*1997年07月21日:クルージング
*1997年07月22日:「クスリOSドラッグ」
*1997年07月23日:ウニモデル
*1997年07月24日:読み捨て雑誌
*1997年07月25日:台風、接近..
*1997年07月26日:エヴァ、襲来
*1997年07月27日:ASTIオフ
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*1997年07月21日:クルージング


 会社の先輩に誘われて、クルーザー遊び。例年、7月第4週の土日には、館山寺で花火大会があり、その日に、日中はクルージングと湖上宴会、夜は湖上で花火見物、という道楽に、去年初めて参加させていただいたのだが、今年が2年目。花火大会は今週末であり、今日はクルーザーの整備上がりの試運転である。同乗者は、私の他は、先輩のヨット仲間のご夫婦2組、計6名。

 朝10時に係留ポイントに集合。食料の仕込みやらロープのつなぎ替えやら、なんやかやあって、出港は11時。(係留ポイントでは、クルーザー同士、流れ出さないよう、ロープでつなぎ合っている。この群れの中から、1隻出て行く場合、ちょっとしたパズルの様なことが必要になる場合がある。)

 良い風である。夏休みに入ったばかりだが、湖上はむしろすいている。すぐ隣の館山寺遊園地が新装オープンとなっており、新しい施設が多数デビューしているので、取り敢えずはそちらに吸い取られているのだろう、という観測がなされた。(私は、この遊園地にも、すぐ近くの動物園にもフラワーパークにも、一度も遊んだことがない。)

 ちょっと天気が良すぎ、日差しがかなり強いが、去年、迂闊にも火傷に近い日焼けで七転八倒したという教訓をしっかり生かし、今年は日焼け防止クリームで、完璧な防御である。結果として、僅かに色が濃くなった程度で、全く皮は向けず水脹れも出来なかった。効くものなのだなぁ。(この手のものを使うのは、生まれて初めてだったりする。[;^J^])

 昼食、夕食とも、船上で、食べきれないほどの鉄板焼きとヤキソバその他である。ビールもたっぷり。暗くなってから投錨して解散。週末の花火見物付きクルージングにも参加する予定。楽しみだが、台風が心配だ。

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*1997年07月22日:「クスリOSドラッグ」


という看板を観て、思わず吹き出してしまったが、理由を訊かれても困る。説明しない。[;^J^]

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*1997年07月23日:ウニモデル


 ある集団(定常的なものとは限らない、例えば、花火見物をしている烏合の衆でもよい)をまとめることを考えてみる。慣れていない人(あるいは、若い人)は、こういう時に「みんなの考え方を統一しよう」「思考のベクトルを揃えて強固にしよう」と考えがちである。これが大間違い。これは(困難を伴うとはいえ)不可能なことではないが、実現してしまった日には、その集団は、外界に対してとんでもなく脆弱なものに成り果てているであろう。

 それは、外界(からの干渉)の多様性に、対応しきれないからである。

 あなた個人の例で考えてみれば判ると思うのだが、なんらかの“攻撃”(例えば、親や教師や上司や配偶者からの“説教”)が加えられた時、あなたがそれに反撃できるのは、「その“攻撃”が“理解できる”場合だけ」である。理解できて、かつ、それに対する“正しい”反論が出来るか、あるいは(逆説的だが)理解できて、かつ、ひとことも無い場合だけである。後者の場合、自分の非を全て承知した上での、自暴自棄の捨て身の反撃にでるか、あるいは屈服するか、にわかれる。

 「外界からの“攻撃”が“理解できない”(あるいは“理解する気になれない”)場合」、これは、その攻撃が“あなたにとっては”筋違いだった場合である。噛み合わない、という奴だ。こういう場合でも、熱心な(あるいは、誠実な)論客は、なんとかお互いの論点を噛み合わせよう、同じ土俵に登ろう(登らせよう)とするものだが、その努力は報われないことが珍しくなく、その結果として、議論を“投げる”ことになる。お互いに同時に投げれば、実害は少ないのだが、自分が一方的に投げ出し、かつ、相手は(筋違いの議論を)投げなかった場合..良くない結果に結びつくことが、しばしばである。

 さて、ある集団の構成メンバーが、みな、同じような思考様式を持っている場合..上記のケースで、全員同時に“投げる”ことになる。そして、個人が議論を投げ出す場合と、集団全体が議論を投げ出す場合とでは、その行為の重みが(あるいは、質が)違うのである。

 もしも、ある集団の構成メンバーの思考様式が、バラバラだった場合..誰かが、正面から受け止められる。集団を代表して戦うことが出来る。どのようなアタックを受けた場合でも。

 この集団は、強い。

 わたしは、この状態を称して“ウニモデル”と呼ぶことがある。3次元空間のどの方向からの攻撃に対しても、少なくとも1本の刺が、正面から受け止めることが出来るのである。

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*1997年07月24日:読み捨て雑誌


 昔々に読み捨てた、(もしかしたら道端に落ちていたのを拾って読んだのかも知れない)とあるパチンコ雑誌。この娯楽に対して、全く理解も関心も無い私としては、暇つぶし以外の何物でもなかったのだが、ちょっと印象的なエッセイが掲載されていた。それは、とあるプロの連載コラムで、パチンコ台の釘の目の読み方について書かれていたものである。

 内容の細部は忘れたが、彼が力説していたのは、とかく、釘を読むと言うと、その店の台を端から端まで、あるいは、場所取りをしておいた上で、近隣の(極端な場合、町じゅうの)パチンコ屋の全てのパチンコ台の目を、何時間もかけて読みまわり、その上で、最も良い台を選んで、得々としている手合いが多いが、こんなのは大間違いだ、ということであった。

 彼は、上記の読み方を「横に読む」と呼んでいた。これも必要だが、もっと大切なのは「縦に読む」ことである、というのが、彼の論。つまり、単数、あるいは複数の店の、単数、あるいは複数の台を選んで、それの経時変化、すなわち日々の変化の様子を記録していくことが重要なのである、という。

 これが正しい議論なのかどうか、パチンコに無知な私には判らないのだが、非常に示唆するところが大きい、と、今に至るまで憶えているわけだ。瞬間のスナップショットではなく、変化量を捉えよ、と、これは数日前に書いたことだ。

 パチンコ雑誌を低く見ているような物言いで恐縮だが、どのような雑誌にも、何かしら得るところはある。何かしら価値のある記事が掲載されている。これが私の信念であり、どんな(いわゆる)低俗雑誌(Hマンガ誌や写真週刊誌など)を買った場合でも、文字どおり、すみからすみまで読む。まぁこれは単なる貧乏性で、支払った代金は取り返そうという、さもしい根性からではあるが..

 唯一の例外は、数ヶ月前から、吾妻ひでおの連載を切り抜くために購入している「コミックウィンクル」。純粋スケベ雑誌であるが、さすがにこれは、読めば読むだけ赤字だと思う。[;^J^] 別にこの雑誌に限ったことではなく、このジャンルの雑誌のほとんどが、そうなのだろう。私にとっては、ね。

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*1997年07月25日:台風、接近..


 明日は、昼はクルージング、夜は花火大会見物の日なのだが..18時頃から、強い東風が吹き始めた。台風が、洋上遥か、真南にいる..

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*1997年07月26日:エヴァ、襲来


 一昨日から、「新世紀エヴァンゲリオン」(以下、エヴァ)のビデオを観始め、二晩かかって、今朝の5時に全26話、観終えた。今まで観たことがなかったのだが、さすがに友人づきあいというかオタクづきあいに支障を来しはじめたので。[;^J^]

 今更、論を展開することは、しない。2年近く出遅れているし、巷には攻略本が山をなしている。第一印象としては、「これはオタク殺しだわ」であり、例の最終2話については、逆上に近い呆然、と、まぁパターンどおりのリアクション。[;^J^]

 夜明けに眠り、10時頃に起床。先輩から電話があり、やはり台風故、今日の花火大会は順延、クルージングは中止とのこと。

 別件で、スコアを何冊か(来週末のFCLA夏オフのために)買っておく必要があるので、ついに降り始めた雨の中、街中まで車で出かける。ヤマハで買い物をすませた頃には、大雨である。

 ふと気が付くと、すぐそこの映画館で、「THE END OF EVANGELION Air まごころを、君に」(以下、EoE)が、公開されたばかりである。先に公開された、もうひとつの劇場版「シト新生」は未見なのだが、情報によれば、TV版全26話と EoE を観ていれば、完全に包含されてしまう内容らしいので、(出来れば順番に観たいという潔癖症を押え込んで)EoE の昼からの上映を観る。浜松&台風という好条件が重なって、7割程度の入りで、理想的な席を確保する。エヴァに関しては、2日前からTVのビデオを通して観ただけで、それ以外の知識が全くないので、パンフの用語解説を、必死に読む。

 さて、映画。

 ...[;^J^]

 異形の作品である。ベルリオーズの作品に喩えると、「幻想交響曲」に対する「レリオ」に近い。普通の判断基準では、これを傑作と評することは困難であろうが、しかし例えば大森望氏が、今年度の最高傑作!と、早くも太鼓判を押す理由は、判るつもりである。(さらに言うと、大森氏が、このカタルシスの全く無い、ほとんどすべての観客を茫然自失とさせるラストシーンを、「終着の浜辺」である、と喝破したのは、慧眼の至りであろう。)

 諸星大二郎の諸作品を想起させるイメージが充溢しているのも、興味深いことである。特に、白いEVAに(レイの)顔が現れるシーンは、そのおぞましさも含めて、完璧に諸星大二郎の世界である。

 TV版で残された、数多の謎や伏線が解決されたかと言うと..そもそも何が謎だったのか、もはや(早くも)はっきりと憶えていないので、どうでも良い。[;^J^] この作品は(制作者の意図は知らないが)謎解き指向ではないので、これは評価基準にならないのだ。

 それはともかく、EoE を観て、再度興味が喚起されたので、帰宅してから(夕方から)また、TV版ビデオを、第壱話から観直す。(既に勘所は判っているので、どうでもいいところは容赦無く早送りして時間をかせぎつつ。)

 深夜までかかって、第弐拾四話まで、再チェック。ここで改めて認識したことは..

 やたらと“形而下的に”かっこいい物語である、ということ。

 まず、ロボットならぬ人造人間(生物兵器)であるEVAの、生理的・有機的な気色悪さ。そして、使徒の異様な形態。個々の使徒が、どう考えても同じジャンルに属するとは思えないほど、異なった姿をしている。これがかっこいい。最初に出てきた「ジャミラ型」の奴は、使徒としてはもっともオーソドックスな方で、これ以外にもエイと三葉虫がごっちゃになったようなもの、細菌タイプ、正八面体、サークライン型、厚さ3ナノメートルの影、等など。特に素晴らしいと思ったのは、軌道上から攻撃してくる使徒の、まるで電波系の人による便所の落書きのような、悪夢のような冗談のような形態。そして、最後の使徒が、(外観からも会話をしても、人間と区別のつけられない)完全なヒューマノイドであること。

 そして、これらに天使の名前が与えられているのだが、某誌で読んだ監督インタビューによると、単にかっこいいから採用したネーミングである由。こういう制作姿勢は、断固支持する。

 今日の(今夜の)観直しでは、最終2話まで届かなかったが、この2話は、制作裏話を聞くまでもなく、全くの“別解”であろう。大体これでは(たとえ“時間の都合上、全人類の成り行きを描くのは不可能である故、シンジ個人の「補完」のみ描く”と言われても)話が通らない。ここで描かれているのは「人類補完計画」ではなく、「人間補完計画」ではないか。

 ということで、やはりというかなんというか、最終2話に対する印象は、相当悪いにも関わらず、作品全体に対しては、これほど“良い印象”が残っているというのは、そこまでの24話の素晴らしさの証左であろう。それも、かちっとした物語ではなく、あちこちに未解決の伏線が残されているのだが、これらもどうやら、計算づくで残したというよりは、結果的に解決するのを忘れて(あるいは解決できずに)放置されている、という気配が濃厚な、その意味では“いい加減な”物語だけに、この印象の深さは驚異的である。

 既に2時をとっくに回っているが、明朝も早い。慌ててフトンに潜る。

 (誰も気が付いてくれないと寂しいので、先に解説しておくが、今日のタイトル(「エヴァ、襲来」)は、もちろん、エヴァの第壱話「使徒、襲来」と、「台風、襲来」を、かけたものである。)

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*1997年07月27日:ASTIオフ


 東名バスで上京。まずは新宿伊勢丹で、3軒茶屋の2階のマンガ屋出展のミニ古本市をチェック。収穫無し。次に中野まんだらけ。サンモールが工事中である。

 渋谷まんだらけへ。7月26日に、東急ハンズのすぐそば(途上)に移転して新装開店したばかり。これがべらぼうに広い。しかもカラオケステージ付き [;^J^]。常に(コスプレしていることで有名な)店員の誰かか、あるいはお客がアニソンを歌っている。このセンスには、いまいちついていけない。[;^J^] とり・みきを5〜6冊、買う。

 東急ハンズではパーティーグッズを漁るが、ろくなものが無い。

 横浜に移動し、I.K氏、I.Hide氏、I.Hiro氏、T.T氏、R.T氏、G氏、N氏、O氏らと待ち合わせ。吾妻ひでお関係のML(ASTI)のオフ会なのである。仮名なので判りにくいとは思うが、異常に濃いメンツである。

 駅ビル7Fのビヤガーデン「ニューホッペン」で歓談。エヴァ、吾妻ひでお、DVD、コミケ、オペラ、等など。

 横浜から新横浜まで(乗り換えをこなしつつ)移動できるか、我ながら心配だったが、確かに車中では「どうしてここにいるのかなぁ、今どこへ向かっているのかなぁ」モードだったが [;^J^] なんとか最終こだまへの搭乗に成功。23時40分過ぎにタクシーで帰宅。

 酔いも醒めていたので、思うところあって、エヴァの最終2話を、もう一度落ち着いて観直す。

 私の知り得ている情報では、アニメ雑誌への投稿では(エヴァの放映期間中、各アニメ雑誌への投稿は、エヴァ関係のもので埋め尽くされていた由)、この最終2話の人気は、凄いものであるらしい。(アニメ雑誌に投稿する層が、平均的なアニメファンかどうかは、さておき。)また、最終回の視聴率は、番組全体を通じて最高だった。第25話の視聴率が高いのは当然。あの大盛り上がりの第24話の次なのだから。しかし、あの第25話を受けた第26話が、さらにそれより視聴率が高いというのは..もちろん、最終回では持ち直すだろう [;^J^] という希望的観測もあったろうし、途中はさぼって、最終回だけ(つじつま合わせに)見に来た、という人も多いだろうから、一概には言えないが。

 落ち着いて、極力公平な目で観直してみた。そして、これは確かに「本来の」解決編ではない、苦し紛れの別解なのではあろうが、これなりに感動的である、ということが納得できた。この、さっぱり成長しない、いや、成長はするのだが、いつまでたってもうじうじいじいじしている少年は、どこにでもいる、実に感情移入しやすい存在である。延々2話もかけて、「僕はここにいてもいいんだね!」という言葉を引き出した、この、作品全体のバランスを完全に壊している構成には、結果的には、それなりの意味があったと言える。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Aug 1 1997 
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