新・ベルリオーズ入門講座 第10講

レリオあるいは生への復帰

− 管弦楽、合唱及びかくされた独唱つきの叙情的独白劇(1831)



“だが、どうして私はこんな危険な空想にふけるのだろう? これでは人生と和解できないではないか..死は私を受け入れはしなかった..死の腕の中に私は身を投げたのに、 死は私をそっけなく押し戻した。ならば、生きよう。私の暗い生活に、稀にみる幸福の光を投げかける崇高な芸術が、これからも私がさ迷い歩く孤独な砂漠で、私を導いてく れますように!”

(レリオ)


 幻想交響曲の続編である。

 ..と聞いて、ギョッとするのが、普通のクラシックファンであろう。それほどまでに知名度の低い作品であるし、また、「交響曲の続編」というアイデアが異様でもある。

 曲の内容もまた、ギョッとするものである。これはほとんど音楽ではないのである。「独白劇」という標題が示す様に、舞台上ではレリオを演ずるひとりの俳優が膨大な台詞を語り、幕の背後に隠されたオーケストラと独唱、合唱が、彼の心象風景を描く音楽をはさんでいく。最後の曲に移る前に幕が上げられ、レリオはオーケストラに稽古をつける。再び幕が下ろされ、レリオは舞台から立ち去る。

 まるで前衛劇である。ベルリオーズの作った最も奇妙な作品であるのはもちろん、音楽史上でも、ほとんど類例を見ない。



 この作品は、作品自体よりも、その成立を取り巻く事情の方が面白い、と言うのは勿論言い過ぎであるが、それにしても、世が世ならばベルリオーズは、「新進作曲家のスキャンダル! その常軌を逸した行動の真相は?!」と、写真週刊誌その他に潰されていたに違いないのである。[^J^]

 ベルリオーズがシェイクスピア劇に出演するハリエット・スミッソンを見初めたのは1827年であるが、この花形女優は、海のものとも山のものとも判らぬ作曲家の卵なんぞには一顧だに与えずに(というより、気違いじみたラブレターを送り続けるベルリオーズに気味悪い印象を抱いたまま)、イギリスに帰ってしまう。彼女に対する復讐の音楽が「幻想交響曲」なのだが、この片思いの恋人を徹底的に貶しめた作品が初演された1830年頃には、彼女に対する想いも大分冷めていた。

 この頃の彼の心を占めていたのは、新しい恋人、新進女流ピアニストのカミーユ・モークである。この年にローマ大賞を受賞した彼は、帰国したら結婚すると約束して、後ろ髪を引かれる思いでローマに出発した。

 しかし、イタリア滞在中の彼が受け取ったのは、彼女が別の男と結婚することを知らせる、彼女の母親からの手紙であった。逆上したベルリオーズは、「罪ある二人の女(カミーユとその母親)と、罪無き一人の男」を殺し、自らも死のうと、二連発のピストル二挺に弾を込め、自殺用の阿片とストリキニーネの小壜をポケットに入れ、「変装用の女中の服装一式」を買い込み、パリへ向かったのである。途中ジェノヴァで、衣装をなくしたことに気が付いた彼は、町じゅう駆け回って、出発までに新たに変装用の衣装を買い求めた。そのようなことはパリに着いてから、いくらでも出来ることに気が付かないほど、混乱していたのである。

 不気味なほどに、幻想交響曲を思わせる展開である。しかし彼は断頭台には送られずにすんだ。ジェノヴァの警察は、挙動不審の彼にトリノ経由を認めず、ニース経由を命じたのであるが、そのニースへの途上..「馬は全速力で駆けた。そして私をフランスへ運んでゆく。夜になった。コルニッシュ街道を駆けていた。…そのとき、突然に、御者が馬をとめた。馬車の車軸に車輪止めをつけるためである。一瞬、沈黙がおとずれた。…波が狂ったように絶壁の下に砕けた。この波のくだける音が、なにか恐ろしい反響を私に与えた。」(回想録より)

 死へ向かう彼の混乱した魂に、生の側からチャンスが与えられた。彼は、ローマのアカデミー館長に、まだ規則に違反してイタリアからは出国していない故、寄宿生名簿から抹消しないで欲しい、と手紙を書いた。もしも返事がOKならば、命を捨てるには及ぶまい、NOならば..計画を再開するまでのことだ! こうして彼はニース(当時は、フランス領ではなかった)で返事を待った。館長からの返事は、一切を不問に処す、という暖かいものであった。「『これで、奴らは救われたのだ!』深い吐息をついて、私はこう思った。『そして今や、私が生きてゆけるとすれば! 惑わず、幸運に、音楽のために生きてゆける、ということならば? ああ、それはたいした仕事だ!..よし、やってみよう。』」(回想録より)

 こうして、幻想交響曲をなぞるが如き経過を見せた事件は、平穏な解決を見た。そして彼はこの事件の後半の心理状態の推移を、音楽作品としてまとめることにした。これが「レリオあるいは生への復帰」であり、ローマ滞在中の1831年に完成している。レリオが幻想交響曲の続編であると同時に完結編であるというのは、以上に述べた理由による。



 それにしても奇怪な形式の作品である。彼は幻想交響曲において、一切言葉を使わずに、管弦楽に文学を語らせることに成功した。まさに新時代の幕開けと呼ぶに相応しい、画期的な成果であった。ところがその続編に溢れているのは、膨大な量の台詞である。これは、音楽の文学化という意味では、さらに極端な形式へ一歩踏み出したとも言えるし、音楽だけでは語りきれなかったのか、という視点からは、一歩後退とも言える。しかし後者の観点は、いささか狭量であろう。それは、例えば「南極交響曲」「ダフニスとクロエ」「ドン・キホーテ」等にウィンド・マシーンが用いられているのを、「勿体ないことだ、彼らほどの管弦楽法の名手が!」と嘆くようなものである。

 評価は様々であるが、間違いなく的外れだと思うのは、「20世紀の先取り、19世紀のアヴァンギャルド!」という賛辞である。ベルリオーズは、形式を壊したり新しい形式を創始するようなことはしなかった。そういうタイプの革命家ではなかったのだ。だからレリオで採用した異様な構成を練り上げ、磨き上げていくことはしなかった。その意味では、音楽史に忘れ去られた、孤立した作品なのである。

 もう一つの特記事項として、挿入されている6曲は、全て旧作の流用だということを記しておこう。手抜きと言えば手抜きかも知れないが、早くも忘れられつつある愛着あるピースを、幻想交響曲の続編という「重要な」作品に組み込むことによって後世に残そう、と考えたのだと推測する。



 衰弱したレリオ(幻想交響曲の主人公であり、作曲者自身でもある)が、よろめきつつ舞台に現われ、いましがたの悪夢の恐怖(いうまでもなく、幻想交響曲の内容である)を思い出す。ここで最初の曲、ゲーテによるバラードが舞台裏の歌手によって歌われる。


1. 漁師 テノール独唱とピアノ伴奏。1828年頃の歌曲の流用。
 (これは現実の歌ではなく、彼の心の中に聴こえてくるのである。以下、第5曲まですべて同様。)この歌の途中で、彼は歌詞の中の「水の精」という言葉に、彼を苦しめた女を思い起こす。(幻想交響曲の固定観念が、ヴァイオリンで奏される。)
 彼はとにかく生きる決意をするが、生きることの苦しさを思い、ハムレットの To be or not to be .. という懐疑を連想し、シェイクスピアの天才に想い致った時、作曲家としての本能が目覚め、空想上の音楽が聴こえてくる。
2. 幽霊の合唱 合唱と管弦楽。1829年の、ローマ大賞コンクールのための作品「クレオパトラ」の中の「瞑想」のリメイク。原曲は、ソプラノ独唱。
 彼はシェイクスピアについての演説を始め、シェイクスピアに限らず、偉大な芸術家の作品を勝手に改変して、「訂正と完全化」を施した、とうそぶく手合いが横行する社会を、地獄以下だ! と糾弾し、こんな社会に住むよりは、南イタリアにいって、山賊の下っ端になりたい! と叫ぶ。(この箇所の台詞の、気圧される様な勢いと熱さこそ、ベルリオーズだ!)彼はいったん退場し、山賊帽や鉄砲、サーベルを持って再び登場して、次の曲が演奏されている間、武器を手にして山賊を気取る。(危ない、これは危ないぞ..[;^J^])
3. 山賊の歌 バリトン独唱、男声合唱と管弦楽。1829年頃に作曲された「海賊の歌」のリメイク。
 彼は武器を取り落とし、涙を流す。気を取り直すと、その想いは狂乱のこの世を離れて、天国に向かう。そして彼の架空の声が歌う次の曲に聞き入るのである。
4. 幸福の歌 テノール独唱と管弦楽。1827年の、ローマ大賞コンクールのための作品「オルフェウスの死」の導入部のテノールソロのリメイク。
 彼は、何故あのジュリエット、オフェリアに会えないのか、と悲しむ。(これはもちろん、ハリエット・スミッソンを指している。)そして落ち込んだ様子で、次の曲を聴く。
5. エオリアン・ハープ−回想 管弦楽。同じく「オルフェウスの死」のラストシーンの流用。
 (ここで、エピグラフに引用した台詞が入る。)落ち込んでいる場合ではない。生きるために、仕事を、作曲をしなくては! 彼にはそれが出来るのだ、「シェイクスピアの『テンペスト』にもとづく幻想曲」が完成しているのだ! (レリオが退場すると、それまで下ろされていた幕が上がる。オケがスタンバイしており、レリオが入ってくる。)レリオは、てきぱきと指示を与えると、リハーサルを開始する。
6. シェイクスピアの『テンペスト』にもとづく幻想曲 管弦楽と合唱。1830年にオペラ座で初演されている。
 演奏が終ると、彼はオーケストラをねぎらい、下がらせる。幕がおりる。再び幻想交響曲の固定観念が、かすかに聞こえてくる。「まただ、また聞こえてくる。そして永遠に!..」と呟き、舞台を去る。

 私は先に、“ベルリオーズは、形式を壊したり新しい形式を創始するようなことはしなかった”と述べた。その通りである。しかし、絶えず実験し続けたのだ。(だからこそ、(安定した)新しい流派の始祖にはなれなかったのである。)彼の最初の大規模な実験は、(次講で取り上げる「荘厳ミサ曲」を除けば)「幻想交響曲」であったのであるが、その続編は、遥かに極端な実験に突っ走ってしまった。

 キーワードは三つ。「多様性」「多義性」「コラージュの原理」。さらに追加すると、「音楽であることからの脱却」。

 「多様性」については、上記の曲内容の説明から明らかであろう。形式といい、各々のピースの属する“次元”のバラエティといい、繰り返すまでもない。

 「多義性」について言えば、そもそも、この作品が属する世界は“夢か現実か?”という問題に、確答を与え得ない。なるほど、レリオ(ちなみに、彼の名前の母音の並びは、“ベルリオーズ”と同一である)は、「幻想交響曲」の悪夢から目覚めてきた。しかし、悪夢から目覚めた先が、現実だと言えるのか? 次の悪夢ではないと言い切れるのか? さらに、ここで彼が聴く一連の音楽は、その現実(あるいは悪夢)の中で“彼”が聴いた音楽なのか、あるいは、その現実(あるいは悪夢)の中で“彼の意識”が聴いた音楽なのか? 最も事態をややこしくしているのが、「彼が現実に目覚めて指揮をした」“テンペスト”である。ここで言う“現実”は、どのレベルの現実なのだ? 「幻実」という言葉の創造者が誰であったか忘れてしまったが(川又千秋だったかな?)、この言葉がこれほど似つかわしい音楽も、またとない。

 「幻想交響曲」は、(プログラムの版によるが)どこまでが現実で、どこからが夢なのかがはっきりしていた。これと比べると、改めて、「レリオ」の異様さに驚かれるであろう。

 「コラージュの原理」。この、既存の楽曲だけで構成した意図を、一応は“愛着あるピースを、…後世に残そう、と考えたのだ”と推測したし、一応は当たっていると思うのだが、それ以上に、20世紀芸術界の“発明”である「コラージュ」の効果が発生してしまった。前述のごとく、これは今世紀の音楽界の潮流に結び付く作品ではないから、過大評価をしてはならないが、しかし既に1831年に「実施済み」であったことは覚えておこう。

 「音楽であることからの脱却」と言うのは、この作品は、音楽としては全く自立しておらず、かと言ってテクストの自立性も無い、と言うことである。これは、数年後の大傑作、「ロメオとジュリエット」の特徴でもあり、従って、その粗削りな原型とも言えるのである。「音楽であることの自立性の低さ」は、一見、ネガティブな要素であるが、むしろ、「音楽であることを超えようとする試み」と捉えるべきである。ヴァーグナーは、彼の足下にいる。

 あるいはこう言い換えても良い。「幻想交響曲」は、「音楽の構成原理」から脱却して「文学の構成原理」で(大規模な)楽曲を構成して見せた。「レリオ」には「文学の構成原理」すら、無いのである。この時代に出現した、この様な作品に、後継者が現れる筈も無かった。



 初演は1832年12月9日で、幻想交響曲に続けて演奏された。この演奏会には、ハリエット・スミッソンも出席していた。彼女は今は劇団のマネージャーで、多額の負債を抱えて苦しんでいた。この日も音楽どころではなかったのだが、ベルリオーズの友人が引っ張り出して来たのである。彼女はベルリオーズのことなど、とうに忘れていたのだが、会場に到着した途端、場内の視線が一斉に向けられるのを感じて、いぶかしく思った。そして、幻想交響曲の不思議な標題を読み、レリオの「ああ、あのジュリエットやオフェリアに、どうして巡り合うことが出来ないのか?」という台詞を聞くに及んで、真相を悟ったのである。

 彼らの立場は逆転していた。かつての花形女優と一介の作曲家の卵は、いまや、人気の凋落した女優兼赤字経営者と日の出の勢いの人気作曲家として。やがて二人は結婚するのだが、その不幸な結婚生活は、この時点で暗示されていたように思う。



 後日譚をもうひとつ。レリオの初演の20年後、既に指揮者としても確固たる地位を築いていたベルリオーズが、卓越した女流ピアニストとして一世を風靡していたカミーユ・プレイエル夫人と、ロンドンでウェーバーの小協奏曲を共演した際、指揮を誤って問題を起こしている。危うく殺しかけたかつての恋人との共演には、平静な心で臨めなかったのであろう。無理もないことである。


*データ

作曲年代
1831年
初  演
1832年12月9日:パリ
編  成
フルート2(1人はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コーラングレ1、クラリネット2、バスーン2、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ1、ティンパニ1対、大太鼓、ゴング、弦5部、ピアノ(四手)、ハープ1、俳優、テノール独唱2、バリトン独唱、混声合唱。
構  成
詳細は略。本文参照のこと。
所要時間
約55分

*推薦CD

* インバル/フランクフルト放送交響楽団/他
 (日本コロンビア デンオン CO−3218〜9)
 幻想交響曲とのセット。万全の演出とは言えないが、演奏は申し分無い。第一級の傑作とは言いがたい「テンペストによる幻想曲」その他が、傑作に聴こえるほどである。但し、限定発売だったので、入手困難かも知れない。
* ブーレーズ/ロンドン交響楽団/他
 (ソニー ソニークラシカル SRCR9784〜6)
 ブーレーズによるベルリオーズの全録音がまとめられた3枚組に収められたテイク。ジャン・ルイ・バローがレリオを演じている点が何よりも魅力である。(彼はフランス映画「幻想交響楽」で、ベルリオーズを演じている。TVの深夜映画で2回観ただけだが、見事なものであった。LDにならないだろうか..)また、最後の「テンペストによる幻想曲」の前に幕が上がるところで、はっきりと雰囲気が変わり、リハーサル前のオケのざわめきと騒音が収録されているのは、大正解だ。さすがはブーレーズである。インバル盤では、音合わせのみであり、少々味気ない。

(「回想録」からの引用は、白水社刊 丹治恆次郎訳 による。また、「レリオ」からの引用は、拙訳による。)



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Last Updated: Dec 28 1995 
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