*2002年06月24日:「図説 からくり」
*2002年06月25日:3ヶ月
*2002年06月26日:“オリジナリティ”とは何か その一
*2002年06月27日:“オリジナリティ”とは何か その二
*2002年06月28日:佐藤春夫
*2002年06月29日:「こうもり」起動
*2002年06月30日:同期会の準備
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*2002年06月24日:「図説 からくり」


 「図説 からくり」(ふくろうの本、河出書房新社)を読む。このビジュアル系のシリーズ、結構当たりはずれがあるのだが、本書はまずまず当たりの部類だろう。

 特に日本のからくりの小史として、手早くサーベイ出来て便利である。有名な茶運人形の設計図も掲載されており、大変興味深い。

 但し、巻末に収録されている「永久機関物語」は、ややテーマから外れている上、さほど面白くもなく、中途半端である。従って、責任もってお薦めできる本とは言い難い。まず店頭で、内容を確認されたし。

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*2002年06月25日:3ヶ月


 冷蔵庫の奥の方に、卵がいくつか残っているのを発見。品質保証期限は、3月末である [;^J^]..が、卵は冷蔵しておきさえすれば、意外に保つ(はずである)。

 というわけで、目玉焼き(半熟)にした..問題ない。「卵は3ヶ月は保つ」、と憶えておいていただいて、結構である。[^.^](但し、腹を壊しても責任はとらんよ。それと、私は固ゆでの目玉焼きが嫌いなので半熟にしたが、限りなく“ナマ”に近い「半熟」は、それなりにリスキーであることに注意せよ。)

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*2002年06月26日:“オリジナリティ”とは何か その一


 「オリジナリティ」は“神聖”である。そうでなくとも最早万人に可能となった「完璧なデジタルコピー」が蔓延する現代社会にあっては、逆にだからこそ、「オリジナリティ至上主義」に“帰依”するしかない、とすら言えるほどだ。

 しかし..この「オリジナリティ至上主義」には、看過できない「異議申し立て」が存在するのである。

 まず、澁澤龍彦である。

 いま直ちには例を引けないのだが、澁澤龍彦の文章には、明らかな「元ネタ」があるものが少なくないのだ。それも、“「思想」や「視点」を借りてきて自分で語り直す”のではなく、“文章をまるごと引き写している”のである。しかも、「引用」の要件を満たしていない。つまり、自分の文章中のその個所は「自分のオリジナルの文章ではない」、ということを、明示していないのである。

 厳しく言えば、これは「剽窃(盗作)」ということになるのだが..そしてこのこと(「剽窃」)は別に秘密でも何でもなく、彼の周囲の人々や、ちょっと突っ込んで澁澤龍彦にのめり込んだ(そして澁澤龍彦を核として読書体験を広げていった)人々には、公知のことであるのだが..何故か、「マイナスイメージが“無い”」のである。

 これは一体、どういうことだろう? そもそも、澁澤龍彦本人にしてからが、「オリジナリティ至上主義」など認めておらず、また、自分の文章の「元ネタ(引き写し元)」の翻訳がでれば、それの推薦文を腰巻きに書いたりしているわけで、「(楽屋裏が)バレる」ことなど、全く歯牙にもかけていない、その天衣無縫さ故だろうか?

 もう一例。荒俣宏。

 彼としては珍しい(ごく初期の)仕事であるが、漫画家であった時期がある。私が目にしたことがあるのは、まぁ傑作とは言えないまでも、小洒落た描線と世界観の、小さな短編ファンタジーであったのだが..その扉ページの街の風景が、今世紀初頭のいわゆる「挿絵本」(美麗なイラストが添えられた、一群の書籍)からの、完全なパクリであったのである。そして、その「元ネタ」の(傑作)イラストを、彼は別の場で、嬉々として紹介しているのである。

 上記の澁澤龍彦の場合は、「パクリ」行為自体に無自覚であるように思えるのだが..荒俣宏の場合は、明確に意識的である。「パクリのどこが悪い」、と、とあるエッセイで断言していた。「毎月毎月厖大な量の絵を描かなければならないのが(日本の)職業漫画家である。それら全てを自分のオリジナルな絵で埋めることなど、考えるまでもなく出来るはずがなく、だから、内外の画集から引き写すのは漫画文化(漫画業界)の“前提”であって、それは恥ずべき事でもなんでもないのである」、という。

 そう言われてみれば、そうかな、とも思う。

 以上2例、「オリジナリティ(の神聖さ)とは何か」、という、自分の思索を揺さぶる例であった。私なりの結論は、まだ出せていない。

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*2002年06月27日:“オリジナリティ”とは何か その二


 昨夜の続き。

 澁澤龍彦、荒俣宏などのビッグネームを持ち出すまでもなく、「“オリジナリティ”とは何か」という問題に、多くの人が直面しているのではないか。このインターネット時代(というか、正確には、パソコン通信時代も含めて「価値ある大量の文章が、電子データとして流通するようになった時代」)には、他人の手になる文章のオリジナリティを“ちょいと”無視するだけで、実に効率よく内容豊かな“自分の”文章を、アウトプットすることが出来るようになったからである。

 早い話が、他人の文章からの切り貼りだ。もちろん、原理的には大昔から可能なことであり、現に数多く切り貼られてきたわけだが、ほんの少し昔までは、「切り貼りにはそれなりの労力が伴っていた」のである。手で、あるいはタイプライターで書き写さなければならなかったのである。そういうハードルがあればこそ、一定の歯止めはかかっていたろうし、逆に、そのハードルを越える段階で、自分の思想で捉え直し、自分の言葉で語り直していたこともあろう。(そうなれば、これはもはや単なる「切り貼り」ではないし、もちろん「剽窃」でもない。)

 しかし、今は違う。サクッと検索するだけで、“使える”文章(電子データ)が、山ほど自分の端末に立ち上がる。そこから切り貼りするだけで、簡単に、立派なレポートが出来上がる。(ここでは、かかる「労力」の差が、決定的に本質的なのだ。)「レポート」ならまだしも、「商品」(小説やエッセイなど(の一部分))すら、こうして組み立てられている例もあろう。

 これをもってして、「いけないことだ」「酷い時代だ」というのは、いともたやすいことであるが..その言明は、ほとんど何の役にも立たない。現に、大勢(数万人、数十万人、あるいはそれ以上)が実行していることなのである。日本だけのことではあるまい。そしてこれから全世界で、ますます増えて行くことだろう。「ウォーターマーク(デジタル透かし)」によって、こういう行為をいくらかやりにくくすることは可能かも知れないが、ごく限定的な効果しかもたらさないだろう。デジタル署名も同断。「引用のルール」(出典の明示など)を“万人”に守らせることは、不可能だろう。

 自分が書いて発表した文章が、自分の制御を離れて万人に共有・再利用される時代になってしまったのだ。従来からの「オリジナリティ至上主義」は、まさに危機に瀕している。そして時計の針を戻すことは出来ないのだ。私の考えは、まだまとまらない..

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*2002年06月28日:佐藤春夫


 「怪奇探偵小説名作選 4 佐藤春夫集」(日下三蔵編、ちくま文庫)を読む。

 特選が、「「オカアサン」」「美しき町」。佳作が、「月かげ」「のんしゃらん記録」「女誡扇綺譚」。他、「西班牙犬の家」「指紋」「奇談」「小草の夢」「マンディ・バナス」「女人焚死」「或るフェミニストの死」が、記憶するに値する。

 「或るフェミニストの死」を一読して、おやおやと思った。この主人公は、最終的には「浜松」に移り住み、そこで「時計の修理屋」を営むのである。(某メーカーの社員は、皆、おやおやと思うはずである。)無論、そのメーカーの創業者と、この小説の主人公(の人間像)にはほとんど何の接点もなく、単にキーワードがふたつマッチしただけなのであるが、とはいえしかし..[;^J^]

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*2002年06月29日:「こうもり」起動


 今日の午前中に時刻指定したはずのワインが、午後になっても届かない 凸[-_-"]。これだから、自宅で代金引換で荷物を受け取るのは嫌なんだ。いつもいつもこういうトラブルがあるわけではないが、それでも5〜6回に1回は、時刻指定が「無効」となる。一人暮らしの人間にとっては、ほとんど致命的である。

 なにしろ私は、午後から仕事を入れていたのである。これがパーになった。さらに、いつ届くか(正確には、「これから届けます」という電話がいつかかって来るか)予想できないので、朝の8時から半日以上、トイレに入ることも出来なかったのである。

 結局、18時を回ってから届いたのだが..この愚鈍な配達員は、そもそも「午前必着」の指示を見落としていた。さらに、「代引きだから必ず先に電話して(代金の用意が出来ているかどうか)確認せよ」、という、大書された張り紙の指示も守っていなかった。

 その場では特に暴行は加えなかったが、あまりに酷いので、ペリカン便に電話して注意した。

 FCLAの夏オフまで、あと一ヶ月少々。今年は、近年使用してきた「滝野川会館」が使えず、やや手狭な会場で開催されるのだが、事前の盛り上がりにいまいち欠け、特に「オペラ枠」が成立するかどうか、なんとも危うい。

 そこで、3年前に主催した「こうもり 第2幕」(ヨハン・シュトラウスII世)を、再度プロデュースすることにした。前回は、第2幕を「全部」という画期的な試みを、強引な仕切り(パワー)で実現したのだが、今年はそんなパワーもないし、そもそも歌手陣がどの程度参加するか全く見えないので、「抜粋」として製作表明した。ま、なんとかなるでしょ。

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*2002年06月30日:同期会の準備


 朝の7時から休日出勤。昨日の午後、働けなかった埋め合わせである。22時過ぎまで、ひたすら勤勉に仕事する。

 休憩時間の隙を盗んで、(1984年入社組の)同期会の日程決定と店の予約をする。(成り行き上、私が幹事を引き受けることになったのである。)なにしろ、18年間、ほとんど顔を合わせていない連中も少なくない。そもそも同期の誰が浜松にいるのか、社員名簿だけからでは確信をもって同定できず、1984年の社内報の「新入社員特集号」から、氏名を拾って名簿を作ったのだが..これは痛かった [;^J^]。新入社員というのは、要するに限りなく「学生」に近い。こんにちの中堅社員の「学生時代の顔写真」など、見るべきでは無かった [;^J^]。あまりの若々しさが、痛々しい..

 何より参ったのが、私の顔写真である。ほとんど変わっていないのである [;^J^]。吸血鬼か、お前は。[;^.^]

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 3 2002 
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