*2015年09月07日:遠雷と稲光
*2015年09月08日:朝から大雨
*2015年09月09日:浜松に暴風警報
*2015年09月10日:安全地帯の狂犬ども
*2015年09月11日:藤田和日郎の衝撃画法
*2015年09月12日:東芝PC工房/「冥途のみやげ」展後期
*2015年09月13日:「風景画の誕生」展
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*2015年09月07日:遠雷と稲光


 終日、怪しい空模様。結局、夜まで降りはしなかったのだが、18:30過ぎに、稲光と遠雷。やがて雨。

 ..をを、CSが入らん [;^.^]。幸い、今日明日は重要番組の録画予定はないが、明後日、9月9日の深夜には、先週(やはり天候不順のため)録画失敗したBS番組の再放送がある。ぎりぎり、台風18号が通り過ぎたあとかな..(通り過ぎていて欲しい..)

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*2015年09月08日:朝から大雨


 朝から iPhone、緊急速報を何度も受信する。サイレントモードでも警告音が鳴るのは正しいと思うが、そのメッセージをうっかり(スライドして)消してしまうと、二度と読めないのは、仕様バグである。(大体、緊急速報が鳴ると慌てて iPhone を取るので、こういうことをしがちなのだ。)

 夕方には雨は大体収まったか..でもまた、降るはず。(昨日の日記に書いた理由で)明日の深夜が心配である..

 BDレコーダーのHDDに滞留していた(未見の)映画を9本、BD−Rに落とした。これでかなり余裕が出来て、長期休暇の前にあたふたとHDDを空けなくてもよくなったのはいいのだが..いったんこうして「片づけて」しまうと、二度とこの(未見の)映画にアクセスしなくなる可能性が高いんだよなぁ..[;^J^]

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*2015年09月09日:浜松に暴風警報


 5:30頃、暴風雨。18号は、今日がピークか。東海に上陸の見込み。

 浜松地区に暴風警報。暴風警報が出たら出社に及ばず、と、社内告知されていたような気がするが、このあたりでは(出社時刻頃には)たいした強風でもなくなっていたので、会社命令を無視して、平然と出社してしまう [;^.^]。私の部署では、同じことをやらかした(出社した)のが、あと4〜5名。終礼時にお小言を頂戴いたしました。[;_ _][;^J^](たしかに、「危険だから出てくるな」という会社命令を無視して出社して事故った場合、労災的にややこしいことになるはずである。[_ _})

 東芝のノートPC(T554/76LB)のバッテリー交換が必要だ。(多分、本体側の故障ではない。)そこで、東芝のカスタマーサポートに電話。秋葉原の東芝PC工房に持ち込むのが早い。(数時間で終わる。)購入店であるビックカメラを通したりしたら、軽く1週間はかかるのではあるまいか。

 ということで、東芝PC工房に電話。9月12日(土)に上京するので、その日に持ち込めればベストなのだが、何しろ直前。既に予約が満杯ということなので、19日(土)に予約した。2週連続上京というのもなんだが、実は、この19日から始まる「シルバーウィーク」の行動計画が、いまだに決まっていないのである。基本、浜松に引きこもる予定だったが、19日に上京するということなら、そのまま横浜の実家に居続け、ということになる..

 ..とか、いろいろシミュレートしていたら、東芝PC工房から電話。12日のスケジュールを空けました、12日に持ち込み、OKですとのこと。浜松から上京するということで、こちらの都合に合わせて便宜をはかってくれたようだ。ありがたい、ありがたい [-人-]。目下、東芝は大逆境のまっただ中だが、頑張って欲しい。

 午後から、雨上がる。残業せずに帰宅した頃には、既に晴天。

 深夜の再放送BS番組、無事にベストコンディションで録画成功。

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*2015年09月10日:安全地帯の狂犬ども


 中東から欧州へ大移動中の難民たち。国境を封鎖しようとしているハンガリーの措置には国際社会から非難が殺到しているが、ハンガリーにはハンガリーの事情がある。私は気楽に「賛成」とも「反対」ともいえない。

 驚くのは、このニュースに関連する日記やブログに、難民たちに対するヘイト(ディス)が少なくないことである。「難民なんか、なんの役にも立たない。自国(シリア)に残って戦え!」、とかね..

 ..正気かよ..(もちろん、正気である。知能程度が水準を遥かに下回っているだけの健常者の発言である。)こんなのにいちいち突っ込む価値はないが..私がこの種の発言を何よりも嫌う(ヘイトする)のは、「自分が安全地帯にいる(ことが保証されている)」からである。難民は(今のところは)日本には来ないし、どんなに「過激な」ことを書き散らかしても、誰にも殴られないしね。

 卑怯者。

 3.11のときもそうだった。日本沈没とは言わないが、原発があんなことになってしまっても、なお、原発放棄に動かない日本の大衆に対して(または原発以外のさまざまな日本の問題に対して)「絶望」し「軽蔑」し「遥かな高みから意見してくれた」のは、たとえば欧州に在住している日本人である。(「元日本人」かも知れないが、どうでもいい。)そりゃもちろん、なんとでも言えるさ。「安全地帯にいる」んだから。「現場」にいないんだから。(彼等はもちろん、日本に帰ってくるつもりも、視察旅行するつもりも、ないであろう。「地獄と化した日本」に残されているのであろう家族/親族を「救出する」つもりすら。)「外に出ると、よく見える」というのは、事実である。それは否定しない。しかしその立場に「安住」して、「キャンキャン吠えるだけ」の人間に払うべき敬意は、地球上に存在しない。

 卑怯者。

 「安全地帯」にいること自体は、罪ではない。引け目を感じる必要は、一切、無い。そのかわり、「安全地帯」にいればこその、建設的な行動/発言/提言をするべきだ。それを実行している人は、もちろん、大勢いるのであるが..残念ながら、狂犬どもの吠え声のほうが、遥かに大きく、騒がしいのである..

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*2015年09月11日:藤田和日郎の衝撃画法


 残業せず。それにしても北関東の複数の堤防決壊、被害甚大である..大地震が来なくても、いわば「(日常茶飯事として毎年いくつもやってくる)たかが台風」でも、これだけの被害が発生するのである..

 その一方で、台風こそは、日本にとってもっとも重要な「自然のめぐみ」のひとつなのである。きくところによると、全世界でも「水の心配のない国」は本当に少なく、カナダ、ブラジル、インドネシア、ノルウェー、アイスランド、そして、日本。僅かこれだけしかないという。

 昨夜は、「GIRLS' FACTORY 15 <Day1>」(代々木第一体育館、2015/08/03、生放送)の録画をようやく観たのだが(なんせ、4時間もかかるのである [/_;])、今夜は、「GIRLS' FACTORY 15 <Day2>」(代々木第一体育館、2015/08/04、生放送)の録画をようやく観た。(なんせ、4時間もかかるんだから。[/_;][;^.^])

 Day1 では、スターダストの若手グループの歌唱力の低さがいささか目立ってしまったが、Day2 ではゲスト陣も充実しており、なかなか見応えあった。和田アキ子と有安杏果のデュエットはもちろん素晴らしく、メジャーデビューしたばかりだという桐嶋ノドカも、聴き応えがあった。小南泰葉という歌手は知らなかったのだが、歌も(ある意味)迫力あったが、それよりなにより、左腕が洗濯板みたいで..[;_ _](こういうの、はじめて、見ました [;_ _] ..誰もそこには触れなかったけど。[;^.^])

 深夜、Eテレで「浦沢直樹の漫勉」を録画。先週から始まった新番組だが、気が付いていなかった。今夜は第2回で「藤田和日郎」。毎回ひとりの漫画家にフォーカスして、その執筆風景(というかペン先)に密着するという、意欲的な企画である。(ある意味、「企業秘密」がバラされてしまう側面もあるわけだ。)

 ..驚いた。浦沢直樹が、「..今回は、漫画界が騒然となりますよ..」と予告していたのだが、誇張ではなかった。藤田和日郎は、「下書きを描かずに、いきなりペン入れをする」のである! 簡単なアタリ(人物や背景の配置を示す簡単な線)ぐらいは描くが、その上に、いきなりペン入れ! ときには、アタリすら入れていない箇所(つまり、全くの白紙の箇所)にも、ガンガンペン入れ! そして、ホワイト。(下書き無しに)ペン入れしていった線をどんどんホワイトで消していき、その上にまたペン入れし、それをまたホワイトで消し..藤田和日郎は「どちらかと言えばホワイトが筆記具」と言っているが、実際、ペンとホワイトがほとんど等価というか、同じぐらいの分量を使っている。こんな描き方をする漫画家を、初めて見た。

 以下、大意だが、藤田和日郎曰く、「とにかく、白紙に対する恐怖がある。これを(締め切りまでに)埋めなくてはならない。そのために、一刻も早く(本番の)ペン入れをしたいという想いがある」..「とにかく、着手しろ!」、ということだ。(鉛筆による)下書きは、どれだけ描いても所詮は下書きに過ぎない。さっさと本番の線を描いてしまえ! ..浦沢直樹もいたく共感していたが、私にもこれは理解(共感)できる。「段取り八分」も真実だが、「始めなければ終わらない」のもまた、真実なのである。

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*2015年09月12日:東芝PC工房/「冥途のみやげ」展後期


 天気はOK。例によって6:05に自宅を発ち、7:00、浜松駅前バスロータリー発の渋谷新宿ライナー浜松2号で上京。15分ほど遅れて、11:10、渋谷マークシティ着。

 銀座線ですぐに末広町へ。この駅前すぐにある「東芝PC工房」着が、11:45。ノートPC(T554/76LB)を(バッテリー交換のために)持ち込みにきたのである。先日の電話で、今日、予約済みなのだが、12:00から13:00まで昼休みに入ってしまうので、できれば午前中に持ち込みたかったというわけ。間に合った、やれやれ。

 PCを預けておいて、昼食は、近所の一刀家ラーメン。上野に移動。13:10、東京藝術大学大学美術館。「うらめしや〜、冥途のみやげ展」の後期展示である。明日(9月13日(日))が最終日なので、あなたがこれを読んでいる頃には、既に終了している。[_ _](一部を除いて、前期とほぼ総入れ替え。)

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 左図は、谷文一の「燭台と幽霊」。なんともひっそりと、いやぁな感じがする逸品 [;^J^]。それは、この幽霊の「存在感の薄さ」にも「腫れぼったい目」にも由来するが、ポイントは、画面の(向かって)右端。この幽霊の左手が、「絵の縁(ふち)」にかかっていることである..つまり、「こちら側」に出てこようとしているのだ..S子のように..[;_ _][;_ _][;_ _][;^.^]

 中央は、渡辺省亭の「幽女図」。このなんとも儚げな風情も(型どおりといえば型どおりなのだが)好きである。幽霊画の基本だと思う。

 右図は、中島光村の「月に柳図」。ぱっと見、どこに幽霊がいるかわからない人は、少し引いて見てみるといい。こういうの、いいなぁ..なぜなら子どもの頃、私はこういう「幽霊(とは必ずしも思わなかったが)」を、たくさん、たくさん、見てきたからである。この能力(私の好きな造語(だと思う)を使えば「幻視力」)は、大人になって、枯れ果てていく(失われていく)一方なのである..[_ _]



 以下、あまりにも人口に膾炙している作品は(スキャンが面倒なので [;_ _][;^.^])画像検索結果へのリンクで済まさせていただく[_ _]。月岡芳年の「応挙之幽霊 雪舟活画」画像検索結果)は..意外に検索できなかったな [;^J^]。「応挙之幽霊」は、幽霊画の(伝説としては創設者にして)第一人者である円山応挙が、自分が描いた幽霊画があまりにも迫真的で本当にそこから幽霊が出てきてしまい腰を抜かす、という漫画的作品。「雪舟活画」は、どなたもご存知、柱に縛られた雪舟が足の指先で鼠を描いたら、それが本当に鼠になってしまったという趣向。

 葛飾北斎の「さらやしき 百物語」画像検索結果)の物語を、もしもあなたが知らなかったとしたら、日本人として、ダメである(← そこまで言うか。[;^J^])この機会に憶えておきなさい。井戸から出てきて涼しい顔して煙草を吹かしている「ろくろ首」がお菊で、その(長い)首は「皿」をつなげて出来ている、という、この、驚異の(超現実的)奇想をどこから得たのか、想像もつかない。日本が世界に誇るべき超逸品である。

 月岡芳年の「新容六怪撰 平相国清盛入道浄海」画像検索結果)も、あまり検索できなかったが、庭の雪景色が髑髏の群れのダブルイメージとなって清盛を脅かそうとするが、清盛はそれを睨み消してしまうという、名場面。

 歌川国芳の「源義経都を打立西國へ相渉らんとせし折から大物の沖にて難風に逢給ひしに平家の亡霊あらはれて判官主従に恨みをなす」画像検索結果)は、何よりもまず、この長いタイトルで画像検索できたことに驚いたが [;^J^]、遥か海上の彼方を漂いゆく、巨大な亡霊たちの迫力と恐ろしさを見よ!

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 左図は、月岡芳年の「月百姿 卒都婆の月」。これ自体は幽霊画ではない。この老婆は、小野小町のなれの果て。謡曲の一場面であり、このあと僧と対話するうちに発狂してしまうのだが..別になんの怪異現象が描かれているわけでもないが、しみじみといい絵だと思う..

 右図は、ほとんどその対極 [;^J^]。河鍋暁斎の「幽霊図」。おそらくは敵(かたき)の生首を銜(くわ)えて振り回し愚弄しているこの幽霊の、即物的な恐ろしさの素晴らしさ!



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 そしてこの作品こそが、本展覧会の目玉。上村松園の「焔」。ご存知、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)である。(← 知らなかったら、ぐぐれ、今すぐ!)図像(あるいは映像)表現は数多(あまた)あるのだが、それらの中でも一頭地を抜いているのではあるまいか。私の贅言は一切無用。日本人が生み出した「恐怖美」の最高傑作のひとつと、ただただ、対峙していただきたい..



 14:45に退出して、銀座線で秋葉(末広町)に戻る。近いね。15:30、東芝PC工房に預けていたT554/76LBを受け取る。16:00、メトロで神保町。書店をハシゴして、18:00、高円寺。

 改札で、Kさん、Hさんと待ち合わせて、3人で飲み。「クラフトビアマーケット」、「Sugi(杉)」、「How High The Moon」とハシゴして、23:30に散会。(最後の店で飲んだ(というか舐めた)70度の酒は、さすがにきつかったが、帰り際、グラスの底にまだ1cm以上残っていたので、一気に片づけました [;^.^]。酒を残してはいかんっ 世界には酒どころか食事も満足に(以下略))

 0:25に、水道橋のスパ ラクーア。

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*2015年09月13日:「風景画の誕生」展


 9:00にラクーアを発ち、10:00にBunkamuraザ・ミュージアム。(実際には、10分以上前に着いて、開くのを待っておりました。)「ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生」である。(12月7日(月)まで。)

 全体として、やや小粒な展覧会であるという印象は否めない。なにしろ、(考え方にもよるが、私見では)「ルーヴル美術館」級の名美術館、「ウィーン美術史美術館」からのセレクションなのだから、もう少し重量級の名作を持ってきてくれても良かったのではないか、と。しかしこれも考え方次第で、「風景画の誕生と発展」という「歴史(流れ)」を展示するには、突出した名作は邪魔だ(そればかり注目されてしまうから)、という判断もあるだろう。私はこの考え方を支持する..が、ピーテル・ブリューゲル(父)の作品が、1枚ぐらいあっても良かったかな、とも思う。[;^J^]

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 左図が、この展覧会の目玉、ヨアヒム・パティニールの「聖カタリナの車輪の奇跡」である。なぜなら、パティニールは「風景画」というジャンルの創立者であり、この作品こそ、「世界風景」の条件を満たす彼の最初の作品である、とされているからである。

 実に「世界風景」こそ、私がもっとも愛するジャンルなのであるが、「世界風景」でぐぐってみても簡単には検索できないようなので、ざっと説明(類書から引用)しておくと、俯瞰的視点をとって、間近にある物から世界の果てまでの全てを描き出す、「地上の人間の営みが宇宙論的なスケールの「風景」のなかに位置づけられる一種の想像画、いうなれば幻想絵画のことである」(「廃墟の美学」(谷川渥、集英社新書、23頁))。

 最初の「世界風景」であるだけに、まだ表現に拙いところはあるのだが、そのはかり知れないほどの歴史的重要性は、理解していただけるだろう。

 右図は、「ヒエロニムス・ボスの模倣者」による「楽園図」である。作者名がなんだかディスられてるっぽいが [;^J^]、要するに、ボス風の作品を描いた氏名不詳の作者、という意味であり、他意はない。[;^J^](こういう人は、ジャンルを問わず、歴史上無数にいるのであり、20世紀や21世紀のクリエイターの大多数も、500年もたてば(その頃まだ人類文明が存在しているとして)こういう扱いになるはずである。[^.^])

 まぁ、こういう呼ばれかたをするのもまことにもっともなことなのであって、西洋美術が好きな人がこの作品を観たら、ひとめで見抜くであろう。これは、ヒエロニムス・ボスによる西洋美術史上の最重要作のひとつ、「悦楽の園」幻想美術選)の(主として)左翼を圧縮・再構成した作品なのである。(無論、多少の工夫を加えてはいるが。)だからといってこの作品に価値がないか、というと、そんなことは「まったく」無い。当時の人々の「悦楽の園」観(「悦楽の園」の人気、そしてそのどこに特徴や重要性を見出していたのか)がわかるからである。さらにいえば、巨大で壮麗な「悦楽の園」を観るよりも、物理的にも内容的にも小型でコンパクトにダイジェストしてくれたこの作品を観るほうが「楽だ(疲れない)」という、重要なメリット(← これ、本気で書いてます [;^J^])もあるのである。

 とにかく、実に興趣尽きない、面白い作品である。私にとっては、この展覧会は、この2作でほとんど元が取れたようなものである。[^J^]



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 これまた、観る人が観ればひとめでははぁ、となる、ピーテル・ブリューゲル(父)風の作品。ルーカス・ファン・ファルケンボルフの「夏の風景(7月または8月)」である。ファルケンボルフは、ピーテル・ブリューゲル(父)のフォロワーとしてもっとも高名なひとりであり、さきほどの「模倣者」に比べると、名前が残った分、幸運であったと言えるだろう [;^J^]。まぁ、ブリューゲルの作品をもってこれなかったのでピンチヒッターで、という側面も、皆無ではないと思うが..

 ちなみに、先ほどのバティニールの作品と違って、こちらは「世界風景」ではない。「俯瞰的視点をとって、間近にある物から世界の果てまでの全てを描き出している」とは言えなくもないが、(しかしほとんど農民しか描かれていないし、)なによりも、「地上の人間の営みが宇宙論的なスケールの「風景」のなかに位置づけられている」とは言えないからである。むしろ、より親しみやすい「大規模で広大な風俗画」である。私が、このジャンルも愛していることは、言うまでもない。

 (なお、図版左端が明るくなっているのは、図録からのスキャン時、書籍の内側(中央)の「ノド」にあたる部分で、光の侵入を(部屋をほとんど暗室状態にしたのだが)排除しきれなかったためである [_ _]。図録を分解すれば解決する問題であるが、私にはそういう発想は、ない。[_ _])



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 同じく、ルーカス・ファン・ファルケンボルフの「盗賊の奇襲が描かれた高炉のある山岳風景」。(上記作品と同じ理由で、画面左端が明るくなっている。[_ _])この山岳の造形には、ブリューゲルの元ネタ(版画)がある、と、図録で指摘されており、調べてみたら、確かによく似ている。そしてこの図録では、ブリューゲルの版画に比べて、広がりが足りないだの大きさがわからないだのとディスられているのだが [;^.^]、判官贔屓というわけではないが、私、ファルケンボルフのこの作品、好きです。[;^J^]



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 ヘイスブレヒト・リテンスの「宿営する放浪の民のいる冬の風景」。少し不思議な図像で、人物たちが、冬景色にも関わらず、必ずしも寒そうではない。冬装束をして手を焚き火で暖めている老人もいれば、半裸の人もいる。しかしそれにしても、この森の木々の生命感!



 12:15に退出。昔はこのあと、もうひと展覧会ぐらい片づけてから、17時か18時の新幹線に乗ったものであるが、最近はもう、そんな元気はない [;^J^]。13:03東京発のひかりで、14:32、浜松着。15:15、帰宅。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Sep 18 2015
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