怪物 (1948)


 作者の全短篇作品中、最も名高いもの。この原色の“ぎらめき”に魅入られた読者は、二度とヴァン・ヴォークトの宇宙から逃れることはできない。

 いつともどことも知れぬ、生命の影もない荒廃した惑星に、狂暴で強力なガナ族の宇宙船が着陸する。彼らは天体発見装置を駆使して、宇宙の中から居住可能な惑星を見つけだしては、先住民族を皆殺しにして版図を広げてきた、征服欲に満ち溢れた種族である。天体発見装置と、ずっと昔に死んだ生命体を蘇らせる再生装置、このふたつが、支配種族としての彼らを支えていた。

 この惑星には、廃墟しか残されていなかった。ガナ族の探検隊は博物館を発見し、そこに残されていたミイラを再生装置にかける。最初のミイラから蘇生した男はエジプト王であり、目前にいるガナ族を見て、神か悪魔かと疑う。彼は直ちに光線銃で焼き殺される。(ここで読者には、この星がどこだか明らかになる。)二番目に蘇生した男はなんの役にもたたぬアル中であり、これも直ちに殺された。第三の男は..


「星からの客人かね? きみたちは何か一定の方式に従って探し回っているのか? それともただの偶然でここに?」

 この現状把握の素早さは、ガナ族の意表をつくものであった。彼らは不安を感じながらも、科学者然としたこの男(華奢な老人)に、博物館の中を案内させる。彼は、自分よりも前の時代のもの、あとの時代のものを、見てまわる。そしてある装置を説明して、これは、原子の爆発が起こる時、その原子の数をカウントして制御する装置だという。そのような装置は、ガナ族も聞いたことはない。ガナ族の船長は素早く決断し、


「この怪物を殺してしまえ!」

 しかし間に合わなかった! その瞬間、ガナ族の警備員全員が焔で殺され、“怪物”はエネルギー・スクリーンに守られて、悠々と出口から出ていったのである。

 こうして、ガナ族と“怪物”との戦いの火蓋が、切って落されたのだった。直ちに博物館を脱出したガナ族は、原子爆弾で博物館を都市の廃墟ごと壊滅させる..しかし、その数日後、ガナ族の会議の場に、怪物が現われたのだ。怪物は、テレポート能力を持っているのである。エネルギー・シールドも役には立たない。怪物は現われたかと思うと姿を消し、船長は直ちに宇宙船に連絡を取って、船内の天体発見装置と再生装置を破壊させる。怪物にこの秘密を知られたら、一大事だからである。神出鬼没の怪物(しかし一切攻撃せず、ただ接近するだけである)は、ガナ族の攻撃をものともせず、ただ、天体発見装置の秘密を教えろ、と、迫るだけなのだ。

 これほど強力な種族を滅亡させるような、何がこの星(地球)に起こったのか? それは宇宙から流れ込んできた核粒子嵐であって、直径は90光年もあり、彼らの「能力限界」を越えていた。“とうの昔に宇宙船を捨てていた”怪物の種族には、逃れるすべもなかった−−彼らの植民惑星も、嵐の通過上にあったからだ、というのである。

 ガナ族は、気を取り直した。もはや“怪物”を恐れる必要がないことが、わかったからだ。“怪物”の種族は宇宙船を持っておらず、今やガナ族は持参の天体発見装置を破壊してしまったので、ガナ族の母星を“怪物”に発見されることもない。ガナ族は、ほどなく大爆撃を地球に加えるであろう。“怪物”は、その爆発の多くを(超絶的な超能力で)食い止められるかもしれないが、ガナ族の宇宙船が彼らの母星から呼んで来る大船団による爆弾の嵐を食い止めることは出来ないであろう、と、全く平然としている“怪物”に最後通牒を突きつけて、ガナ族は宇宙船に引き上げて、地球から飛びたつのだが..

 地球から48光年離れたところで、“怪物”が船内に潜んでいることが明らかになる。離陸した時は、確かに地上にいたのに。そう、“怪物”は、数十光年もテレポートすることが出来るのだった。彼らの種族が宇宙船を捨てていた、真の理由がこれだったのだ。今や“怪物”のプランは明らかである。船内には天体発見装置も再生装置も残されていないのだから、ガナ族が母星に帰るのに同行して、彼らの星で再生装置を手に入れ、テレポートして地球に帰り、そこで同胞を十分な人数、蘇らせて、ガナ族の宇宙艦隊を迎え撃ち、これを撃退しようというのであろう。そして彼らの母星を飛び立って、ガナ族に逆襲するであろうことは、火を見るよりも明らかである。誇り高く勇敢なガナ族の探検隊は、種族と帝国を守るために自決を選ぶ。すなわち操縦装置を破壊して、手近の恒星へ向けて、船首を固定したのだ。ガナ族の母星の位置を秘匿し“怪物”を道連れにして殺すために。

 しかし突入直前になって、真相が明らかになった。地球上でガナ族が天体発見装置と再生装置を破壊する直前、実は“怪物”は既に宇宙船内にテレポートして、その秘密を探りだしていたのだった。そのあとのことは一切、ガナ族を自決させるための罠だったのである。

 ガナ族の滅亡の時が来たのだ。“怪物”はほどなく、この船から出ていくであろう。彼は既に、再生装置を手に入れた。彼の種族は地球で蘇るであろう。そして天体発見装置を手に入れた彼らは、それで目的地を捉えつつ、数十光年もの空間を跳躍するテレポート能力で、宇宙へ広がり、「有害な」ガナ族を掃蕩するであろう。そしてこの未来の災厄を知っているガナ族の一行は、ほどなく恒星に突入して全滅する..


 まさしく「SFであること以外の価値を持たない」作品である。何よりも痛快なのは、遠未来の地球人の超絶超能力である。[;^J^] それなりの思索が無いとは言えない物語であるが(例えば「征服」に関する考察)、基本的には、単なる超能力戦争であり、しかも、その描写は決して派手ではない。それが、これほどのカタルシスと、愛国心ならぬ「愛地球心」をかきたてる [;^.^] ところに、作者の腕の冴えが見られよう。

 論理的に微妙に辻褄が合わないところは、ある。目撃者たるガナ族を皆殺しにしたいのであれば、“怪物”は、わざわざこの様な芝居(天体発見装置の秘密を知らない振り)をしてガナ族を飛び立たせ、その宇宙船の中にテレポートして脅し、以って自決せしむる、などという手間を取る必要は、ないはずだ。別に手を汚すことを嫌っている風でもないので(これまでの(ある意味で一方的な)戦闘で、大勢のガナ族を殺している)、さっさと地球上で殺してしまえばよかったのである。しかし、この自決(恒星への突入)のシーンは、私にとっては実に印象深い。

 そう、“疾空感覚”。ここでは死に向かっての疾空であるが、暗黒の(あるいは紺碧の)宇宙を、時には闇雲に深く深く突き進んで行く感覚。この“疾空感覚”が印象的な作品としては、例えば「飢えた宇宙」(小松左京)や「無の障壁」(光瀬龍)がある。「怪物」も含めて、共通して言えることは、これらはいずれもSF中のSFだと言うことだ。疾空感覚は、SFの原点である“宇宙SF”の、原感覚と言えるのではなかろうか?

 本編はまた、「地球人は宇宙で一番強い(偉い)」テーマの、三大傑作のひとつでもある。他の2篇は、「太陽系最後の日」(クラーク)と、「偉大な種」(吾妻ひでお)である。


(文中、引用は本書より)


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MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: May 19 1996 
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