夜の果てのオデッセイ



 …………ブウウ−−−−−ンンン−−−−−ンンンン………………。

 わたしがウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜蜂の唸るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、わたしの耳の穴の中にハッキリと引き残していた。

「ドグラ・マグラ」(夢野久作)冒頭



 ホワイトノイズが、絶え間なく聴こえ続ける。昼も、夜も、朝も、夕も。

 これは一体なんなのだろう? 何の音なのだろう? 何故、これほど大きく聴こえるのだろう? 何故、止むことなく鳴り続けるのだろう?



 そもそも、ホワイトノイズとは何か。それは、エントロピー無限大の音であり、情報量0の音である。ここから情報を、意味のある音を取り出すことは出来ない。それが可能な、仮想的な存在を“マックスウェルの悪魔”と呼ぶ。マックスウェルの悪魔は、情報を取り出す代償に、自らの情報を失うのである。



 私の耳の中で鳴り続けているホワイトノイズは、純粋なホワイトノイズでは、ない。体調と時間帯によって、不思議な音が微かに重なって聴こえてくるのである。それは、ゆっくりとした不規則なリズムで短三度音程を上下する、遠くのパイプか弦に風が共鳴するような音である。また、深夜になると、極めて低い音程の、吐息の様な音もこれに加わる。

 そして、ホワイトノイズの海に浮かぶこれらの音は、確かに、“ホワイトノイズから抽出された”様に聴こえるのだ。そこから情報を取り出すことが決して出来ないホワイトノイズから..とすると、私はマックスウェルの悪魔と化して、この悪夢の様なホワイトノイズから、音を、旋律を取り出しつつあるのであろうか? ならば私はその代償として、自らの情報を失わなければならない!



 このことに気がついてから数日間、私は恐慌状態に陥った。そして恐怖のうちに、突然、真相に気がついたのだ。そうだ、音楽の創造とは、本来こういうものだったのである。誰もが耳の中にホワイトノイズの海を持っている。それは、音の、旋律の、リズムの、和声の、生成される以前の原始状態の混沌の海であり、音の創造、音楽の創造とは、この、無限のエントロピーのカオスから、自らの情報を代償として、意味のある情報を取り出すことだったのだ。ただ、普通の人間には、この“始源音楽”であるところのホワイトノイズは聴こえない。だから正気を保っていられるのだ。何故かは判らないが、私にはこのホワイトノイズが、混沌が聴こえる様になった。そして、何かが生まれる、何かの音楽事象を“創造する”瞬間を目撃する、いや、聴き取ることが出来る様になってしまった。この不思議な短三度音程と、超低音の吐息とは、まさに生まれつつある音楽の胎児であり、これが情報量を獲得して意味のある音楽となる、その瞬間こそ、代償として何らかの情報を喪失する、恐るべき瞬間に他ならないのだ!



 例えば、ベックリンの「死の島」という絵を見て感銘を受けたラフマニノフが、「死の島」という交響詩を作曲した。彼は恐らく、作曲後もこの絵のことを覚えていたに違いない。だから、情報の喪失は、“絵の記憶”ではなく、全く別の箇所で起きたのだ。彼は、この交響詩と引き換えに、何かの追憶、何かの感情、何かの能力を失ったのである。それが何であったのかは、恐らく当人にも判るまい。何かを失ったと言うことすら判るまい。(とは言え、例えば、この交響詩を作曲するまでは胸に燃えたぎっていた、この絵に対する熱い感情、感動、情念、といったものを、何故か作曲後は感じなくなり、自分でも不思議に思う(彼はその“感動”を失ったのである)、ということは、あったかどうかは知らないが、いかにもありそうではある。)



 これはそう不幸なことでも、悲しむべきことでもない。その事実に気がつかぬ限りは。音楽の創造という行為が、自分から容赦なく情報を、感情を、記憶を、能力を奪っていく行為に他ならぬという真実を知らぬ限りは。しかし、それに気がついてしまった私は、そして、その瞬間を聴き取る能力を与えられてしまった私は、どうすればいい?



 「ドグラ・マグラ」と言う、希有の小説がある。夢野久作の畢生の大作であるこの長編小説は、冒頭に引用した様に、時計の唸りの音に始まり、時計の唸りの音に終る。内容の要約は困難である。一人の狂人(?)を巡る、二人のマッドサイエンティストの争闘の物語と、言って言えないことはないが、この様に単純に整理出来るものではない。小説内の経過時間は、僅か一日に満たないが、精神病院における患者虐待を告発する「キチガイ地獄外道祭文」という阿呆陀羅経、脳髄は神経の電話交換局に過ぎぬと喝破する談話、数年前に起った陰惨な事件の調書、一千年前に始まる一連の事件を記した縁起書、数十億年前に遡る生命進化を胎児が夢見ていることを立証する論文、等々、様々な文書、及びそれらを引用する文書等が錯綜し、一大迷宮を作り上げている。

 この小説のフレームとなっている、時計の唸りの音は、私の耳の中で鳴り続けているノイズや吐息と、極めて近しいものではないだろうか? いや、その描写を読むと、ほとんど同質の音らしいのだ。即ち、ノイジーではあるが、ピッチ感もある、“情報を持った音”になりつつある“ノイズ”。夢野久作は、何故、この音で始め、この音で閉じたのだろうか? この音は、主人公の狂気、あるいは迷宮そのものの象徴なのであろうか? だとすれば私は、狂気に導かれ行くのだろうか? 迷宮に閉じこめられると言うのだろうか? この音が聴こえると言うことは、自分の一部が失われ行くことに直面し続けることに他ならず、それは確かに、弱い心を狂気と迷宮に連れ去ってしまうに違いない!



 しかし別の見方も可能だ。「ドグラ・マグラ」の根幹をなしているのは、“心理遺伝”による犯罪(殺人)であり、その“心理遺伝現象”を説明する理論的根拠が、「胎児の夢」という論文なのである。それによると、胎児は、地球開闢以来の生命進化の歴史の全てと、その果てに生まれた人類の苦痛と苦難の歴史の全てを、胎内で夢見ているのである。それは歴史の、人類のみならず全生命体の集合的無意識の追体験とも言えるが、見方を変えれば、夢見ることによって世界を紡ぎだしているとも言える。この小説を開始させ、収束させる“唸り”は、この夢に、あるいは夢見ることによる世界(宇宙)創造に結び付けられているのではないだろうか?

 そう考える方が、相応しいのである。何故ならば、ここに聴く“時計の唸りの音”、即ち、“ピッチを獲得しつつあるノイズ”は、“観察者”が自らのエントロピーを増大させることによって、そこからあらゆる情報を取り出すことが可能な“混沌”であり、その“混沌”こそは、多くの民族の世界(宇宙)創成神話に記述されている、世界(宇宙)の“原型”だからである。そして、“ノイズ”即ち“混沌”から情報を取り出すために、自らのエントロピーを増大させる存在こそ、造物主に他なるまい。



 ジャン・コクトーの忘れがたい映画、「オルフェ」の後半に、以下の様なダイアローグがある。

オルフェ「君は、万能だろ?」
死神「命令を受けて働く死神はたくさんいるわ」
オルフェ「命令にそむいたら?」
死神「極刑よ」
オルフェ「命令はどこから?」
死神「アフリカの原住民の太鼓や、木々を揺さぶる風が伝えるわ」
オルフェ「誰が命令を?」
死神「誰でもないわ.. 私達の意識の中にいるの.. 私達は、それの悪夢なの」

 シュルレアリスムの神髄とも言うべき、身震いするほど素晴らしい対話であるが、この死神の言葉に、宇宙の背景音としての、風の音、木々のざわめき、遠く小さく響いてくる太鼓の音が、聴こえてこないだろうか? それら、言わばノイズに近しい音たちが、虚空にひそやかに流れていくのが感じられないだろうか? それは、死神への指令であり、宇宙の意志の具現なのだ。死神を夢見、しかも死神の意識の“内部”にいる存在の声なのだ。



 ロード・ダンセイニの「ペガーナの神々」という、珠玉の掌篇集のプロローグにも、同じモチーフが現われる。

 造物主マアナ・ユウド・スウシャイは、眠りに落ち、世界を夢見る。小さき神々も、我々人間も、全て彼の夢なのである。マアナが眠りにつくと同時に、鼓手スカアルが、太鼓を叩き始めた。その小さな音が、マアナの眠りを維持しているのである。やがていつかスカアルは叩き疲れ、その手を休めるだろう。“その時、静寂が雷鳴のごとく襲い”、マアナは目を覚ます。そして、小さき神々も、人間も、世界も、全て消滅する。そしてその日はそう遠くはないのだ..

 人間、世界、宇宙、神々、それら全てが、ある存在の夢である、という夢想が「オルフェ」と近しいことは勿論だが、その背景に、やはり太鼓の音が響いているのに注目したい。“宇宙の外側で”維持されている定常的な音が、この宇宙を支えているのである。



 デヴィッド・リンゼイの「アルクトゥールスへの旅」もまた、驚異の小説である。恒星アルクトゥールスの惑星トーマンスにおける、主人公の“目的を探す旅”は、まさに“観念の冒険”であり、驚くべきリアリティで描き出される、トーマンス人たちの奇怪な発想法と悪夢の様な光景は、“真の現実”と“偽りの現実”を交錯させてゆく。そして全編に渡って不気味な通奏低音をなしているのが、行進のリズムで叩かれる太鼓の響きだ。これは別世界からの音というよりは、“この世界の音ではない、現実のこだま”の様に聴こえるのである。そしてこの音の正体は、エピローグで明かされる、トーマンス“及び地球”の生命の悲劇的な有り様の真相と結び付くのである。



 石川淳の痛快なピカレスク・ロマン、「狂風記」は、伝奇ロマンにポルノとSFを掛け合わせた、壮麗なジャンクである。この作品世界の中心をなしているのは、“下からは見あげるほど、いちめんにがらくたの堆積。紙屑、野菜屑、あきびん、あきかん、つぶれたダンボール、さびついた自轉車、ぶつこはれの冷藏庫、ぽんこつのカー、猫の死骸、犬の死骸、もしかすると行きだふれの人間の死骸まで下積になつてゐても不思議でなく、その他ごたごた、やけにぶちまけたのが高く盛りあがつて、それは廢品の山であつた”という、広大なゴミ捨て場の“裾野”であり、これはまさしく、塵芥と廃品によって構成された“宇宙風景”に他ならない。それはあたかも、サルバドール・ダリの名画「まぐろ漁」が、狭い入り江の中での壮烈なまぐろ漁を描きながらも、同時に、宇宙を描破している−入り江内部の光景が、宇宙全体を記述している−のと同様である。華麗なテクニックを駆使して描かれた、ガラクタのごとき相貌を呈した大作、という点でも、両作品は通底している。とある死体遺棄事件に端緒を発した物語は、収拾がつかぬままに、「凄ノ王」(永井豪)、「デビルマン」(同)すら想起させる、支離滅裂な結末になだれ込む。そして、この途方もないドタバタの背景であり舞台であり宇宙である“裾野”には、常に荒々しい風が吹きすさんでいる。宇宙の通奏低音としての“風の音”が、ここでは鳴り響いているのだ。



 「狂風記」で印象的なのは、開巻早々、“裾野”の“頂上”で地響きを打って倒れた、とてつもなく巨大な樹木の残骸である。これはエピローグにも現われ、作品世界を円環状に閉じている。この巨木は明らかに“世界樹”であり、これがいきなり“倒壊”しているところがまた、何とも言えず痛快である。

 そして、“世界樹”と言えば−無論、エッダのイグドラシルを筆頭に、世界各地に伝承されているのだが−どうあっても、坂口安吾の「桜の森の満開の下」に触れない訳にはいかない。

 桜の木の魔性、舞い散る花吹雪の魔力、幻想換起力を、怖く妖しく美しく描いたこの作品の中で、“その下に立つと気が触れる”とされる桜の木こそ、“世界樹”ではないだろうか? 勇を鼓してその根元に立った者には、この世ならぬ不吉な風の吹きすさぶ音が聴こえるのである。これは、世界の中心に立ち、宇宙と対峙した者にのみ聴こえる、“宇宙の音”ではないだろうか?



 H.P.ラヴクラフトは、「エーリッヒ・ツァンの音楽」という佳篇を残している。古い、坂の多い街の、ほぼ頂上に近い下宿屋の屋根裏部屋で、夜毎に不思議な、暗澹たる美しさに満ちた音楽を奏でるヴィオール奏者、エーリッヒ・ツァン。彼は、その部屋の、板で閉め切られた窓の外側から聴こえてくる“音”と、音楽を奏することによって対決しているらしいのだ。ある夜、狂った様にヴィオールを掻き鳴らす彼を見ている“私”の目の前で、窓が吹き飛び、恐ろしい風が吹き込んでくる。“私”が窓にかけよった時、窓の外には街は無く、完全な暗黒がどこまでも広がっていた..

 エーリッヒ・ツァンが“武器”とした“音楽”は、秩序の象徴ではないだろうか? とすると、彼が“音楽”によって戦い抜いた異次元の敵とは、無秩序そのものである“ノイズ”だったかも知れない。あるいは、最後にヴィオール奏者を吹き飛ばした“風”の音であったのだろうか?



 これらの魔界の書、異界の映画は、いずれも、“風の音”、即ち、“ピッチ感のあるホワイトノイズ”が宇宙の原形質であること、または、背景音=バックグラウンドノイズであることを、また、そこから意志が、秩序が生まれ出ようとする時、しばしば太鼓の響きとして認識される、ある“リズム”として現出する事を、証言しているのである。

 これは、私に取っては不吉な発見であり、暗合である。「ドグラ・マグラ」だけではなかったのだ。

 私の耳の中で鳴り続ける“ピッチ感のあるホワイトノイズ”は、やはり、宇宙の原形質なのではないか? そして、短三度音程の不思議なリズム、そう、この不安定なリズムは、“リズムの原形質”と呼ぶことも出来るではないか! これが、“太鼓の響き”の胎動ではない、と、断言することは、到底出来ないのではないか? これらの書物や映画は、私が、“マックスウェルの悪魔”であることを、一致して指し示しているのではないか?



 胎児よ

 胎児よ

 何故躍る

 母親の心がわかって

 おそろしいのか

「ドグラ・マグラ」(夢野久作)巻頭歌



 さらにひとつ、畏怖すべき魔道の映画が存在する。これが、私の千々に乱れた観念の旅路の終着駅となるであろう。それは、「2001年宇宙の旅」である。



 この映画のテーマは、超人の誕生、超生命への転生、超文明への進化である、と言うのが、従来の主流の解釈であった。それが誤りだとは言えないが、より本質的な解釈を呈示して見せよう。鍵となるのは、“音楽”である。

 この映画を特徴づける、4つの音楽を取り上げて検討してみよう。そして、1曲だけ、“何故、選ばれたのか(従来の解釈では)理解しがたい”音楽が含まれていることを示そう。まず、フレームをなしている「ツァラトゥストラはかく語りき」。次に、地球軌道上のシャトルやステーションの映像の背景に流れる「美しく青きドナウ」。月面上の、リゲティの「永遠の光を」。最後に、モノリスのテーマとも言うべき、同じくリゲティの「レクイエム」。

 最初に、これらの音楽が、BGMとしての効果を狙って選ばれたのだと仮定して、各音楽がそれに適合しているかどうか検証してみよう。まず「ツァラトゥストラ」だが、これは問題なさそうである。月、地球、太陽が並んで現われる、なんとも大仰なシーンに相応しい、なんとも大仰な音楽である。「ドナウ」もベスト・チョイスだ。宇宙開発の黄金時代を高らかに歌い上げている映像と、綺麗に溶け合っている。月面上を滑るように走るホバークラフトと、神秘的な「永遠の光を」。いわゆる通俗宇宙SF映画的組み合わせであると同時に、続いて現われる“モノリスのテーマ(「レクイエム」)”と同質のソノリティの声楽であり、見事なブリッジをなしている。問題は、その「レクイエム」である。この響きはあまりに不吉過ぎないだろうか? まるで呪詛の様ではないか? どう考えてもミスマッチではないか?

 では、角度を変えて、“効果”ではなく“内容”から選ばれたのだと仮定してみよう。超人の誕生を暗示する「ツァラトゥストラ」は、やはり相応しい選曲である。(と言うより、この曲がオープニングとエンディングに起用されたことが、従来のこの映画に対する解釈を規定してきたとさえ言える。)「ドナウ」は、内容を考えると意表をついた選曲であるが、“宇宙船のダンス”に相応しいと言えば言える。「永遠の光を」の“主よ、永遠の光を彼らの上に照らしたまえ。…永遠の安息を彼らに与え、…”という“歌詞”は、おそらくは似つかわしくないであろう。そして、やはり「レクイエム」が問題である。何故、“死者のための鎮魂ミサ曲”が“モノリスのテーマ”なのだ?



 「レクイエム」が起用された真の理由は、それが“クラスター音楽”だからなのであった。“クラスター”、つまり、“秩序あるホワイトノイズ”! 「レクイエム」はモノリスと共に、地球上と月面と木星軌道上と、計3回現われるが、無論、3度めの出現が“本番”である。“秩序あるホワイトノイズ”に加えて、ノイジーなサウンドエフェクトも合成された轟音の中、華麗に展開される“オデッセイ”の光景は、実は、宇宙創成の情景なのであった。ホワイトノイズの海から源初の和声や源初のリズムが浮かび上がっては混沌に戻ってゆく、この恐ろしい音楽が、その証拠だ。“何者かが”自らのエントロピーを爆発的に増大させ、エントロピー無限大の海から、宇宙を、秩序を抽出しつつある情景なのだ。言うまでもなく、恒星といい星雲といい、全ての宇宙現象は、莫大なエントロピー増大過程にある。局所的には確かにそうだ。しかし、熱死状態にある“超宇宙”の中の、ごく局所的な(爆発的な)エントロピー減少過程として、この“宇宙”の“出現”を捉えることは可能だ。(古色蒼然たる宇宙論ではあるが、なにしろ、1968年に公開された映画なのだ。)

 スターゲイトのシーンが、こうして解けてみると(しかし実は−すぐ後で解明する様に−まだ、恐ろしい意味が隠されているのだが)、この映画全体の意味が見通せてくる。即ち、この映画においては、“人類の夜明け”の章が終ってから以降は、“主要登場人物”のエントロピーが増大し続けるのだ。もう少し正確に言うと、彼をとりまく情報と世界が縮退し続けるのである。

 最初は、ヘイウッド・フロイドだ。彼は地球に属している。無論、彼の知り得た秘密は、人類の大多数には伏せられているのであるが、精神的には地球を背負っている。舞台がディスカバリー号の内部に移り、登場“人物”が“3人”に絞られた時点で、世界がぐっと狭くなる。地球とは定時連絡を行っているのだが、それもAE−35ユニットの“故障”で危うくなる(ことが、暗示される)。HALを除く2人には、探検の真の目的すら教えられていない。舞台は事実上、密室となる。プールが殺される。人工冬眠中の3人も殺される。世界は小さくなり続ける。そしてついに、ボウマンはHALを“殺す”。この“殺し方”が恐ろしい。HALの記憶素子を“徐々に”抜いていく、即ち、HALは、記憶を、能力を、(あるとすれば)感情を、少しずつ、“植物人間”状態になるまで失って行くのである。(「分解された男」(アルフレッド・ベスター)の“分解刑”を連想した人もいるだろう。これはある意味では最悪の拷問、最も惨たらしい刑罰である。)HALの情報量はどんどん減少して行く。最後に、HALに歌を歌わせ、そのピッチがどんどん落ちて行く、という、技術的には全く必然性の無いシーンが挟まれているが、これは、HALの“内宇宙”の“縮退”を、 見事に象徴的に表現している。これが、このかなり長いHAL殺しのシーケンスの本質が、実は“エントロピーの増大”の描写にあり、同時に、それがこの映画全体の隠されたテーマであったことの、証拠である。

 木星に到着したボウマンは、“植物人間”と化したHALをディスカバリー号ごと置き去りにして、ポッドに乗って、浮遊するモノリスに接近する。彼の“世界”がどんどん縮退して行くのが判るだろう。そして、スターゲイトへの突入! エントロピーは加速度的に増大し続ける。ボウマンの表情を見よ! どんどん痴呆化して行くではないか! あの美しい光の洪水は、実はボウマンを“解体”して行く過程の描写なのであった。

 そして最後のロココ調の部屋。これが、ボウマンの“外部”にあるのか“内部”にあるのかは、もはや些事である。本質的なのは、ここに現われる“未来のボウマン”が、実は全て“白痴”であることだ。彼らは、情報を抜き取られた抜け殻なのである。そして、ついには胎児に帰る..



 では、これら一切を仕掛けた“モノリス”とは、何であったのか? 私は、情報を喰う“怪物”なのではないかと思う。400万年前の地球に飛来したモノリスは、この状態では大した情報を収穫出来そうもなかったので、類人猿に知恵を与え、やがて彼らが宇宙に飛び出せるほどの高度で複雑な情報を持つに至った時、それを察知出来るよう、月面上にスイッチを仕掛けた。そして罠にかかった人類は、ディスカバリー号を送り出し、木星で待ち構えていたモノリスは、その乗員の“情報”を喰う。(「キャッチワールド」(クリス・ボイス)と似たビジョンではある。)ロココ調の部屋に、最後に現れたモノリスは、文字どおり残骸となったボウマンから、“情報”の最後の一滴まで絞り取りに来たのである。モノリスが、残りの人類をどうしたかは、興味深い問題であるが、この映画では明らかにされていない。



 以上の考察により、この映画の本質は明らかになった。それは、自らのエントロピーを増大させることによって“混沌”から“宇宙”を紡ぎだした、“造物主”の物語なのであった。スターゲイトへの突入に至るストーリーは、全体が長大な序曲であり、エントロピーの増大を暗示している。モノリスは、このテーマのストーリーを成立させるための、狂言回しに過ぎない。ホワイトノイズの海から秩序が浮かび上がってくる「レクイエム」こそ、この映画の本質を暗示していたのであった。



 しかし..私は思うのだ。何故、ボウマンは胎児に帰ったのであろうか? 彼が“創造”した“宇宙”は、あの胎児の“外部”にあるのであろうか? “内部”にあるのであろうか? ノイズと胎児。私は再び「ドグラ・マグラ」を想起する。スター・チャイルドは、何を夢見ているのだろうか? 地球の夢だろうか? モノリスの夢だろうか? 我々は、彼の夢見た存在なのだろうか? (世界を夢見る胎児と言えば、「孔子暗黒伝」(諸星大二郎)のエンディングで、「暗黒神話」(同)の世界を夢見るヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)も、忘れがたい。)

 私の耳の中で絶え間なく鳴り続けるホワイトノイズ、これは確かに宇宙を、音楽を産み出す混沌に違いあるまい。あまたの異端の書に記された証拠に加えて、スターゲイトに「レクイエム」を聴く時、もはやそれを疑うことは出来ない。事実、その「レクイエム」は、最後に圧倒的な重低音へと変貌し、それは「ツァラトゥストラ」の壮麗なファンファーレを、機能和声の象徴とも言うべき、壮大な秩序を導き出したではないか! そして私の耳の中でも、重低音の吐息が、ホワイトノイズから生れでようと、音楽になろうと、もがいている!

 そうだ、私は“マックスウェルの悪魔”なのだ。他の全ての“マックスウェルの悪魔”たち同様、“混沌”から“秩序”を取り出しうる祝福された存在、その代償に自らの“情報”を失う呪われた存在なのである。しかし、その“混沌”と、目覚めている限り対峙し続けなければならない“悪魔”は、私の他にもいるのだろうか?

 “マックスウェルの悪魔”は、ノイズから光を、星々を、銀河を紡ぎだし、同様に、ノイズから音楽を紡ぎだす。宇宙は音楽の比喩であり、音楽は宇宙の鏡像である。

 “マックスウェルの悪魔”は創造神であり、創造のために自らの情報を失って胎児となる。世界は、“マックスウェルの悪魔”の見た夢なのだ。私はいつの日か発狂するのかも知れない。そして世界を、宇宙を、音楽を夢見、造物主となるのであろう...



 ..かくして、私の思念は時空を極めた旅を終え、この、暗くて狭い部屋に帰って来た。午前3時。ホワイトノイズはいよいよ大きく、短三度音程はますます深く、超低音の吐息はどこまでも昏い..



 その瞬間にわたしとソックリの顔が、頭髪と鬚を蓬々とさして凹んだ瞳をギラギラと輝かしながら眼の前の暗の中に浮き出した。そうしてわたしと顔を合わせると、たちまち朱い大きな口を開いて、カラカラと笑った……が……。
「……アッ……呉青秀……」
とわたしが叫ぶまもなく、かき消すように見えなくなってしまった。

……ブウウウ−−ンン−−ンンン…………。

「ドグラ・マグラ」(夢野久作)完

*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 17 1995 
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