*2002年02月04日:完璧VS完璧
*2002年02月05日:「猟奇文学館」
*2002年02月06日:いまさら..
*2002年02月07日:あるいは群体
*2002年02月08日:「モリ・ミノル 漫画全集」
*2002年02月09日:この世の至福
*2002年02月10日:「ハリー・ポッター」
*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*2002年02月04日:完璧VS完璧


 正面から歩いてくる人を避けようとして、歩きながら左に寄る..と、相手は同じ方向に(すなわち彼から見て右に)寄る。逆に右に寄る..と、相手は(彼から見て)左に寄る。これを何度か繰り返して、お互いに苦笑..誰もが年に数回はやらかす、微笑ましい光景である。

 微笑ましい光景ではあるのだが、私は小学生時分にやらかした「これ」を、いまだに執念深く憶えている。相手は、とっくの昔に忘れているだろうが..というか、こんな些事を30年以上も憶えている方が、異常である。

 そのとき私は、道の右側を歩いていた。正面からは(やや若くない)女性が(彼女から見て、道の左側を)歩いてきた。このままでは衝突する。私は当然ながら、左側に進路を変えた。(これ以上右側には行けないのだから。)それと同時に向かいの女性は、右側に進路を変えたのである。考えてみれば当然だ。彼女は左側には進めないのだから。(つまりふたりとも、“相手が転進することを見越して直進する”という選択肢は採らなかったわけだ。)

 このままではやはり衝突するのだが..ここで私は考えた。このまま左に進むべきか直進すべきか右に転進すべきか。

 正対しているふたりが、一度でも“鏡像的に逆向きに”動けばいいのである。いったん「外れて」しまいさえすれば、あとは直進するのが“自然”なので、無理なくすれ違える。(いったん正対位置から外れた段階で、さらに斜めに進行する人は、滅多にいない。)問題は、相手が次にどの方向に進むのか、私には制御も予想もできないということなのだが..“制御”は無理としても“予想”はできないこともない。つまり、「この事態において同じ方向に歩き続ける人は滅多にいない」、という経験則である。ほとんどの人が、ジグザグ航法、もといジグザグ進路を取る..ということは、こちらは同じ方向に(この場合は左側に)進み続ければ、相手が「ある時点で」逆向きに進んでくれる可能性が、極めて高いと言える。

 ..上記パラグラフの内容をコンマ5秒で考察し終えた私は、その結論に従って、左向きに進み続けた。

 ..誤算だったのは、相手も同じ考察をして、その結論に従った(すなわち、右向きに進み続けた)ということである。

 かくして、完璧な(少なくとも、もっとも妥当な)戦術を採った二人の聡明な男女は、道の反対側(私から見て「左端」)で正面衝突したのであった。

 ここまでは、やむを得ない。「相手も完璧な考察をするだろう」とは、普通は想定しない。完璧な思考機械が(たまたま)出会ってしまったことが、災厄の原因なのであった。ここまでは良い。しかしこの事態をフォローした、相手の女性の一言。

 「右側通行してくださいよ!」

 「..はい。[;_ _]」

 ..と、思わず気圧されて尻尾を巻いてしまったのだが..よく考えたら、最初に左側通行していたのは、あんただろーが!

 ..などと、あとから思い至って憤激しても、まさに負け犬の遠吠え。コトにあたっては、先に言ったもんの勝ちである、という教訓であった。(30年以上も根に持っているんだがな!)

*目次へ戻る


*2002年02月05日:「猟奇文学館」


 先週末の日曜日から読み始めた、七北数人編の「猟奇文学館」(ちくま文庫)の、残り2巻を片付ける。

 第2巻「人獣怪婚」からは、「美女と赤蟻」(香山滋)、「獏園」(澁澤龍彦)、「透明魚」(阿刀田高)、「幻鯨」(赤江瀑)、「わがパキーネ」(眉村卓)、「鱗の休暇」(岩山隆)、「白い少女」(村田基)、「心中狸」(宇野鴻一郎)など。第3巻「人肉嗜食」からは、「ことろの首」(夢枕獏)、「夜叉神堂の男」(杉本苑子)、「子をとろ子とろ」(高橋克彦)、「悪魔の舌」(村山槐多)、「狐憑」(中島敦)、「秘密(タプ)」(小松左京)、「肉屋に化けた人鬼」(牧逸馬)、「姫君を喰う話」(宇野鴻一郎)などが、推薦できる。(既読の短編、多数。)

 3巻で終わってしまうのは寂しい。もう少し続けて欲しいテーマなのだが..しかし無理に引っ張って薄味になるよりは、切り口を変えてさまざまなテーストのなアンソロジーを作る方が実り多いということは、私も承知している。

*目次へ戻る


*2002年02月06日:いまさら..


 もう、ほとぼりもさめたからネタにしてもいいだろう。

 ネットニュースの、とあるニュースグループで、「最近聴いたCD中、推薦できるものについての短文」を、半ば定期的に投稿していた人がいる。私自身は、その記事を読んだり読まなかったり(読み飛ばしたり)であったが、誠実な筆致であり、概して面白い記事であった。ほとんど全く問題無い..

 ..唯一の瑕疵は..その記事中には(何故か)当のCDの「CD番号」が記載されていなかった、ということである。レーベル名と曲名と演奏者名しか書かれていない。これは不便だ..というか、はっきりと困る。というのは、「レーベル名と曲名と演奏者名」だけでは、CDを特定出来ないからである。仮に一意に特定するとしても、それを聴くためには(買うためには)なんらかの手段で、読者がCD番号を調べなくてはならない..

 ..などという、しょうもない瑕疵は、さっさと指摘してあげれば良かったのである。別に彼には意地悪しようなどという意志は無い。(どうも、CD番号を記載しないことが、「スタイル」としてカッコイイ、と考えていたフシがある。)ところが..

 私が、いい加減腹に据えかねて、このことを彼に指摘メールしようかと思った頃には、既に彼のこのシリーズは、10本以上も投稿されていたのである。

 いまさら..

 ..そう、「いまさら」、なのである。

 誰しも、憶えがあるはずである。「そんなこと、“いまさら”言ってあげられないよぅ..」

 指摘された方にとってみれば(指摘してもらえたことに対する感謝はするとしても)恥ずかしいことに変わりはなく、「なんで今まで言ってくれなかったんだ..!(もっと早く改めることが出来たはずだったのに..!)」、と、逆恨みされる“かも知れない”、と、先回りして心配してしまうからである。(“逆恨み”されるとは、全然、限らないんですけどね。)

 漢字の読み方や外来語の発音など、いい歳をして飛んでもなく間違った思い込みをし続けている人は(恐らく私を含めて)ザラにいるが、それは結局、周囲の人々が前記のような気の回しかた(気の病みかた)をして、指摘しようにも指摘できない、という事態が、ずーっと、続いてきた結果なのであろうと思う。

 私のかつての上司は、「鍔迫り合い(つばぜりあい)」を「壷迫り合い(つぼぜりあい)」と間違えて憶えており、しかもこの「つぼぜりあい」は、彼の得意の言い回しであった。最初に聞いた時点ですぐに気が付いたのだが..新入社員に(当時)係長の日本語の間違いを指摘するのは度胸がいることであって..まぁいっか、と、その場は「見逃してしまった」ことによって、指摘するチャンスを“永久に”失ってしまったのだった。恐らく彼は、いまでも「つぼぜりあい」と言い続けていると思うのだが..

 ..いまさら..

*目次へ戻る


*2002年02月07日:あるいは群体


 地元の古書店「時代舎」で先日購入した、「図説 ポオのイメージと回想」(野村章恒、金剛出版)を一読したが..大判ではあるが、内容的には小冊子。評伝としても写真集としてもイラスト集としても中途半端で、珍重するには及ばない..

 ..とは書いたが、実は、多くの書籍は、このステート(「中途半端で、珍重するに及ばない」)にある。それらを多数集める(あるいは、巧妙に組み合わせる)ことによって、全体として意味を持ち、光彩を放って来るのだ。その1冊だけ評価して「駄目だこれは使えんわ」、と、処分してしまうようでは、甘いのである..

 ..という骨法を会得したが最後(..あとは書くだけ野暮であろう、自明で哀しい末路が待っているだけである)。

*目次へ戻る


*2002年02月08日:「モリ・ミノル 漫画全集」


 先日購入した、「幻の 小松左京 モリ・ミノル 漫画全集」(小学館)に、ようやく目を通す。マニアしか知らないはずだが、モリ・ミノルとは小松左京のこと。さまざまな職業を転々とした彼は、そのキャリアの早い段階で漫画家としてデビューしていたのだが、わずか数年で(漫画家としては)姿を消していたのだった。彼の作品は(当時)手塚治虫の目にも止まり、手塚はモリ・ミノルの出現を「天才漫画家が現れた!」、と、警戒したのである。脅威に感じたのも道理。同じ土俵(すなわち、子どもだましではない高度なSFマンガ)の異才だからであった。

 今回復刻された作品群を見ても、手塚治虫の作品だと言われても納得出来てしまう類のものが多い。それは亜流だと言っているのではなく、それほどまでに完成度が高い(というか内容豊か)、ということである。モリ・ミノル(小松左京)自身は、手塚治虫の「メトロポリス」を読んで、「これはかなわん(勝負あった)」、と、「降りた」らしい。いかにも“らしい”エピソードではある。

*目次へ戻る


*2002年02月09日:この世の至福


 この三連休は、休日出勤無し(の予定)である。久々だ。朝からグダグダできることの喜び! 休日はごろ寝に限る!

 数年前にも話題(ネタ)にしたと思うのだが..「コタツ」文化圏は、地球上にどの程度広がっているのだろうか? 日本だけ? 中国や韓国にもある? 東南アジアの気候では不要か? さすがに旧ソ連地域には無いのかしら? アラスカは?

 なんでこんなことを気にしているのかと言うと..私は、「コタツで寝る」こと以上の快楽を、知らないからである。コタツトップでリブ100で書き物や調べ物をしたり、本を読んだりして根(こん)を詰めたあと、「あ〜ぁあ!」、と、伸びをして、そのまま背中から倒れ込む..

 ..出口無しの不況のまっただ中にあるとはいえ、この快楽を他の国民が知らないのであれば、日本人は今もやはり、世界でもっとも幸福な国民であり続けていると思うのだ。

*目次へ戻る


*2002年02月10日:「ハリー・ポッター」


 ついに、映画「ハリー・ポッター」を観た!

 ..のだが..

 ..これ、大ヒットするほどの映画かぁ..? みんな、(ハリー・ポッター役の)ダニエル・ラドクリフに、騙されてるんじゃないかぁ? [;^.^]

 まずまずの出来だが、「薄味」すぎる。私がこれを書く以前に、全世界で(推定)約750万人が叫んだ筈だが、細かいエピソードを飛ばしすぎているのでコクが無く、また、一部意味が通じない点がある。特に気になったのは、ネビルのドジさ(弱っちさ)の描写が不十分なので、最後の戦いに赴く3人組を阻止しようと頑張るシーンが唐突で、結果、彼のその勇気が、グリフィンドール寮に決勝点をもたらしたという感動が、判りにくくなっている点である。

 技術的に気になる点もあげておく。トロール(巨人)は、まぁこんなもんだろうと思うが、フラッフィー(ケルベロス)が、恐くない。恐くないと言えば、「暗黒の森(禁じられた森)」も同様。生温すぎる。この森自体、及び、ユニコーンの死骸とケンタウロスの描写は、私には容認できない。「神話的な気高さ」が不足しているのである。

 クィディッチの試合の迫力は認められるし、スリザリン・チームのラフプレイの憎々しさも、良く表現できている。しかしやはり、原作でとりわけ魅力的なシーンである、「ハリーの急降下」のスピード感は、いまいち伝わらない。(このあたり、「マトリックス」のスタッフが撮ったら、どうだったであろうか。私はあの映画の総体としての価値は(ほとんど)認めていないが、この種の個別の“技”は、見事なものがあったと思う。)

 役者的にも、概して軽い不満が残った(強い感銘が残らなかった)のであるが、例外は、ハリー役のダニエル・ラドクリフとハーマイオニー役のエマ・ワトソンであろうか。(別にロリコンだからではない。)ハーマイオニーについては、そもそも原作を読んだ時点で..まぁ私がハリーの歳(11歳)だった頃には、もちろん、同級生にこういう小生意気な女がいたわけであって、そのトラウマが..いやいや [;^J^] 思い出してもむかつく..いやそんな話をしたかったわけではなく [;^.^] 互いに反発する(男子トップと女子トップの)秀才同士、のちには仲良くなる点も..とかそんな重ね合わせはどうでも良くってだ。[;_ _][;^J^]

 実は一番印象的だったのは、序盤の、動物園におけるニシキヘビとの対話である。映像化されて初めて気が付いたのだが、このシーンは、「ラーオ博士のサーカス」(チャールズ・フィニー)全編中の白眉である“ウミヘビとの対話”を彷彿とさせる。あるいは作者によるオマージュだったのかも知れない。

 最後に、この映画固有の問題点ではないが、“いまさらながら”非常に気になったことを、書き留めておこう。それは、「“サラウンド”がいかに不自然なものであるか」である。

 いくつかのシーン、例えば終盤、羽のついた鍵の群れに取り巻かれる(襲われる)シーンでは、まさに館内の回り中から、羽音が襲ってくる。しかしそれに驚いて、思わずその方向を振り向いた時..そこには映像は“無い”のである。この違和感は、強烈である。映像は前方で完結しているのに、音だけは360度全方向から聞こえてくる..(映像の無い)「音」だけのメディアならば問題はない。映像とセットになると、不自然過ぎるのである。

 ここに、次世代の巨大なビジネスチャンスがある。つまり全方向(取りあえずは360度、もちろん目標は天球、あるいは球面の内側の全方向)の映像だ。大昔からある発想だし、博覧会のパビリオンの演目、あるいはテーマパークのギミックとしては、とっくの昔に実用化されているのだが、民生レベルまで降りて来ていない。

 実際問題、電脳なんじゃらITかんじゃらよりも、遙かにインパクトがあるはずである。そしてこれは必ず実用化される。その日を楽しみに待つことにしよう。

*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Feb 13 2002 
Copyright (C) 2002 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]