*1998年08月10日:帰省しそこなう
*1998年08月11日:「永井豪クロニクル」の大欠陥
*1998年08月12日:“本物”について、再び
*1998年08月13日:下手な床屋
*1998年08月14日:異法人/暗い穴/やじうまマーチ/宇宙から男が…/手塚治虫の人生アドバイス、等調査
*1998年08月15日:「魔術的芸術」
*1998年08月16日:付録調査、一段落..で、止めておけばいいものを [;^.^]
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*1998年08月10日:帰省しそこなう


 日暮里駅から徒歩50メートルのTホテルに帰ったのは、朝の3時過ぎ。

 ここまで、タクシーを2台、乗り継いできたのだが、まず、これが不可解である。なぜなら、(数日後に明らかになったことであるが、)酩酊状態の私は、王子駅から日暮里駅のホームまで送られてきていたからである。ここから50メートル移動するために、タクシー2台必要だったわけだ。

 まず間違いなく、山手線に乗り直して眠ってしまい、そのうちに 看板 終電となって駅から排出されたのだろうが、財布を確認すると、タクシー2台で2000円位しか使っていないのだ。深夜料金で。一体、どこから乗ったのだろう?

 そもそも私は、都内で飲んで帰宅する、というのが、大の苦手。山手線で眠ってぐるぐる回るなんていうのは、実は初歩の初歩で、これまでにも、「浜松へ帰還するために品川駅で最終夜行に正しく乗ったにも関わらず、一瞬の居眠りで時間感覚を失って、電車が出発する直前に飛び降りてしまい、置き去りにされた」、とか、「地下鉄経由で東京駅にアプローチすることに失敗し、2回乗り間違えているうちに都心から離れる一方で、これでは朝までにどこに連れて行かれるかわからない、と判断して、代々木上原駅で地上に脱出し、駐車場で寝直した」、とか、「早朝、新幹線が動き出す前に、とにかく少しでも浜松に接近しておこうと下り電車に乗ったはいいが、それが東海道線ではなく湘南電車で、これがすぐにそこここで“終点”に着き、その度にホームの反対側で待機していた上り電車に乗ってしまい、スイッチバックを繰り返した挙げ句、とにかく西へ向かおうと乗り込んだ電車が、三浦半島の先端に迷い込んでしまった」、とか、大技を重ねて経験値を積み上げてきたのであるが、今回のように、「既に目的地に到着していたのに、改めて出発してしまった」、というのは、全く新しいパターンである。ワンランクアップしたと思う。

 それはともかく、朝になって、浜松に忘れ物をしてきたことに気が付いた。今週一杯、横浜の実家に帰省するのだが、その間、手元に無いと、ちょっとつらい物件である。暫く迷ったが、さっさと浜松に取りに帰ることにする。交通費を惜しんでいる場合ではない。

 このタイミングで新幹線に乗り直す予定は無かったので、車中で読む本が無い。八重洲ブックセンターで、「永井豪クロニクル」(ゼスト)と「地獄百景」(別冊太陽)と「怪 第参号」(角川書店)と「暁斎妖怪百景」(国書刊行会)を買う。

 昼過ぎに浜松に戻り、所用を片づけ忘れ物を探し出し..はや、17時をだいぶ回っている。今日の晩には帰省する約束だったが、今からだと相当遅くなる。さすがにしんどい。実家へ電話し、明日の午前中に帰省する、と、予定変更。

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*1998年08月11日:「永井豪クロニクル」の大欠陥


 午前中に、横浜に帰省。昨日購入した「永井豪クロニクル」(ゼスト)を読む。

 とにかく、腰巻きの煽り文句は、実にかっこいい。


デビュー作『目明しポリ吉』から最新作の『ネオ・デビルマン』
まで、31年間に渡り描き続けた珠玉の作品群を網羅!

人類はもちろん、鬼も悪魔も待望した

宇宙無双の究極 豪本

 「鬼も悪魔も待望した」というくだりが、実に泣かせるではないか。ところが本書の実態は..

 「クロニクル(Chronicle)」を辞書で引いてみよう。「記録、物語」という意味もあるが、第一義的には「年代記、編年史」のはずである。その意味で、本書の「永井豪クロニクル」というタイトルには、偽りがある。なぜなら、


「年代情報が、一切、欠落している」

からである!

 信じられないでしょ? 私も信じられずに、何度も何度も端から端まで読み返したのだが..

 各作品について、コメントの他に、収録単行本、及び掲載誌名が、「データ」として載せられているのだが、その掲載誌の初出号(連載期間)が、記載されていない。何を考えているのだ。仮に細かい号単位のデータを載せるスペースが無かったのだとしても、(実は、あるのだが、)少なくとも「**年度作品」という程度のデータは欲しい。31年間に及ぶ作品群である。その作品が描かれたのが1960年代なのか、あるいは70年代、80年代、90年代なのかは、決定的に重要な情報ではないか。(簡単な年表すら載っていないので、これらの作品群が描かれた時代のレンジも、実はわからないのである。)時代背景の知識無しに、「ハレンチ学園」と「バラバンバ」を同列に論ずることは出来ないはずだ。しかも、コメント欄には、「この時代としては、かなり衝撃的な表現だったのではなかろうか」などという表現が散見される。どの時代なんだ、言ってみろ、こら!

 ..つまり、研究用途には、全く使えないのである。

 ガイドブックとしても、失格だ。「入手困難な単行本は、古本屋で見つけたら、即、買いだ!」、とか(当たり前のことが)書かれているが、単行本が入手出来なければ、図書館で初出誌を閲覧してでも読みたい、という読者の気持ちが、全然判っていないのだ。「掲載誌:少年ジャンプ」等としか書かれていないので、事実上、図書館では検索不能である。「単行本未収録作品」を列挙しているページですら、こうなのだ。タイトルと誌名だけ並べて、何の意味があるのだ? このページを、何のために編集したのだ? 神経を疑う。

 これほどの大欠陥に比べると、他の欠点は可愛いもんである。描き下ろし単行本の出版社名が、時々欠落している位のことは、ほとんど気にもならん。[;^J^] しかし、「原作付き」「合作」等の情報も一切欠落しているのは、やはり看過できない。

 インデックスも不備。作品名のインデックスしかないので、キャラクター名から作品名を検索出来ない。コラム・インタビューの類も、底が浅い。

 本書が何の役に立つのかと言うと..どういう作品が描かれて来たのか、というサーベイ、及び、作品名からキャラクター(登場人物)名の検索。また、作品の内容を思い出すのにも使える。(ネタバラシが多数あるので、未読の作品のコメントを読むのは、お薦めできない。)

 それでいいのなら、お買いなさい。但し、立ち読みが出来る書店で、じっくり検討してから。

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*1998年08月12日:“本物”について、再び


 午前中に、亡父の墓参り。昼食は、数年ぶりに、横浜駅ダイヤモンド地下街のロシヤ料理店・ロゴスキー。ここのランチは初めてだが、900円で完全に満腹。確かに、数日間続けて食べれば飽きる味だと思うが、そんなことをする方が悪いのであって、コストパフォーマンスは確実に良い。

 閑話休題。

 私は、「VOW」を読まない。数年前に、1〜2冊、会社の先輩宅で拾い読みしたことはあるが、その後、「超芸術トマソン」(赤瀬川原平、ちくま文庫)を読んでしまったからである。

 「超芸術トマソン」が本物(原典)なのであって、「VOW」は贋物・まがい物に過ぎない、ということが判ったからである。

 本物だけ読んでいれば良い、というものでもない。贋物・まがい物・ゴミ・屑の類も貪欲に大量に摂取することが、人生を豊かにする。なぜなら、真の宝石は、ガラクタの山の中でこそ、光り輝くからだ。

 とはいえ、現実問題として、人生において「宝石」よりも貴重なのは、「時間」である。ガラクタに付き合っている間に、人生が終わってしまう。そこで、「宝石(本物)」だけを(例えば信頼のおける評論家や友人の言葉を頼りに)精選して、読み・聴き・味わう。これは十分(切実な)理由のある、次善の策だ。

 しかし、「本物」だけしか摂取しない、という「宝石主義」は、深刻な結果をもたらすことがある。開高健の「白いページ」所収の「見る」「続・見る」というエッセイには、彼が、ゴヤ(本物)を見てしまってからは、ルオー(まがい物)を見ていられなくなったこと、シャルトル大聖堂の建築とステンドグラス(本物)を見たあとには、ピカソやダリ(まがい物)に我慢ならなくなってしまったことが、書かれている。


「シャルトルは見ないほうがよかった。あれを見たばかりにおびただしいものが消えてしまった。ルオーまでが消えてしまった。生きにくくなってくる。これからさき困ったことになる」

 ルオー、ピカソ、ダリが、「贋物・まがい物」であるはずはない。開高健も、以前には(それほど感心しないことはあったとしても)見ることが出来ていたのだ。しかし、真の宝石の前では、相対的に、価値を失ってしまった。

 「これでもう一生、ルオー、ピカソ、ダリなどという二流品とは縁が切れるのだから、時間も金も有効利用出来て、ラッキーじゃん」とまでは、割り切れないのだ。開高健も、それらが「本物ではなかった」ことが判明しても、なお、未練を残している。

 本物を希求しすぎると、こういう罠に陥ることがあるのだ。「本物」だけで構成された、とても狭い世界に縮退していく、という罠に..(そう言えば、「さかしま」のデ・ゼッサントも、「棄てていく」コレクターだった。膨大な蔵書のうち、多少とも欠点のあるもの、再読に値しないものは、容赦なく破棄し、身軽になってゆくのである。)

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*1998年08月13日:下手な床屋


 朝いちで、実家の近所の床屋で散髪してもらう。ここは初めての店だが..

 ..下手くそ。髪を切る技術の問題では無い。

 私は、浜松では、もっぱら近所の美容院でカットしてもらっている。お洒落なのではなく、単に、近くて速くて廉いからだが、美容院というのは、お客の頬に剃刀を当てないのである。(その資格が無いらしい。)だから、「床屋が頬に剃刀を当てた場合、血を見ることがある」という可能性を、すっかり忘れていた。

 剃ったあと、どうもしつこく、顎に油っぽいものをペタペタ塗っているので、おかしいと思っていたのだが、帰宅してから、その鬱陶しい「ベトベト」をティッシュで拭ったら..紅と白が溶け合った、美しいピンク色。[^J^] 止血だったのか。

 あとは終日、どろどろとした惰眠を交えつつ、読書。

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*1998年08月14日:異法人/暗い穴/やじうまマーチ/宇宙から男が…/手塚治虫の人生アドバイス、等調査


 国会図書館で手塚治虫調査。今日は照合用の本を持参していない。残り少なくなってきたこともあるが、帰省の荷物を減らしたかったからだ。

 残り少ない、と言っても、以前からの宿題がまだまだ残っていたのに加えて、「手塚治虫全史」が(特にエッセイ系の)課題を大幅に増やしてくれたので、微かに仄見えていたゴールが見えなくなってしまった状況ではある。[;^J^]

 「異法人」「暗い穴」「やじうまマーチ」は、以前から気になっていた、全集未収録作品。「異法人」は、1977年に「よろめき動物記」(奇想天外文庫)に収録されているが、これは既に絶版。今後は、単行本に収録されることはあるまい。被爆者の扱いに問題があるからである。

 「宇宙から男が…」は、「全史」リストで初めて発見した作品。「漫画サンデー」掲載作品に見落としがあったとはねぇ。「機動隊が来たら……」も、同様に「全史」で発見した作品だが、残念ながら、初出誌(週刊アンポ)は、この号のみ収蔵無し。こんな雑誌、国会図書館になければ、どこにあるんだ。(いや案外、左翼崩れの喫茶店主あたりが、店の片隅にファイルを備え付けていたりするのかも。[;^J^])

 「手塚治虫の人生アドバイス」も、早くチェックしなければと思っていた雑文。「セブンティーン」で人生相談をしていたとは、知らない人が多かったでしょ。これは「全史」リストにも載っていない。

 各種新聞のエッセイ等を19件チェック。また、「手塚治虫全史」と、その他の資料の不整合を5件チェック。これは「全史」の2勝3敗。

 あとはもう、書くのも読むのも気が滅入る煩雑な、重箱の隅をつつくようなチェックを10件弱。[;^.^]

 新宿伊勢丹の古本市へ。カタログで注文しておいた3点中、「魔術的芸術」(アンドレ・ブルトン、河出書房新社)と「きまぐれ悟空」(吾妻ひでお、サン・ワイド・コミックス、朝日ソノラマ)が当選。意外に思われるかも知れないが、私は、吾妻ひでおの全単行本を持っている訳ではなく、あと、「やけくそ黙示録」(サン・ワイド・コミックス、朝日ソノラマ)と「みだれモコ」(100てんランドコミックス、双葉社)の2冊が、未入手なのである。(いずれも、現代マンガ図書館で閲覧はしている。)

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*1998年08月15日:「魔術的芸術」


 昨日購入した「魔術的芸術」を、終日読みふける。正直なところ、読む前は、(ある意味で、今世紀の美術史上・芸術史上の聖典のひとつであるのだから)奮発して購入したとはいうものの、(定価2万8千円のところ、買い値1万8千円、)いまさらブルトンでもあるまい、と思わないでもなかったのだが、これが実に面白い。

 「魔術(魔法)」の存在を前提として、美術史を読み替え・組み替えている、この著作を、「トンデモ芸術史観」として退けるのは、正しくない。芸術は科学ではない。私は科学の子だが、こと「美術・芸術」の世界に限って言うならば、「黒魔術」や「魔法」の実在を認めてもいいと思っている。少なくとも、その前提で創られ描かれてきた作品群を受け止めるためには、そうあらねばならぬと思うのだ。

 相応しい例かどうか判らないが..魔術的目的で描かれた絵画作品を、その出自を無視して鑑賞するのは、裸体画に欲情することなく、美学的・科学的な眼差しで冷徹に鑑賞することと同列だと思うのである。

 それにしても、ブルトン美学・ブルトン史観が、澁澤龍彦経由で私に刷り込まれてきてしまったことを、改めて確認した形となった。なんと懐かしい画家と作品たち..ピーター・ブリューゲル父、モロー、ピエロ・ディ・コージモ、カロン、デューラー、ボッシュ、モンス・デジデリオ、フリードリヒ、ホルバイン、ルソー、ゴーガン、シャガール、デ・キリコ、マグリット、ブレダン、グリューネヴァルト、バルドゥング・グリーン、バルデス・レアール、アルトドルファー、フュースリ、ベックリン、ブレイク、ゴヤ、ウッチェッロ、モンペール、アルチンボルド、ベルメール、ラム、ブローネル、タンギー、エルンスト..

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*1998年08月16日:付録調査、一段落..で、止めておけばいいものを [;^.^]


 Tさん宅で、三度目の訪問調査。付録コレクションの残り全部と、鈴木出版の「手塚治虫選集」「手塚治虫全集」をはじめとする、古い時代の単行本、計百数十冊をチェック。

 特に驚いたのは、1962年6月号付録の「鉄腕アトム:ロボットランドの巻」で、32ページ中、「カッパコミクス」「サンコミックス版アトム全集」及び「手塚治虫漫画全集」に収録されているのは5ページだけで、残り大部分は、少なくともこれらの単行本には未収録であり、ロボット時代初期の迫害の歴史(及び、ロボットランドの魔王、サターンの制作)にあてられているのだが、ここで、「ベーリイの悲劇」のエピソードが語られていたのである! ロボットが、まだ「モノ」であった時代、初めて権利を主張したロボット・ベーリイが、人間たちによって、たちまち破壊されてしまった、という、この、ロボット史上重要なエピソード。私は「アトム今昔物語」がオリジナルだとばかり、思っていた。

 単行本を調べ始めたのは、「まえがき」「あとがき」の類のリストアップ(というか、既にリストアップを開始しているので、その遺漏のチェック)のためである。

 もともとこの「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」は、文字どおり「全集の」目録であるはずである。何故、こうも際限の無い拡張路線に走ってしまうのか。

 これは、決して私の「責任」ではない。「まとまりのある、破綻の無い、(数学用語で言えば)“完備な”」集合を作ろう、という、しごく当然の美意識のためである。

 そもそもは、「漫画作品」だけを対象とするはずだった。「手塚治虫漫画全集」の目録なのだから、当然である。「エッセイ」の類は、眼中になかった。きりがないからである。探しようがないからである。そのかわり、本来ならば、この全集に収録されてしかるべきだった「漫画作品」は、極力多数探し出して、「全集未収録作品リスト」に加えることにした。これで完璧なはずだった。

 しかし、「手塚治虫漫画全集」に、エッセイ等の書き物の仕事が収録され始めた。この全集の目録である以上、当然、これらはリストアップされる。と同時に、「全集に収録されてしかるべきだった漫画作品」のリストを作り始めた以上、「全集に収録されてしかるべきだったエッセイ等」も、リストに加えなければならなくなったのである。これは当然のことだ。

 しかしそれでも「全・エッセイ」を探し回る気力は起きず、新たに入手したリストに掲載されていたり、国会図書館等で、ついでに見つかったりしたものを、順次追加するにとどめていた。これは一種の「サボリ」であり、正当な理由が全く無いのだから、「全集未収録作品リストに加えられているエッセイ等の選択基準はなんなのか?」、という、メールでの問い合わせにも、答えるに答えられない状況が続いていた。

 そこに出現したのが、「手塚治虫全史」である。これの巻末の「文献リスト」は、相当気合の入っているもので、手塚プロダクションとして把握している限りの「書き物系の仕事」を、リストアップしたのではないか、と思えるものだ。(実際、これをマージすることによって、「全集未収録作品リスト」のデータ量は、1.5倍になった。)ならば、これを底本とすれば、もちろん全てでは無いにしても、かなり網羅的なリストになるのではないか、と、欲が出たのである。

 無論、この「全史」の「文献リスト」も、完璧ではない。欠落は非常に多い。単行本の「まえがき」「あとがき」の類は(これは「単行本リスト」の範疇だが)洩れが多いし、これらを別としても、私が既にリストアップしていながら、「全史」リストに記載されなかったエッセイ等が、20件近くある。ファンクラブ誌系は、まだまだ調査が不十分なので、今後系統的にここを叩いていけば、どんどん出てくるはずである。

 ..とまぁ、出口が近づいて来る度に、新たな課題を創出しては、出口を遠くに追いやってしまう私なのであった。これは“業”である。

 「暗黒のメルヘン」(澁澤龍彦編、河出文庫)を読む。極めて優れた現代日本幻想小説集である。数編は既読。小栗虫太郎の「白蟻」は、未読だったが...

 ...

 ...こ、こいつ(※)...[;^.^]

 (※「ヒロイン」「作品」「作者」の三者を同時に指す指示代名詞。)

 私は「黒死館殺人事件」の愛読者なので、

 「来た来た来た来た来た!」

 ..と、喜んでしまったくちだが、[;^J^] しかし、このヒロインの、長広舌のペダンティックなモノローグと、心理的幻想的超論理的殺人方法は、もはやシュルレアリスムの領域に突入していると思う。さらに、熱っぽい自然描写、奇形児のあまりと言えばあんまりな扱われ方、序盤で僅かに描かれるだけだが、怪宗教「馬霊教」の信者の群集の、ゴヤの「黒い絵」を彷彿とさせる戦慄的な描写など、読みどころ一杯である。お薦め。

 明日から仕事。新横浜から、こだまで浜松へ。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Aug 20 1998 
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