*2000年09月11日:小説「ホワイトアウト」
*2000年09月12日:名古屋沈没
*2000年09月13日:紅孩児をめぐって
*2000年09月14日:「どこかの国」考
*2000年09月15日:鍵など
*2000年09月16日:吟遊詩人の夢
*2000年09月17日:レイアウト小変更
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*2000年09月11日:小説「ホワイトアウト」


 朝から大雨。車通勤なのだが、会社まで普段の倍(1時間以上)かかってしまった。いつもより出発が遅く、いささか混む時間帯だったことを差し引いても、これはかかり過ぎ。明らかに、この雨のせいだ。流れが全体的にスピードダウンしている。

 毎週更新されている「3軒茶屋の2階のマンガ屋」の新着ページで発見した、70年代初頭の「プレイコミック」誌を3冊、発注する。(合計、4600円。)手塚治虫と吾妻ひでおの初出誌調査用である。この時期の同誌は、国会図書館でも現代マンガ図書館でもボロボロに歯抜け状態なので、自分で買い集めるしかないのである。

 「ホワイトアウト」(真保裕一、新潮文庫)、読了。

 結構、束がある本なので、「映画版は、エピソードがいろいろと省略されているのだろうな」、と思っていたのだが..驚いた。逆である。映画の方が、手数(仕掛け)が多いのだ。(テロリストの人数が増えたり、概してアクションが派手になったりしていることを別にしても。)原作は、さらにシンプルな山岳冒険小説だったのである。

 とはいえ、ストーリーの骨子は、全く同じ。映画ではやや煩わしい(とまでは言わないにしても、十分にスッキリとはしていない、いささか情緒的な)エンディングは、予想していたとおり、原作小説、そのままであった。小説ならば、このくらいでちょうどいいんだけどな。

 例の“トリック”のプレゼンは、映画よりもあっさりとしている。考えてみれば、この作品の舞台は、非常に大規模な“密室”なのである。(“密室殺人事件”ではないにしても。)

 実際のダムの管理システムの規模(複雑さ)を知らないのだが、この犯罪計画は、現実に実行可能なのであろう、と、思わせるだけのリアリティが、(一点を除いて)ある。気になったのは、いくら(元)電力会社社員だからといって、こうも素速く、巨大なダムの管理システムの全貌を把握(掌握)できるものだろうか? という点だけである。

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*2000年09月12日:名古屋沈没


 今日も、朝から大雨である。

 夕刊を読んで愕然。名古屋で堤防決壊、大水害。

 ほとんど背の高さまで泥水に沈んだ街並みの光景に、背筋が凍った。もしも私の自宅があそこにあったとすると..家具、自動車、電化製品、衣類、その他のもろもろは諦めもつく(あるいは、どうでもいい)が..大量の本が、水没する..(金で買い直せる本ならまだしも、百万金を積んでも、二度とは探し出せないような本が..)

 大勢の愛書家の書籍が、沈んだはずなのだ。彼らの胸中を思うと、ほとんど息苦しくなる。慰めようにも、言葉が出ない..(私の自宅も実家も坂の上にあるので、水没の心配は、まず無いのだが..地形的に大丈夫だからといって、水害の心配が無いわけではないのだ。近所で(あるいは自宅で)火が出たが最後、消火のブロである消防士たちが、容赦なく水を浴びせかけるであろう..)

 「デビルマンレディー」文庫版の第5巻と第6巻を購入し、単行本(新書版)と照合チェック。単行本の第9巻第2章から第12巻第4章までの分を、収録している。それと、単行本第6巻第2章の、本来ならば文庫版第3巻に収録されるはずだった「スネーク」の章が、文庫本第6巻に収録された。つまり、この章はカットされたのではなく、前後の章のページ数の関係から、後回しにされていただけなのであった。この他、単行本とはページの順序が入れ変わっている箇所が、2箇所ある。初出誌は手元に無いのだが、単行本と文庫本を見比べる限り、これは単行本のミスを直したものである。単行本でも、今の版では直っているだろうから、結局、本巻に至るまで、本質的には異同無し、加筆修正無し。

 文庫版の完結まで、あと3巻。大規模な加筆訂正を、期待しているからねっ ["^J^]凸

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*2000年09月13日:紅孩児をめぐって


 諸星大二郎の代表作のひとつであり、手塚治虫文化賞の受賞作品である「西遊妖猿伝」。無論、私もファンであるし、全巻揃えている。

 この作品の(一部の?)ファンの、少しばかり不思議(というか、エキセントリック)な言動を、今夜は話題にする。(非難や批判ではないので、ご安心を。)

 言うまでもなく、西遊記を下敷きにした作品であり、原作の登場怪物や登場怪人たちが、巧みに移し替えられている。肝心の主役陣であるが、玄奘、孫悟空、猪八戒は、既に登場しているが、沙悟浄が未だに登場していない。少なくとも、「沙悟浄」と名乗ったり呼ばれたりするキャラクターは、まだいない。

 で、「誰が沙悟浄なんだ?」、という詮索が、諸星ファンたちの、楽しい話題なのである。既に第16巻まで進んでおり、ここまででも膨大な数のキャラクターが登場してきたのであるから、既に(別の名前で、密かに)登場していても、少しもおかしくは無いのである。

 「紅孩児」だろう! というのが、彼らの間での、有力な説であった。この「紅孩児」という(悪役)キャラクターは、この大長編(「西遊妖猿伝」)の極めて早い時点から、悟空に“悪因縁”をもって、絡んできていたのである。

 だからこそ単行本第14巻で、彼が、さる事情により「沙悟浄」では無かったことが確定した時点で、「えぇぇ〜〜っ!!」、という落胆の声が、かなり多くの人から発せられたのであるが..

 ..私に言わせれば、「紅孩児」が「紅孩児」という名前で登場した時点から、彼が「沙悟浄」である可能性など、そもそもゼロだったのである。

 なぜなら、「西遊記」の原作(少なくとも「真詮本」)に、「紅孩児」は“「沙悟浄」とは別に”“敵キャラとして”登場しているからである。つまり、はなっから、ヤラレ役の怪人だったのだ。

 このことを知らずに、(つまり、原作を読まずして、)「紅孩児が沙悟浄に違いない!」、とルンルンし、そして、そうでなかったことが確定した時点でガッカリするのは、しかし別に悪いことでない。ましてや恥ずかしいことなんぞであるわけがない。原作を読んでなきゃならん、などというルールは存在しないのだし、それを言ってしまえば、「西遊妖猿伝」には、読者に原作を読まれていると作者にとっては都合が悪いであろう(つまり、必要以上に先を読まれてしまう)展開も、しばしばあるのである [;^J^]。

 だから、そのことは、別にいい。解らないのは..原作には、「沙悟浄」とは別に「紅孩児」が登場する、ということを“知っていた”(あるいは、この機会に“知った”)人までが、「紅孩児が沙悟浄では無かったので、ガッカリしている」ことなのである。な、なぜなの? [;^J^]

 その「ガッカリ感」が「間違い」である、とは言わない。そういう楽しみ方もあるのであって、私がそれについていけないだけなのであろう。しかし..「精緻な辻褄合わせ」の美学こそが、「伝奇SF」の“醍醐味”だと思っていたのだが..もしかして、僕って、古い?

 (ちなみに、紅孩児は、「ぼくの孫悟空」(手塚治虫)にも登場することを、申し添えておく。「きまぐれ悟空」(吾妻ひでお)には、登場せず。)

 「バージン調教」(聖レイ)が届いた。これで、聖レイコレクションは、トータル17冊。余すところ、あと10冊。(良い子は、こんな馬鹿な真似はしないように [;^J^]。まさに浪費である [;^.^]。)

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*2000年09月14日:「どこかの国」考


 とにかく、神経を逆撫でされるのである。「どこかの国」、という言い回しに。

 今日、見かけた例では、「ハリウッドのミニチュア版のような映画を作って喜んでいるような、どこかの国」。何故、率直に、簡潔に、「日本」と書けないのだろう?

 レトリックの好みに類することだと言われれば、そうかも知れない。しかし..私はこれが、大っ嫌い!!

 自分の気持ちを分析してみると..つまりこれは、「伏せ字」として機能している(、と、私は認識している)からなのだ。「N*C」とか「*芝」とか「M$」とか「セ*」などという、書き写していても忌々しい(指先が汚れる)文字列の同類だとして、認識しているのである。

 要するに、見え見えの伏せ字なのだ。誰にでも判るように自分の意図を通しておきながら、しかも、そうはハッキリ書いたおぼえは無いよ、と、逃げを打てる..

 卑怯で、卑屈で、卑劣なのである。

 (そう言えば、「日*」とか「*本」とかを、目にした記憶が無い。なぜだろう?「どこかの国」が、その“機能”を、全面的に引き受けているからか?)

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*2000年09月15日:鍵など


 基礎知識の整理と再確認のために、「情報セキュリティの科学」(太田和夫、黒澤馨、渡辺治、ブルーバックス、1995)を購入し、一読する。「公開鍵暗号」「デジタル署名」等の原理について、非常に解りやすく解説されている。5年前の本であるし、今では、もっと良い参考書(というか入門書)もあるのだろうが、この分野の基礎教養を身につけたい、という人には、お薦めできる好著である。

 「乱数表」の(言うまでもない)弱点(欠点)も、丁寧に説明されているのだが..当然と言えば当然のごとく連想回路(妄想回路)が発動(暴走)し、「乱数表」→「野球」→「公開鍵暗号」→「捕手と投手がそれぞれ秘密鍵を保持。公開鍵は音声で」→「RSA特許失効」..と、迷走する。[;^.^]

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*2000年09月16日:吟遊詩人の夢


 確か、「ガリヴァー旅行記」の、第3エピソードだったと思うのだが..“不死”の人間(の話題)が登場した時に、ガリヴァーがそれに無邪気に憧れ興奮し、もしも私が“不死”であれば、ああもしよう、こうもしよう、と、語るシーンがある。(無論、そのすぐあとで、その人間は“不死”ではあるが“不老”ではないのだ..という、(ギリシヤ神話の“シビュラ”に取材したと思しき)恐ろしくもおぞましい真相が明かされるのだが..)

 “不老不死”と勘違いしたガリヴァーは、こんな風に夢見るのである。「私は、もっとも長い経験をもつ賢者として、私が、見・聞きした過去のことを語り伝えよう。どのような国が興り、滅びたか。どのような政治家が現れたか..」、と..

 ..今、このようなことを夢見る人が、いるであろうか?

 桁桁桁桁桁外れの情報洪水の中、自分の“知見”を語り伝える余地など、あるであろうか?

 例えば、20世紀の最後の15年間、日本国にどれほど愚かな政治家が“輩出”して、国民の累代の血と汗の結晶である富の蓄積を太平洋の底に投げ捨ててしまったか、わざわざあなたが語り伝える必要があるであろうか? 既に何百万・何百億の言葉が、書き連ねられ、残されているではないか。

 あなたの出る幕など、無いではないか。

 しかし、逆説的だが、この情報量の膨大さ故に、かえって情報は残らないのだ、とも言える。あまりにも多すぎて、ノイズになってしまうからだ。

 どれが有意な、本質的な情報なのかが、未来人には判らないだろうからだ。

 その意味で、情報量を極小まで絞り、本質的なエッセンスだけを語り(書き)伝える“語り部”=“吟遊詩人”には、存在価値があるのである..(もっとも、語り部が多すぎれば、同じことが繰り返されるであろう。つまり、どの語り部の言葉が有意なのかが判らない、という..[;^.^])

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*2000年09月17日:レイアウト小変更


 玄関脇に15年以上(つまり、ここに引っ越して来て以来)置いてあった、手製の粗末な棚を、分解・廃棄した。(これを作ったのは、23年位、昔だと思う。)小物を置くには適していたのだが、ここ10年ほどは有効活用されておらず、(つまり、ガラクタ棚と化しており、)単なる場所ふさぎに成り果ててしまっていたからだ。

 これによって、天井までの空間が、空いた。これでここに、書籍やCDを詰め込んだストッパーボックス(透明プラスチック製)を、心ゆくまで積み上げることが出来る。(床が抜けるまではね。)

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Sep 20 2000 
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