の湯」)へ。ここに来るのは初めて。現在、無人の実家は、安全のためガスを止めており、シャワーが使えない(というか、お湯が出ない)のである。春夏秋は水でもいいが、冬場は無理。手ごろなスーパー銭湯でもないか、と、探していたのである。

 930円という料金は浜松市の湯風景しおりよりも高いが、これは仕方がないかな..と思ったら、どうやら「特定日」料金だったらしく、ざっくりいって、湯風景しおりと同程度か、やや廉い。また、かなり混んでいたが、「12月29日の夕方」が、通常の土日よりも混んでいるというのは、ありそうなことである。必要十分に使えることを確認した。19:00頃に、鶴ヶ峰の実家。

 天冥の標 X 青葉よ、豊かなれ PART1」(小川一水、ハヤカワ文庫)、読了。べらぼうに面白い! 強大な宇宙種族との宇宙戦争のド迫力! 敵種族の物量も桁外れだが、迎え撃つ太陽系艦隊の物量も桁外れ!(億単位!)いったい、どうしてこんな強大な艦隊が存在しうるのか? それに、この大艦隊を「率いている」のは、どうやらたったひとりの人間? ハーロックか? とかとか、ワクワク感が止まらない!(「昏睡の沼」とは、要するに「幻●」か? とか..[;^.^][;^.^][;^.^])1月20日発売の PART2、2月20日発売の PART3 で大団円となる。かなり遅れてこのシリーズを「発見」し、それから追い掛けてなんとかキャッチアップできた。完結と同時に読み終われるのは、非常に嬉しい。(数十年ものの「積読」の値打ちを嘯(うそぶ)いている者の言うことではないが。[;^.^])

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*2018年12月30日:ムンク展/フェルメール展/東京駅激混み


 快晴。早朝、実家の2階の窓の、取り付けが怪しくなっているフェンスをハリガネで固定する。(軽いので、この程度で大丈夫。)あと5年、落下せずにもってくれればいい。

 実家前のバス停から7:01のバスで発ち、鶴ヶ峰駅前の松屋で朝食。7:24に鶴ヶ峰を発つ便に間に合う。8:20、東京都美術館。「ムンク展―共鳴する魂の叫び」(〜1月20日(日)まで)である。開館70分前。寒い..

 ..10分ほど前倒しで入れていただけた。

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 左図は、有名な「地獄の自画像」。いかにも病的な魂が即興的に描き出したかのごとくであるが、騙されてはいけない。ほぼ同じ構図の、上半身裸の「自撮り写真」がある。計算された構図であり、効果なのである。

 中図は、初期ムンクの最重要作のひとつである、「病める子 I」。多数のバージョンがあり、一般には油彩画がもっとも知られているのではないかと思うが、これはリトグラフ。このバージョンの、ささくれだった「線」も、非常に魅力的である。

 右図、「ブローチ、エヴァ・ムドッチ」のモデルは、ムンクに近しいヴァイオリニスト。恋人関係だったかどうかは、よくわからない。



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 左図、「メランコリー」は、色彩が素晴らしい。遠景の桟橋の上の男女の描き方も、素敵である。

 右図、「星空の下で」は、基本的には愛の情景なのだが、女性の顔が「死」を思わせ、不吉である。



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 左図が、「叫び」。これはあなたが知っている「叫び」とは、微妙に異なるかも知れない。叫びには4バージョンあり、もっとも有名なのは、1893年のテンペラ画である。これは、1910年頃に描かれたテンペラ・油彩画。これはこれで、比較的目にしないバージョンを観られて、満足。

 その隣は、「絶望」。「叫び」とほとんど同じ構図であることに注意。ムンクにはこういう作例が、極めて多くある。その右の「不安」も、同様。こういう一連の、いわば同類項の作品を同時に展示することによる交響効果を狙っていたという。

 右図、「赤い蔦」が、クセモノ..というか、問題作。図録の解説では、「この家を覆う「赤」は火や血と結びつけられる」「何か恐ろしいことが起こった」「前景の男はこの絵画空間の中にいない」、という解釈だが、「ぶらぶら美術・博物館」での「推測」によると、この男は、ムンクの元カノのダグニー・コールと結婚した、ムンクの友人プシビシェフスキー。背後の彼の家の中では、ムンクとダグニーが密会しており、彼は嫉妬に苛まれている..家を覆う赤い蔦は、彼の嫉妬の象徴なのである..ということになる。後者の解釈を採るとすれば、ムンクはとんでもなく酷い奴だ [;^.^] ということになるが、ダグニー同様、プシビシェフスキーも、火遊びしていたらしいので、どっちもどっちと言うことか..さらに言えば、ダグニーは、この絵が描かれた僅か1〜2年後に、崇拝者のひとりに殺されたという..



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 「接吻」シリーズが6点来ているので、そのうち2点をご紹介しておく。さまざまな技法の実験が面白い。

 5点来ている「吸血鬼」シリーズからも、2点をご紹介。



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 「マドンナ」シリーズも4点。そのうち2点。モデルは、前出のダグニー・コールらしい。聖母に組み合わせる胎児とスペルマのモチーフなど、21世紀のこんにちでもなお、アクチュアルでアヴァンギャルドと言える。



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 左図は、「クピドとプシュケ」。神話画とは思えぬ、生々しさ。2人(1人は神だが)は、まるで、血塗れであるかのごどくである。

 中図、「マラーの死」は、ムンク自身の痴話喧嘩(というには結果はいささか深刻で、ムンクは拳銃の暴発によって、指の一部を失った)を、フランス革命の歴史画に見立てたもの。この作品でも縦(と横)の太い線の強調が目立つ。

 右図、「すすり泣く裸婦」は、色彩と、肉体の量感の表現が見事。



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 左図、「灰」のテーマは、はっきりしない。原罪(アダムとエヴァ)を描いているという説もあるが、それにしばられることもないだろう。

 中図、「生命のダンス」は有名な作品だが、やはり複数のバージョンがあるようだ。本展に来たのは1927年の作品だが、手元の画集に収められているのは、1900年版である。

 右図、「ダニエル・ヤコブソン」は、力強い肖像画。ムンクが入院した診療所の医師で、いわば恩人であるのだが、その肖像画の左足に(悪魔の象徴である)蹄を描いていることでも知られている [;^J^]。嫌いだったのか、無邪気な悪戯なのか。[;^.^]



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 左図、「黄色い丸太」は、あまりにも健康的な作品世界で、思わずたじろいでしまう [;^.^] が、それは、ムンクに対する先入観故。

 中図、「太陽」も、「健全な」世界観なのだが、この「ぎらめき」に、逆に、「(太陽という)超越的存在の圧倒的なエネルギーの凄さ・怖さ」を感じてしまうのは、私の問題か? [;^.^]

 右図、「自画像、時計とベッドの間」は、展覧会の悼尾を飾る作品。力の抜けた立ち姿や、針のない時計などから、死を目前にした虚無感を読みとる向きもあろうが、この鮮やかな色彩に、むしろ着目したい。この画家は、まだ「成仏」していない。



 ムンクは、「病める子」「叫び」「接吻」「吸血鬼」「マドンナ」などの主要作のほとんどを1890年代に発表しており、その後の長い画家人生(没年は1944年)においては、多作ではあるが、もはやたいした作品は残していない..と、思っていたのだが、それは認識違いであるとわかったのが、大きな収穫。主要作(のいずれかのバージョン)も、「思春期」以外は、ほぼ全て観ることができ、大満足である。

 11:00に退出。この時点で、30分待ちとなっていた。朝、60分も並んだのは、辻褄が合っているのか? [;^J^] もちろん、合っているのである。今から入館すると、館内は、非常に混みあっているからである。

 次の予定は、上野の森美術館。「フェルメール展」(〜2月3日(日)まで)の、2回目の観覧である。13:00からの時刻指定チケットを入手済みであり、昼食時間はたっぷりある..

 ..たっぷりありすぎて、11:40には食い終わってしまった。30分前からでないと行列に並ばせてくれない [;^J^] ので、時間をつぶさないと..寒いし..というわけで、上野東照宮。まさかとは思ったが、ここに来た記憶がなかった [;^.^]。上野に来た回数は、軽く3桁であろうに..灯台もと暗しとは、このことだ。キンキラキンでなかなか素敵。時期はずれで観られなかったが、いずれ、ぼたん苑も観にこよう。

 12:20頃、上野の森美術館に戻り、13:00、入館。

 2回目であり、前回と展示替えもないので、フェルメール部屋に直行し、たっぷりと「フェルメール浴」をする。(この空間の入口あるいは中央付近にたち、全7点を遠方から、順次、ゆっくりと眺めるのである。ときおりいずれかの作品に近づいてしばらく眺め、また、「ホームポジション」に戻る..観ていると、こういうことをしている人は、何人もいる。)

 やはり、「黄色いガウンの3大美少女」(リュートを調弦する女真珠の首飾りの女手紙を書く女)が並んでいるさまは、圧巻である! 時を忘れて、見入って(魅入られて)しまった..

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 フェルメール以外の作品で、前回は紹介しなかったものを、2点。左図、ヤン・ミーンセ・モレナールの「宿屋デ・クローンの外」は、私の大好きなジャンルの絵である..いや、このジャンルの「絵」が好きというよりは、このジャンルの「世界」の中で、飲み食い、放蕩 遊戯にふけるのが、好きなのであるが..[;^.^]

 ヤン・ウェーニクスの「野ウサギと狩りの獲物」は、毛皮の質感の再現が、圧倒的! 解像度高めでスキャンしたが、こればっかりは、実物を観ていただかないと..



 図録から。「フェルメールは何を描かなかったのか」(千足伸行、p188)での指摘。彼が描かなかったのは、子ども、ペット、老人、下層階級。楽器ならばバグパイプ。主婦/女性の家事も(「レースを編む女」を除けば)描かれない。外光/直射日光も。「フェルメールの光は印象派的な自然光(外光)ともランプ、ロウソクなどのバロック的、劇場的な照明とも違う、「第三の光」とも呼ぶべき光である。逆に言えば、彼の室内画は戸外の自然の光、いわば生の光は敬遠しているかのようである。その意味では、フェルメールの光について語るのはいいとしても、彼を、印象派の先駆者のように位置づけることには多少の慎重さが求められよう」(p190)

 東京駅の新幹線改札口が、「非常に」混んでいる。年末だからから? いや..それにしても、度が過ぎている..どうも、東北新幹線でトラブルが発生したようだが..14:26のこだまで、16:21、浜松着。17:00、帰宅。

 さっそく確認。9:50、東京駅で、東北新幹線がトラブル。最大90分の遅れが発生していたとのこと。その余波だったのか。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jan 3 2019
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